九月五日(金)今日も、今日とて……

 九月五日金曜日の朝、アラームが鳴るより早く目覚めてしまった。

 目をぎゅっと閉じてベッドの中に潜り込む。

 まだ、早い。そう自分に言い聞かす。

 学校を休むようになって、二度寝しなくなった。いや、できなくなったのか。

 一学期は毎朝、あんなに眠かったというのに。

 今日も雨だといいのに――。

 その願いはきっと外れた。カーテンを閉めていてもなお力強く輝く太陽。晴天だということが部屋の明るさでわかる。もう眠れそうにない。

 重い体をゆっくりと起こした。

 カーテンの隙間から光が差し込んでいる。

 私は深く息を吸い、諦めと共にカーテンを思いっきり開いた。さんさんと美しく、目がくらむほど眩しく、憎らしいほど立派な太陽。

 スマホのお天気情報にも夕立の予報はない。

 今日こそ、行かなきゃいけない。クルミにもプリントを届けてもらった。わりと元気そうな姿も見られている。

 こんなことなら――

「届けてくれなくて、よかったのに……」

 思わず自分の口から漏れた言葉に、愕然とした。ふいに涙が出そうになった。

 クルミはあんな大雨の中、ただのクラスメイトの私のために、私が授業で困らないように、わざわざプリントを届けてくれたのに。

「はい、これ! 今日までのプリントね」

 てるてる坊主のレインコートから覗いたクルミの笑顔が蘇る。

「先生からもう熱下がったって聞いたから持ってきた」

 そう、私のことを気遣って、わざわざ先生に確認してくれた。

 この四日間、同じグループの友達からは一度も連絡がなかった。

 クルミだけが、私のことを気にかけてくれたのに。

 それなのに、私はなんてことを……。

 堪えきれず、涙が零れた。

 こんな自分が、大嫌いだ。


 とぼとぼと洗面台へ向かう。鏡に映った自分の顔は、そんなには、泣いたように見えなかった。それに少し安心して、いつも通り歯を磨き、いつもより入念に顔を洗い、ついでに髪を少し濡らしてドライヤーとブラシで整えた。いつも束ねる髪は下ろしたままにした。このほうが、顔が隠れる。

 台所にはお父さんが立っていた。

「おはよう、縁。今日は早いね。目玉焼きでいい?」

 私は、少し微笑む。

「おはよう。うん、ありがと」

 昔、おじいちゃんとおばあちゃんが住んでいた立派な日本家屋。今はお父さんと二人きり。

 小さい頃、親子三人でマンションの一室に住んでいた頃、私はこの家に来るのが好きだった。まるでアニメの中の世界のような、このちょっと古いけれど、きれいに手入れされたあたたかい家が大好きだった。

「今日は降らないといいなあ」

 お父さんが目玉焼きとソーセージとレタスの乗ったお皿をコトンと私の前に置いた。

「ごめん、ミニトマト切らしちゃった」

「別にいいよ。私……」

 今日、買ってこようか?

 いつもなら間違いなくそう言えるのに。

 言葉が出なかった。

「お父さん、今日も遅くなりそうだから、また週末買物にいくよ」

 お父さんは私の前の席に座った。

 今日は早起きしたから久しぶりに向かい合って朝食を食べる。いつもなら私がテーブルにつく頃には、お父さんは食べ終わって洗い物をしている。

「今週は土曜も休みなの?」

 お父さんは「うーん」と眉間に皺を寄せた。

「ちょっと大学に行くかな。でもいつもよりは早く帰れるから。また食べたいものあったら連絡して」

 お父さんは考古学者だ。この四月からは茨城にある大学の研究室に所属している。家からの通勤時間は一時間半。ちょっと遠いけど、お父さんも私もこの家を手放したくなかったから仕方ない。この広い家ならお父さんの本をいくらでも積んでおけるし、以前のマンションではそうはいかなかっただろう。

「よし、じゃあ行くかな」

 お父さんは私より早く食べ終わり、立ち上がった。

「洗い物、置いといていいよ」

「いいの? ありがとう、助かるよ」

 お父さんはいつもの鞄を手に「じゃあ、いってきます」と部屋を出た。

「いってらっしゃい」

 見送った瞬間、顔から力が抜けた。

「あ!」

 お父さんが再びひょっこり顔を出し、私はビクッと身をすくめた。

「時間がなければ洗い物、しなくていいからね。遅刻しないように!」

 そう言い残し、お父さんは去った。

「いってらっしゃーい……」

 もう取り繕う力もなく、私は「はあーっ」と大きな溜息を吐いた。

 頬杖をつき、縁側の向こうにある空を眺める。

 この大きなガラス戸が大好き。アニメでしか見たことのない縁側も好き。小さいけれど趣のあるかわいいお庭も好き。

 ずっとこの場所で、日向ぼっこなんかして、のんびり過ごしたい。私が家で家事をすれば、お父さんも助かるし。

 高校生活はまだあと二年以上。その後は、大学?

 でも私はお父さんと違って特にやりたいこともない。

 何に興味があるのかもわからないし。

 その前に、高校をちゃんと卒業できるのかも、わからないし――。

「未来が……見えない」

 当たり前か。

 私は席を立ち、ゆっくりと洗い物を始めた。


【九月五日(金)


 結局、今日も学校へ行けなかった。】


 その夜、短い日記を書き終わると、無言でベッドに寝転んだ。

 週末は、もう風邪は治ったってことで、外へ出ても大丈夫。でもクラスメイトがいそうな場所はやめておこう。

 この近所で、お父さんと一緒に買物するくらいなら、きっと大丈夫。この辺りには同じクラスの人もいないし。

 だから、明日からは、大丈夫――。

 私は、いつの間にか眠りについた。

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