第5話 胸
5-1.脇
脇の下はなかなかの難関であった。
脇の下に筆をすべらせると、日菜子がくすぐったがって、線が歪んでしまうのだ。
「姉さん、くすぐったいのはわかるけど、ちょっとだけ我慢してくれないかい?」
「あたしだって我慢しているんだよ、だけどくすぐったくってさ。あんたは脇の下に筆で字を書かれたことはないだろう? だから、あたしがどんなに我慢しているかわからないんだよ」
「脇の下に字を書かれたことがある人なんて、そうそういねえさ。だけど、誰だってその程度ことは我慢できるだろうよ」
「…ほお、言ったね、お兄さん」
このやり取りのあと、日菜子が筆を持ち出して、おれの脇の下に字を書くと言い出し、それを阻止しようとする俺とで揉み合いとなった結果、ふたりして床に倒れてしまい、俺と日菜子は裸で抱き合う格好になってしまった。
日菜子の顔がすぐ目の前にある。それだけじゃない、彼女の豊満な胸が俺の胸の上に載っている。
俺の上で日菜子が言う。「良一さん、形…変わっちゃっているみたいだよ」
再度、井戸で頭を冷やした俺は、日菜子と力を合わせて難所である脇の下を乗り切り、その勢いで左腕への写経も完成させた。
指と掌は最後に書くことにしているので、白いままになっているが、肩から手の甲までびっしりとお教に埋め尽くされ、日菜子はまるで袖だけの服を着ているようになっている。
「かなり慣れてきたから、左腕はずいぶんと捗ったな」
「あたしも、くすぐったいのを我慢できるようになったよ」
「あはは、右の脇の下の時はたいへんだったな」
「良一さんのソレも、たいへんなことになっていたからねえ」
「おかげもう一度、井戸水を浴びることになっちまったぜ」
「ほどほどにしておかないと、井戸の水が枯れちまいそうだね」
「ばか言ってんじゃねえよ。さて、次はどこに書こうか?」
「前の方をお願いしょうかね。首から胸、お腹まで、お腹の下の方はこのあたりまでで」
このあたりと言われれば、見ない訳にはなるまい。俺は視界の端で、彼女の指がお腹のかなり下の方を指しているのを確認した。「…承知した」
5-2.首
俺は、書いたばかりの字に息を吹きかけて乾かす手法をとっていた。書き始めた頃は、日菜子が用意したうちわで扇いでいたが、こっちのほうがよっぽど効率がいいのだ。
さて、腕の写経を完了した俺は、日菜子の指示どおり首に取り掛かった。
首すじに字を書かれるのには、なんとか耐えていた日菜子だったが、俺がそこに息を吹きかけた時に、なんとも艶かしい吐息まじりの声を出した。
「おいおい、どうしたい、姉さん」
「…そのあたりは、ちょいと弱いんだよ。息じゃなくって、うちわでお願いできないかい?」
「でもなぁ、うちわじゃ捗んねえんだよなぁ…いひひ」
にやけた俺の鼻先に、日菜子のうちわが突き付けられた。日菜子の口元は笑っていたが、目は笑っていない。「…うちわでお願いね。良一さん」
「…へい、わかりやした」俺はうちわを受け取った。
5-3.胸
俺は、日菜子の胸にお経を書かなければならない。書くためには見なければならない。しかも、日菜子の胸は大きく、下側に書くときには手で持ち上げなければならないだろう。それを平常心でやるなんて、とても無理な気がする。
「どうしたんだい、良一さん。いやらしい目であたしの胸をチラチラ見て」
「それなんだが、姉さん」俺は、日菜子にこの作業の困難さについて、正直に打ち明けた。
「まあ、書くからには見ないといけないのは、どうやったて仕方がないね。胸を手で持ち上げるのが難しいってんなら、あたしが横になるから、良一さんは上から書いておくれよ。そうすれば持ち上げなくて済むんじゃないかい?」
「なるほど、確かにそうかもしれないな」
「それじゃあ、さっそく始めておくれ」というと、日菜子は上体を倒し、床の上に寝そべった。
「おう」俺はその上に覆いかぶさるような体勢で書こうとしたのだが…なぜ、事前に気づかなかったのだろうか。これで平常心でいられるはずがない。戸惑っている俺に、日菜子がにたりと笑いながら言う。
「やさしく…しておくれよ、良一さん」
「ぐっ!」俺は日菜子から飛び退いて抗議する。
「おいおい、姉さん。あんた、俺をからかって楽しんでいるだろう」
「あはははは、ごめんよ。良一さんが可愛らしいことで困っているからさ、ちょっといじめたくなっちまったんだよ。ほんとうに、ごめんよ」
笑いすぎて涙目になっている日菜子が、両手を合わせて俺に謝る。
「大の男をつかまえて、可愛らしいとか言うない」
俺は、ぷいっとそっぽを向いた。
結局、横になってもらっても、横方向に傾いた胸を手で引っ張る必要があったのだが、そこは日菜子が手伝ってくれた。難関と思われた胸のポッチも、字幅を調整して画数の少ない字が割当たるようにしたので、脇の下の時のような大騒ぎにならずに乗り越えることができた。
俺が日菜子の胸にお教を書いている間、彼女はずっと俺の『体の変化』を確認していた。日菜子からは特に指摘されなかったが、俺としては何度か体に熱いものを感じることがあったので、『体の変化』があったはずなのだが…見落としたんだろうか?
胸部山地を越えたあとは、へそで若干つまずいたのを除けば順調で、俺は下腹まで書き進んでいた。さきほど日菜子が指で指し示したところまであと少しである。このあたりからは女の匂いというか、実際に匂うわけではないのだが、俺の理性を吹き飛ばすような妖気が濃密に漂っている。
俺は息を止めて書くことに集中した。ちょっとでも気を抜けば、体の形が変わっちまいそうだ。お教の文字にみだらな気持ちが混ざっちまうと、せっかくここまで書いたお教の効果が失われるかもしれない。
その結果、日菜子が命を落とすことになっちまったら、悔やんでも悔やみきれない。
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