第16話

 意識が、水底からゆっくりと浮上するような感覚。まぶたの裏でちかちかと明滅していた光が、やがて輪郭を結び、一つの情景を描き出す。


 そこは見慣れた書斎であった。壁一面を埋め尽くす書架、鞣革なめしがわと古い紙の匂い、そして窓から差し込む午後の柔らかな光。万事が記憶の中にある通りであり、私はその光景を、まるで天井から吊り下げられた観客のように、静かに見下ろしていた。


 眼下では、黒檀の机を挟んで二人の男がチェスに興じている。

 片や、壮年の私。神学論争においては右に出る者なしと謳われた、気鋭の枢機卿。

 そしてもう一人は、今は亡き教皇聖下その人であった。


 これは、いつかの記憶の残滓ざんしであろうか。


 聖下の数少ない、そして唯一と言ってもよい娯楽の時間が、この私を相手にしたチェスであった。国務に追われ、祈りに明け暮れる聖座の日々において、この盤上での静かな戦いだけが彼をひとりの知的な遊戯者へと引き戻す。その唯一の息抜きに、この私を引きずり出すのが聖下の常であった。聖座の慰撫いぶという、断るすべのない大義名分の前に、私の貴重な怠惰の時間がどれほど盤上の攻防に費やされたことか。聖下の指し手は実直なようでいて、気付けばこちらが仕掛けた罠ごと包み込んでしまうような、まるで神の御心そのもののように、油断ならぬものだった。


 やがて、眼下の私が駒を一つ進め、軽薄な響きを多分に含んだ声で語りかける。

「こうして自由になれる時間が、この一局だけとは。聖下の御身も、なかなかに不自由なものですね。俗世の苦労が絶えぬご様子、お察しいたします」


 対する聖下は、穏やかに微笑み、淀みない手つきで応じた。

「ふふ、他人事のように言うではありませんか。私はね、この席の次は、貴方が最もふさわしいと思っている」

「ご冗談を。私は聖下よりも一日でも早く、神の御許に駆けつけるべく、日々ピザとコーラによる敬虔な修行を積んでいる身です。どうぞ、末永くその座に君臨し、私のような怠け者に面倒事が回ってこないよう、お守りください」

 そんな私の戯言に、聖下は楽しそうに喉を鳴らす。


 だが、その穏やかな時間は唐突に終わりを告げた。

 ふっと、聖下の笑みが消える。そして、真剣な眼差しで対面する私を見つめた。


「ところで猊下。私はもう、そう長くない」


 その言葉が、世界の引き金だった。

 部屋の空気が、ずしりと重みを増す。暖かかった光は急速に色を失い、窓の外は鉛色の黄昏に沈んでいる。書斎に満ちていた古い紙の匂いが、どこか百合の花を思わせる、甘く不吉な香りに取って代わられていく。影がまるで生き物のように、机上を、書架を、そして聖下の身体を侵食していく。穏やかだった彼の顔が、みるみるうちにやつれていく。頬はこけ、目には死の淵を覗く者の深い疲労が刻まれていく。

 そうだ、この顔を私は知っている。私が最後に看取った、あの臨終の際の顔だ。


 違う、やめてくれ。その言葉を口にしてはならない。

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、私は叫ぶ。

 たのむ、逝かないでくれ。聖下。


 しかし、それは声にならなかった。喉は灼けつくように張り付き、実体のない身体は指一本動かせない。私はただ無力な観客として、眼下の悲劇を見つめることしかできなかった。


 机の向こうの「私」が、静かに口を開く。

「……そうでしょうな」


 その声は紛れもなく自分のものだ。しかし、その響きには絶対的な静けさと、どこまでも安定した抑揚が宿っている。肌を粟立たせるような違和感。私は直感する。これは私ではない、と。


 私の姿を借りた何者かが、駒の位置を一つずつ、寸分違わぬ初期配置へと戻しながら言葉を続ける。

「次の一局が、恐らくは最後。これより先は、盤外からの介入はできません。純粋に、盤上に置かれた貴方がたの指し手だけが、物語を紡いでいく」


 この存在が何を語っているのか、判然としない。

 対する教皇は、驚かなかった。ただ、全てを悟った者の穏やかな微笑みを浮かべ、静かに深く頷く。その瞳には、目の前の存在がもはや旧友ではないことを理解し、それでもなお、その運命を慈しむかのような、深く澄んだ光が湛えられていた。


「ええ、存じております。我々はいつだって、神の沈黙の中で最善を尽くしてきたのですから」

「……指し手を悔い、盤を覆すことも、もはや叶いませんよ」


 念を押すように言葉を重ねる「私」に、教皇はまるで悪戯を諭すように、穏やかな眼差しを向けた。

「分かっていますよ。それこそが、我々に与えられた最後の対話の形なのであると。さあ猊下、最後の一局です。存分に楽しみましょうね」

 その全てを包み込むような声音に、「私」は静かに俯き、再び盤上へと視線を落とした。


 気付けば、私は「私」の視点を得ていた。目の前には聖下がいる。

 薄れゆく意識の中で、彼はなおも笑っていた。

 その笑みがどうしてか、私を投げて満足げに消えていった、あの不合理な聖女候補の顔と重なって見えた。

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