10話

 午後の陽が傾きかけた頃、私はふと広場に足を運んでいた。崩れかけたテーブルが、ぽつんと取り残されたように置かれている。ベンチもひとつ、倒れていた。


 座るには埃が多すぎたので、私は手にしていたハンカチで、何気なくテーブルを拭いた。その動作に特別な意味はなかったけれど、何かを整えるというのは、心の中のざわつきを鎮めるのにちょうどよかった。


 最近、庭を歩けば、あの美しい青年……ジュールの姿を探している自分がいる。彼が私の視線に気づいて目が逢うと、胸の奥がちりちりと燻る。


 ベンチを起こして、並べる。少し遠くにあった椅子も引き寄せて、影が差さないように向きを変える。


「……祭りでも始める気かい?」


 振り返ると、ラヴァンがそこにいた。

 くしゃくしゃのシャツにくわえ煙草。黒い傘を肩に引っ掛けて、例の皮肉っぽい笑みを浮かべている。


「そんなつもりじゃ……」


 私は言いかけて、でも否定するほどの理由もなかったから、笑って肩をすくめた。


「いいねぇ。久しぶりだよ、こういう空気。……おや、彼女が踊り出す前にちょっと音でも出すかね」


 ラヴァンがそう呟いて去っていくと、今度は後ろからリリィが現れた。派手な色の布をいくつか手にして、歩きながら口笛を吹いている。


「あら、アンタがこんなとこ掃除してるから、久々にうずうずしてきたわ」


 彼女は倒れた椅子に布をかけ、風にひらめかせるようにして即席の飾りをつくっていた。


「飾りがなきゃ始まらないわよ。祭りでもパーティーでもね」


 どこからかアイスクリーム屋の青年も現れる。


「パーティーやるなら、今日だけのフレーバー、作ってくるよ!」なんて言いながら、冷凍ケースをひいて広場の隅に座り込んだ。


 誰も「やろう」と言い出したわけじゃないのに、広場は少しずつ賑やかになっていく。

 声が重なり、色が加わり、音が混ざる。

 私はその中心にはいなかったけれど、でも確かに、その輪の中にいた。


 ぼんやりと温かくて、どこか懐かしい夜の予感が、風に混じっていた。


 *


 焚き火の輪は、少しずつ広がっていた。薪を運んできた誰かが火をくべるたびに、パチパチと音を立てて、闇がやわらいでいく。

 その周囲には、どこから集まってきたのか住人たちがぽつぽつと現れ、皿やカップを手に立ち話をしていた。


「よく来たね、アンタも」


 リリィが笑いながら近づいてくる。

 今日はいつものドレスではなく、艶やかな金糸の布を巻いた軽やかな装いだった。

 いつの間にか耳に吊り下がっていた揺れるガラスのイヤリングが、火の光を受けてきらめいている。


「アンタも飲む? 今日だけは取り放題よ」


「……ありがとう」


 手渡されたカップには、ぶどうのような香りがする発泡酒のような液体が注がれていた。

 アルコールなのかどうかはわからなかったけれど、火のそばで飲むには十分だった。


「見て、ほら。あれ、あたしが作ったの」


 リリィが指さした先には、木の枝に吊るされた無数の飾り。色褪せたリボン、ガラスの破片、どこかから拾ってきたカラフルな紙片。

「飾りっていうよりゴミじゃない?」と誰かが笑って言ったけれど、それもまた、この庭の飾りとしては悪くなかった。


「すごいね。これ全部どうしたの?」


「材料? 道端よ。拾えばけっこうあるのよ。光るものって、捨てられてても光るのよ」


 ふいに聞こえてきたギターの音に、リリィはくるくると回りはじめた。それを合図にしたかのように、他の住人たちも思い思いの楽しみ方を始める。

 手拍子をする者。歌を口ずさむ者。寝転んで空を見上げている者。


「アイスクリームいかがですか〜!今宵限定のフレーバー、ありますよ〜!」


 そんな声が響いて、アイスクリーム屋がパラソルを片手に現れた。古ぼけた冷凍ケースを引きながら、にこにこと笑いながらみんなにアイスを配っていく。


「本日のおすすめは、『星のない夜』と『禁断の果実』、あとは『太陽と月のワルツ』もあるよ!」


 ラヴァンは受け取ったアイスクリームをじっと見つめていた。私は『星のない夜』を受け取る。


「……今日のアイスは、ますます何味かわかんないね」


「味なんて、ここじゃあ、たまにしか当たらないけどな」


 ラヴァンが横でぼそりと呟き苦笑した。


「でも、舌じゃなくて、思い出に沁みる味ってのもある。……たまに、ね」


 私はそのコーンを受け取って、ひとくち、そっとかじった。暗い紺色の見た目に反して、味は思ったよりも甘くて、懐かしい気がした。子供の頃、縁日の屋台で買ってもらったアイスキャンディーに似ている。


「……ラヴァン、あなたも踊ればいいのに」


「踊りは苦手でねぇ。代わりにギターでも弾いておくよ」


 そう言って、彼はアイスを食べ終わると、また弦をつま弾き、軽やかな音色を奏でた。


「あら、いいメロディーじゃない、ラヴァン。ここからもっとペース上げてちょうだい!」


 リリィがドレスをたなびかせて踊る。そうこうしているうちに、住人のひとりが空き缶を叩き出し、どこからかリズムが生まれ、また誰かが笑い、少し離れた場所では、噴水の男が火にあたって静かにアイスクリームを舐めていた。

 私は石壁に持たれて彼らの様子を微笑ましく眺めていた。


「ねぇ、アンタ!」


 リリィが不意にこちらにやってきて私の手を掴んだ。


「そんなとこで突っ立ってないで、アタシと一緒に踊りましょ」


「いやいや、私は……」


 私はいいから、と言うまでもなく強引に手を引かれて広場の真ん中に連れてこられる。リリィは音楽に合わせて腕を大きく振り回し、私の手を握ってグルグルとその場を回る。私もされるがまま、リリィの回転に巻き込まれる。回転の勢いは加速して止まらない。視界が高速で右から左に流れていく。私たちは何だか可笑しくて声を上げて笑った。


 この庭には、誰かと深く繋がらなくても、どこか居心地のいい距離がある。


 私は、ここに居ていいのかもしれない。


 少なくとも、今夜だけは、ここが私の生きる場所だと思った。

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