味の感想

三月

第1話



 久しぶりというと、松崎は眩しかったのか天井に下がった電球を見やって火に掛けた鉄瓶を触るようにジョッキを取った。

 まだ名古屋に居るの? 

 いいやと彼は首を振り自分はいま任官して実習生のようなことをやっているからと答え、私は知っていたけれどそりゃ意外だというように驚いてみせた。というのも、高校時代の友人たちと会えば大抵、自分の境遇を手札にしてあれこれ見せあうからだ。拮抗するといつまでも勝負がつかない。負けるは勝ち、だった。彼は静かに口を付け、手を擦り合わせると布巾で拭った。それから肉が焼けるのを待つように手元を見ていた。その間、私は松崎と最後に会ったのなんて学生の頃になるけど、よく何のしこりも無く会えるものだ。いやしかしどんなに仲良くなった人間がいても、一人になった時に思い出すのは高校時代の、最近はろくに会いもしない連中ばかりだなと考えていた。すると肩の力も降りて、私は大学時代や自分の就職先(M紅商事だ)のこと、ジェンダー平等だとかいって男性下着を扱う部署に配属された鉄板ネタを切り出し、彼はそんな戯言ざれごとを抱き留めるようにゆっくりと瞬きをした。

 次を頼むと、松崎はにわかに話し始めた。高校を卒業してからは地元に帰って特段あてのない生活をしていたこと、誘われて保安大学校を受験したということ……。まあ知ってるだろうけどと松崎は眉を掻いた。最近はどうと尋ねるといやどうもない、実務訓練もあるけどそれは忙しいだけだといった。それからは共通の昔話に、ちょうど下らない雑談を挟んで、抑制のきかない暴露、それから弛緩して漏れだした感情をぽつぽつ話した。


 たとえば彼は採用面接の対策で、職務経験にホテルの短期求人をやったことを話した。某所は三千寺筋の裏にある「ビル」と佐川急便の出張所に挟まれており、ルームサービスが付かない代わりに安かった。若い客が多く、次々に出入りするうえにカウンターにいる彼もまだ学生らしいものだから、接客している方は如何いかがわしいというより空恐ろしかった。

 ある日、34号室に入ろうと親鍵マスター・キーを差し込みノブを押しても、扉が開かない。一瞬は押し引きを間違っているのか疑ったが、そうでないと気付いた。誰かが中から取っ手を掴んで離さないのだ、いやそれならまだ良い。松崎はつい先日あった自殺未遂を思い出し、ノブなんかで首を吊られたらたまったものじゃないと無理やり力を込めて押しやれば、どさがさ崩れ落ちる音がして扉が開き、中を見やると倒れた椅子と、さっきまでそれを支えていたギデオン協会聖書や韓国語の案内書、枕が散らばり、そして奥には彼の腰より低い背丈の、汗に濡れた髪がへばり付き松の葉のようになった少女がいた。役所のひと? と彼女は尋ねいや違う、ただ清掃に来ただけだと松崎は答えた。

 それじゃどうぞ、でも終わったら部屋から出てって。

 相談所の人がここに来るの、と尋ねた。

 いつも来るわ、何日か泊めてくれた後に、やっぱりお母さんの所へ帰りなさいって言うのよと彼女はいった。親御さんのところが一番だって。

 どうしてここに?

 ここから動けないから。それに死んじゃってるもんねと彼女はいい彼の顔をうかがった。

 嘘だ。

 なんで。

 本当なら、同じ場所に居ないだろ。死んだ後ならもっと慎重に、用心深くなる筈だ。なんたって一度死んでるんだから。

 それじゃあ……忘れ物があったらどうするの。

 残ってないよ。

 それでも、残ってたらどうするの。

 残ってたってそれが本物だって訳でもないし、過去にあったって証明になる訳じゃない。

 じゃあもうそれっきりってこと?

 もう無いものについて何か言うなんて、只のだってだけだよ。

 彼女は欠伸あくびをしたように瞬きをしてそれから理由を教えたら手伝ってくれるのと訊いてきた。

 うん。

 あそこに、といって少女は空調ダクトを指した。紙飛行機が入っちゃったの。

 成程、椅子を使っても取れない訳だと松崎はいいながら椅子を起こし座面に乗ってダクトのねじを袖を使って拭ってから爪で回して開けた。そして薄暗くかび臭いほらに光を取り込むよう遠目に覗いて、なにか反射するように光ったので腕を入れ手を伸ばして触れるとそれは、黙って触れられているのではなく打ち返すようにしっかりと彼の指を受け止め、その時に彼は反射で光ったのではなく小さな足の裏の肌があまりに白いからそう見えたのだと判った。


 私は、その子は弟を取り戻したかったのだろうといった。松崎は死人にも身内があるなら、死んだ場所なんてもっと変えられないだろうなといい硝子のふちをなぞった。店を出てから私は、泊まっていけばいいと誘ったけれど彼は明日早いんだと被りを振り、次は案内するから来てくれと私の肩を叩いて改札を渡っていった。


 次に電話が掛かってきたのはあれから暫くのことで、出ると向こう側は松崎の兄を名乗り、彼が違法漁業の調査中に安全プロペラに巻き込まれるという不幸な事故に遭った、木曜には通夜をやるからと告げた。私は逡巡し、地元が違うし邪魔をしたくないので遠慮するが、お別れならさせて欲しいといった。

 少しと経たず、彼の家に線香をあげに行った。彼の写真の隣にはもう二枚ほど写真があった。松崎の兄と少し話をした後、市販の温泉饅頭を土産に見送ってくれた。私の好きなやつだった。田んぼ同士で挟み撃ちされたどこにでもあるような路を辿る帰途、包みを開け饅頭を食べるとなに一つといっていい、変わらない味がした。



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味の感想 三月 @sanngatu

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