第13話
私は静かに、しかし確固たる意志をもって、熱狂という名の伝染病に冒された群衆の中心へと進み出た。我が寄生生活の宿主にして、今や『女神』という実に身の丈に合わぬ偶像を演じるに至った、哀れなアグネスのもとへ。
傍らに立ち、彼女が新たなコインを指先で弾く厳粛なるその一瞬を捉え、私は腹の底から朗々たる声を張り上げた。さながら、歴史の転換点を告げる預言者のように。あるいは、これから始まる茶番劇の幕開けを宣言する、
「さあ皆様、ご注目を! 我らが女神アグネス様が、次なる奇跡を我らに示されますぞ! これは単なるコイン投げにあらず! この一投は、この街のしけた懐具合と、皆様のぱっとしない暮らし向きが豊かになることを祈願する――『
物語の付与。それこそが、あらゆる事象に意味と価値を与える、古来より伝わる最も効果的な魔術である。単なるコイン投げは、今や街全体の運命を占う神託へと昇華された。観衆の視線が、獲物を狙う鷹のように鋭く、一枚の硬貨へと突き刺さる。
アグネスは一瞬、戸惑ったように私を見た。しかし、周囲の熱狂が彼女の些細な疑問を飲み込んでいく。彼女は再び恍惚の表情を浮かべると、祈りを込めるようにコインを弾いた。
放物線を描いたコインは、吸い込まれるように泉の
「おおおおおっ!」
割れんばかりの歓声が、広場を揺るがした。
私はすかさず、その熱狂を更なる高みへと導く。
「ご覧なさい! 女神様は我々の祈りを聞き届けられた! 皆様の明日からの生活は、神の祝福によって約束されましたぞ! さあ、感謝の祈りを! 女神様への敬虔なる信仰を、形にして示すのです!」
これはすなわち「お布施を寄越せ」という要求の、極めて高尚な神学的言い換えに他ならない。実に効率的な集金システムではないか。人々は狂喜乱舞し、我先にと泉の前に置かれた寄付箱へと銅貨や銀貨を投げ込んでいく。これで当座の旅費は安泰というものである。実にありがたい。
「では次なる奇跡へと参りましょう」
私は、少しばかり疲労の色が見え始めたアグネスを気遣う素振りも見せず、冷徹に次の「物語」を紡ぎ出す。
「街のはずれで熱病に苦しむ老婆がいると聞きます。今度は、その老婆の苦しみが和らぐことを願う――『治癒の一投』!」
アグネスの指が微かに震えた。彼女の純粋さは時として致命的な欠点となる。彼女は私の紡ぐ嘘八百の物語を、その言葉通りに受け止めてしまったのだ。自分のコイン投げが、今や見ず知らずの老婆の命運を左右する。その途方もない重圧が、彼女の肩にのしかかり始めた。
そして――無情にも、コインは盃の
「ああ……っ!」
アグネスの顔から血の気が引く。群衆の間に、失望と不安のどよめきが広がった。私は待ってましたとばかりに、悲痛な表情を作り、天を仰いでみせる。
「なんということでしょう! 皆様、聞こえませんか。女神様が嘆いておられるのを。皆様の中に、病に苦しむ老婆の身を案じることなく、ただ奇跡という見世物だけを期待していた不浄な心を持つ者がいる、と!」
失敗の責任を、観衆の信仰心の欠如へと転嫁する。これもまた宗教が歴史の中で幾度となく用いてきた常套手段である。人々は私の言葉に、はっとしたように顔を見合わせ、自らの胸に手を当てて懺悔を始める。失敗の責任をなすり付けられた彼らは、アグネスを責めるどころか、次こそはと、より一層真摯な眼差しを彼女へと向け始めるのである。
責められることのない失敗。しかし、その失敗の責任だけが、目に見えない毒のようにアグネスの心を蝕んでいく。「豊穣」「治癒」「慈雨」「平和」……私が与える大げさな物語の数々が、彼女の精神を少しずつ、しかし確実に摩耗させていった。
最初は快感ですらあった大歓声が、今や彼女を責め立てる怒号のように聞こえていることだろう。成功しても、次の成功を期待する重圧が。失敗すれば、誰かの不幸を招いたという罪悪感が彼女を苛む。
彼女を偶像へと祭り上げたのは民衆の欲望であり、その偶像を打ち砕くのもまた民衆の欲望に他ならない。歴史とは、その繰り返しである。ならば、いま私が行っていることは、歴史の必然を少しだけ早回ししているに過ぎない。これは救済と呼ぶにはあまりに利己的だが、破滅と呼ぶにはいくらか優しい。いわば避けられぬ終幕へと至る物語の、最も穏当な最終章を私が書き加えてやっているだけのことなのだ。
泉のほとりに立つ乙女は、もはや別人だった。 熱狂という名の祭壇に捧げられた、孤独な生贄の姿である。 運命の女神が、彼女を見放す瞬間は、もう目前に迫っていた。
そして、ついにその瞬間は訪れた。限界まで張り詰めていた糸が、ぷつりと切れるように。アグネスの指先から、完全に力が抜け落ちたのだ。もはや彼女の動きは、祈りなどではなかった。ただ責務から逃れたい一心でコインを投げ続ける、恐慌に駆られた反射運動にすぎない。
ポチャン。
コインは力なく飛び、盃のはるか手前で虚しく水面を叩いた。
静寂。
ポチャン。
再びの水音が、群衆の間に明確な失望の空気を広げる。
「どうしたんだ……?」「女神様の御力が……」
連続する失敗。泉の底に沈んでいく硬貨の姿が、熱狂の終わりを無情に告げていた。アグネスの瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。観衆の熱狂は急速に冷え、疑念と不安へと変わりつつある。このままでは彼らの矛先がアグネスへと向かうだろう。だが、そうさせる気は毛頭ない。いよいよ、この茶番劇の最終幕である。
私は両手で顔を覆い、天を仰いで
「ああ、女神様! なんという……なんという自己犠牲にございますか!」
その絶叫に、人々はぎょっとして動きを止める。
私は涙ながらに(もちろん、一滴たりとも流してはいないが)群衆を見回し、糾弾するように叫んだ。
「皆様、まだお分かりになりませんか! 女神様は、我々のあまりに多く、あまりに俗なる願いを、その御一身に受け止め続けられた! その結果、その尊き御力を……使い果たしてしまわれたのです! 我々の尽きせぬ欲望がッ! 女神様をここまで疲弊させてしまったのですよ!」
それは、責任転嫁の最終段階であった。
失敗の原因は、アグネスでも、彼らの信仰心でもない。彼ら自身の、醜い『欲望』そのものである、と。この言葉は、熱狂という麻薬に酔っていた群衆の脳天を打ち抜く、強烈な気付薬となった。彼らは一斉に、自分たちの行いを、その強欲さを突きつけられたのだ。奇跡を見たい、金持ちになりたい、病を治したい――その全てが、清らかな女神を傷つける行為だったのだと思い知ったのである。
魔法が解けた広場を支配したのは、耐え難いほどの気まずさだった。誰からともなく、一人、また一人と、その場から逃げるように去っていく。もはや、アグネスの顔をまともに見られる者はいなかった。
「お、俺は……俺は、アグネス様を……苦しめていたというのか……ッ!」
狂信者第一号であったバルガスは、誰よりも深く打ちのめされ、顔を覆って泣き崩れながら、人混みの中へと消えていった。
やがて、あれほどの人々で埋め尽くされていた広場には、嘘のような静寂が戻ってきた。熱狂が去った跡には、投げ捨てられた供物の花々と、冷たい夕暮れの風だけが残されている。
そして、その中央にぽつんと一人。全ての観衆を失い、全ての賞賛と期待を失ったアグネスが、子供のように声を上げて泣きじゃくっていた。祭り上げられた偶像の
かくして民衆によって祭り上げられた偶像は、民衆自身の欲望の重さに耐えきれず自壊した。実に教訓的で、実にありふれた物語の結末ではないか。さて、神学講義はこれくらいにして、我が肉体が要求する、より根源的な問題の解決に移るとしよう。
私の足音に気づいたアグネスが、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。その姿に、私は一切の同情も感慨も見せることなく、一つ、これみよがしに大きなため息をついてみせた。そして、懐から最後の命綱であった乾パンを取り出し、彼女の手に握らせる。
「……?」
泣くことすら忘れ、ぽかんと乾パンを見つめるアグネス。私は彼女から顔をそむけ、淡々と言ってやった。
「腹が減っては反省もできません。さっさとそれを食べて、少しは頭を冷やしてください」
「マリア……あの」
「それから、」と私は続ける。「いつまでもそんな所で油を売っていないで、とっとと夕食の準備をお願いします。久しぶりに温かいスープと、焼きたてのパンが食べたいです。いいですか、『私の』平穏を、これ以上乱す真似は許しませんからね。お姉様」
最後の言葉をあえて強調し、私は彼女に背を向けた。しょんぼりと肩を落とす元・女神様が、小さな声で「……ありがとう」と呟いたのを、聞かなかったふりをして。
自身の平穏な寄生生活を取り戻すためだけに、一つの熱狂をひたすら煽り、そして完璧に解体する――全くもって、骨の折れる一日であった。
だが今夜の食事は、きっと美味いことだろう。空腹は最高のスパイスという言葉もあるのだから。
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