第6話:触れられぬ温もり
夜の帳が降り、アルバス・ノクス王城は静寂に包まれていた。窓の外には、二つの月が冷たい光を投げかけ、その冷たい光と、暖炉で燃える炎の温かい光が、部屋の調度品に、揺らめく影を落としている。リグの私室には、暖炉の火が静かに燃え、心地よい熱を放っていた。薪が「パチッ、パチッ」と音を立て、焦げ付く木の良い匂いが部屋に満ちる。その火の光が、隣に立つグリムの銀の髪を、温かく照らし出す。昼間の書庫で感じた絶望が、夜の静けさの中で、再びリグの胸を締めつけていた。
(なぜ、君は俺に触れられることを拒んだ?その行為に、君はどんな意味を込めた?君自身が知らない、君の過去の記憶が、俺という人間を拒絶したのか?それとも、ただ……君の中に、触れられてはいけないという、不可侵の「理」が刻まれているだけなのか?)
リグは、暖炉の火を見つめながら、心の中でグリムに問いかけた。暖炉の炎が舞い上がり、火の粉が螺旋を描いて煙突へと吸い込まれていく。その間も、グリムは微動だにせず、ただ部屋の奥を見つめている。彼の視線は、暖炉の火にも、揺れる影にも、何も興味を示していないように見えた。
リグは、ゆっくりと立ち上がり、グリムの隣に立った。そして、今度は意図的に、彼の手に触れようと、そっと手を伸ばした。手のひらがじんわりと汗ばみ、唇が乾き、喉の奥でゴクリと音が鳴った。全身の神経が、指先に集中する。その指先が、グリムの腕の僅かな隙間に触れようとしたその瞬間、グリムはまた、無意識に、わずかに肩を揺らした。触れられなかった。ただ、それだけのことに、リグの心臓は、悲鳴を上げた。指先が震え、全身の血の気が引いていく。
「リグ様?」
グリムは、リグの顔色を窺うように、わずかに首を傾げた。その表情は、やはり無表情のままだ。リグは、息を詰めて、その完璧な横顔を見つめた。彼の息遣いは、暖炉の熱でわずかに温められ、リグの鼻腔をくすぐる。それは、書庫で感じた冷たい匂いとは違う、人間的な、温かい匂いだった。グリムが、わずかに瞬きをする。その瞬きが、まるで彼の内部で、何かの情報が処理されているかのように、リグには感じられた。
(ああ、君は、俺に触れられることを拒んだ。だが、君の体は、こんなにも温かい。この温もりは、どこから来るものだ?この温もりは、俺が君に与えている命の温かさなのか?それとも……君が、過去に愛した誰かの温もりを、まだ、その心に残しているからなのか?もし、君が、過去に愛した誰かの記憶を、その温もりの中に宿しているのだとしたら……俺は、君の過去の愛を、上書きすることはできないのか?)
リグの心に、深い嫉妬の感情が広がっていく。その嫉妬は、グリムの存在そのものに向けられた、どうしようもない感情だった。リグは、唇を強く噛みしめ、胸に広がる痛みを堪えた。
「グリム、……君は、誰かに触れられることを、嫌うのか?」
リグがそう尋ねると、グリムは、瞳をわずかに伏せた。その動作は、まるで、何かを思い出すかのように、ゆっくりとしていた。
「…嫌いではありません。ただ、私には、触れられることが、どういうことなのか、わかりません」
リグは、その言葉に、胸を強く打たれた。グリムは、触れることの意味を知らない。温もりを、感情を、記憶を持たないからこそ、彼は完璧な護衛でいられるのだ。リグは、彼のその純粋な無知さに、新たな愛おしさを感じた。
(ああ、君は、何も知らない。何も知らないからこそ、君は、こんなにも美しい。そして、俺は、何も知らない君を、こんなにも深く愛している)
リグは、グリムの言葉に、静かに微笑んだ。それは、諦めにも似た、しかし、確かな愛の微笑みだった。リグは、グリムに触れることを諦めた。代わりに、自身の影を、グリムの影にそっと重ねた。
二つの影が、暖炉の火と月の光に照らされて、一つになる。
グリムの温もりは、触れられぬ温もりだった。だが、それが、リグの心を、温かく満たしていくのを感じた。リグは知っていた。この温もりが、いつか、彼らの運命を変えることを。そして、この温もりが、いつか俺を焼き尽くすかもしれない、という不吉な予感も、同時に感じていた。
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