第二部 歌う遺跡と嘆きの石

第一話 眠りへと誘う歌

 最初の亀裂が癒え、季節は巡った。

 ゴリンとライラ、そしてリィナがサイラスの悲劇を解決してから数ヶ月。

 『夜明けの道』の建設は、驚くほど順調に進んでいた。


「…上出来だ、ゴリン。お前の線に、迷いはない」

 ドワーフの野営地で一番大きなテントの中、街道建設の総監督官である老ドワーフのバリンが、ゴリンの引いた新たな設計図を満足げに眺めていた。

 バリンは、ゴリンの師であり、父親代わりの存在だ。

 その節くれだった太い指は、何百年もの間、槌を握り、石を削ってきた歴史を物語っている。

「師匠。ですが、森の奥に進むにつれて、地盤が予測不能な変化を見せています。エルフの…ライラの助言がなければ、何度か危険な陥没に巻き込まれていたでしょう」

 ゴリンは、苦々しいような、しかしどこか誇らしげな、複雑な表情で答えた。

「ふむ。エルフの小娘か」

 バリンは、長い白髭を指で梳きながら、面白そうに言った。

「あの連中の『森の声』とやらは、我らの物差しでは測れん。だが、測れんからといって、そこに真実がないとは限らん。お前も、少しは頭が柔らかくなったようだな。良いことだ」

 ゴリンとライラの関係は、相変わらず水と油ではあったが、その混じり合わなさには、どこか慣れ親しんだ心地よさが生まれていた。

 二人はもはや、互いを「ドワーフ」「エルフ」と種族名で呼ぶことはなくなり、不承不承ながらも、その名を口にするようになっていた。

「ゴリン、三歩左。そこの土は、昨日の雨で少し機嫌が悪いわ」

 ライラは、近くの木の枝に身軽に飛び移ると、そこから地面へ降りようと屈んだ。

「分かっている、ライラ。だが、その枝の高さは地上から十五フィートを超えている。そこから飛び降りれば、お前のその細い足では衝撃を殺しきれん。着地に失敗する確率は九十三パーセントだ」

 彼らのやり取りは、街道建設の名物となっていた。

 ドワーフたちは、ライラの直感がもたらす危険予知に何度も助けられ、エルフたちは、ゴリンの正確な計算が森への負荷を最小限に留めていることを認め始めていた。

 街道は、二人の共同作業によって、森の歌と調和するように、緩やかな曲線を描きながら、着実に西へと伸びていった。

 だが、道が森の最も古く、深い領域へと差し掛かった時、彼らの前に、設計図にはない、新たな障害が姿を現した。


 ◇


 地響きのような金属音と共に、ドワーフが誇る最新式の蒸気掘削機が、けたたましい警告音を上げて停止した。

 現場に緊張が走る。

「ゴリン様!掘削機の刃が…!何かに、喰い止められました!」

 ゴリンが駆けつけると、ミスリル銀で強化されたはずの巨大なドリルが、あり得ない角度に歪み、先端が砕けていた。

「馬鹿な…!この森で、ミスリルを砕くほどの岩盤があるなど…!」

 ゴリンは、掘削機の先端が穿った穴を覗き込んだ。

 そこには、ただの岩ではない、明らかに人工的な、滑らかな石の表面が見えている。

 表面には、風化してはいるが、幾何学的な紋様が刻まれているのが見て取れた。

「…遺跡だ」

 ゴリンの声は、驚きと、そして抑えきれない興奮に震えていた。

「全員、作業を中止しろ!手作業で周囲を掘り起こす!遺跡を傷つけるなよ!」


 その日の午後は、ドワーフたちの熱狂的な発掘作業に費やされた。

 彼らは、街道建設のことも忘れ、まるで古代の宝を見つけた子供のように、目を輝かせながら土を掘り続けた。

 やがて、土の下から姿を現したのは、一つの文明の記憶そのものだった。

 それは、一枚岩から削り出されたかのような、巨大な石の門。

 エルフの様式とも、ドワーフの様式とも異なる、古代の意匠が施されている。

「素晴らしい…!この建築様式、どの文献にも記されていないぞ!」

 ゴリンは、遺跡の門に刻まれた紋様を、指でなぞりながら感嘆の声を上げた。

 彼の技師としての魂が、この未知なる古代技術に、激しく揺さぶられていた。

 だが、ライラは、その門の前に立った瞬間から、言いようのない不安に襲われていた。

 彼女の肌を、冷たい風が撫でる。

 それは、物理的な風ではない。

 この遺跡の奥底から漏れ出してくる、深い、深い悲しみの吐息だった。

「ゴリン、やめなさい」

ライラの声は、いつになく真剣だった。

「この場所は、眠らせておかなければならない場所よ。あまりに、悲しい気配がするわ」

「何を言うか。これは、歴史的な大発見だぞ!この構造を解明すれば、我々の技術はさらに飛躍する!」

「技術が、人の悲しみを癒せるというの?」

「感傷に浸っている場合か!これは、我々技師にとっての…」

 ゴリンが言葉を続けようとした、その時だった。

 キィン、という、澄んだ、しかしどこか物悲しい音が、遺跡の門から響き渡った。

 それは、まるで巨大な竪琴の弦を、誰かがそっと弾いたかのような音色だった。

 その場にいたドワーフも、遠巻きに見ていたエルフたちも、一斉に門を凝視した。

「…今の音は、なんだ?」

 ゴリンが訝しげに呟いた、その夜。

 本当の異変は、始まった。


 ◇


 その夜、ドワーフたちの野営地は、静かな興奮に包まれていていた。

 遺跡から、あの奇妙で美しい「歌」が、再び聞こえてきたのだ。

 それは、一つの音色ではなかった。

 何百もの澄んだ音が重なり合った、荘厳な合唱のようだった。

 その歌声は、聞く者の心を穏やかにさせ、工事で疲弊した魂を、優しく包み込むようだった。

 ドワーフたちは、故郷の歌とも違うその美しい旋律に、酒を酌み交わしながら聞き入っていた。

「なんて美しい歌なんだ…」

「ああ、まるで、女神様の歌声のようだ…」

 だが、ライラは、自らの集落の最も高い枝の上で、その歌声に、ただ一人、戦慄していた。

(違う…これは、歌じゃない…!)

 彼女の耳に聞こえるのは、美しい旋律ではない。

 それは、何百という魂が、助けを求めて泣き叫ぶ、悲痛な鎮魂歌レクイエムだった。


 翌朝、野営地は、不気味な静寂に包まれていた。

 いつもなら、朝一番に炉に火を入れ、槌音を響かせているはずのドワーフたちの気配が、全く感じられないのだ。

 異変に気づいたゴリンが、部下のテントに駆け込むと、そこには信じがたい光景が広がっていた。

 昨夜、歌声に聞き入っていた者たちの一部が、穏やかな、満ち足りた表情で、深い眠りに落ちていたのだ。

「おい!起きろ!朝だぞ!」

 ゴリンが肩を揺さぶるが、彼らは微動だにしない。

 息はしている。

 脈もある。

 だが、その意識だけが、肉体から抜け落ちたかのように、決して目を覚まさない。

 眠り病。

 その噂は、瞬く間に、まだ意識のある者たちをパニックに陥れた。

「呪いだ!遺跡の呪いだ!」

「エルフの仕業に違いねえ!奴らが、俺たちを眠らせて、工事を中断させるつもりなんだ!」

 ドワーフたちの間に、疑心暗鬼と恐怖が広がる。


 エルフの集落もまた、混乱の渦中にあった。

「だから言ったのです!ドワーフどもが、古の精霊の怒りを買ったのだ!」

 過激派の若者たちが、ライラに詰め寄っていた。

「今すぐ、工事を中止させ、奴らを森から追い出すべきです!」


 両種族の関係は、再び断絶の危機に瀕していた。

 ゴリンは、眠り続ける仲間たちを前に、為す術もなく立ち尽くしていた。

 彼の信じる論理と科学は、この超常的な現象の前では、あまりに無力だった。

 彼は、音波を遮断する特殊な壁をテントの周りに設置したが、歌声はそれをやすやすと通り抜け、病人の数は増える一方だった。

 そして、悲劇は、ゴリンのすぐそばまで迫っていた。

 老ドワーフのバリンもまた、あの歌声を聞き、眠りに落ちてしまったのだ。

「バリン師匠…!」

 ゴリンは、安らかな顔で眠り続ける師の、節くれだった手を握りしめた。

 その手は、まだ温かい。

 だが、その温かさが、かえってゴリンの心を絶望させた。

 彼の論理的な世界が、ガラガラと音を立てて崩れていく。

 絶望に駆られたゴリンは、ライラの元へと走った。

 彼女は、眠り病の噂に怯える仲間たちを、必死に宥めているところだった。

「ライラ!お前のせいだ!」

 ゴリンの怒声に、エルフたちが一斉に彼を睨みつける。

「お前が『悲しい気配がする』などと、不吉なことを言ったからだ!お前たちのその非科学的な感傷が、この呪いを呼び込んだんだ!」

「私のせいですって!?」

 ライラも、ゴリンの理不尽な非難に、怒りを露わにした。

「最初に遺跡を掘り起こしたのは、あなたたちでしょう!私たちの忠告も聞かずに、森の眠りを乱暴に暴いたから、古の怒りを買ったのよ!」

「怒りだと?そんなもので、人が眠るか!これは、お前たちが仕掛けた、巧妙な罠に決まっている!」

「あなたこそ、自分の無力さを私たちのせいにして、現実から目を逸らしているだけじゃない!」


「そこまでです、お二人とも」


 混乱の極みにある現場に、その静かな声は、不思議とよく響いた。

 宰相特使リィナが、いつの間にかそこに立っていた。

 彼女は、工事現場から定期的に送られてくる報告書で事件を知り、いてもたってもいられず、一人で馬を飛ばしてきたのだ。

 彼女は、眠り続けるドワーフたちを、深い悲しみを湛えた瞳で見つめると、まっすぐに遺跡の門へと向かった。

 そして、その冷たい石の門に、そっと手のひらを当てた。

「…ああ、そうだったのですね…」

 リィナは、何かを悟ったように、深く、静かに息を吐いた。

 彼女は、振り返ると、ゴリンとライラに、静かに、しかしはっきりと告げた。

「これは、呪いではありません。これは、歌です。大地が、忘れられてしまった、あまりにも悲しい記憶を、必死に思い出そうとして、歌っているのです。そして、その悲しみが、あまりに深すぎて、聞いた者の魂を、優しい眠りへと誘ってしまうのです」

 リィナの言葉は、非論理的で、詩的で、しかし、二人の心に、不思議な説得力をもって響いた。

 その言葉に、ライラははっとしたように付け加えた。

「…だから、エルフには被害が少ないのね。私たちは、森の悲しみに慣れている。でも、あなたたち山の民には、この剥き出しの悲しみは、強すぎる毒になる…」

「俺たちは…どうすればいい?」

 ゴリンが、初めて、助けを求めるように、か細い声で尋ねた。

「中へ、入るしかありません」

 リィナは、遺跡の門を、真っ直ぐに見つめた。

「この歌を、鎮めるために。そして、忘れられた記憶を、私たちが、代わりに聞いてあげるために」

 ゴリンとライラは、顔を見合わせた。

 もはや、いがみ合っている場合ではない。

 仲間を、そして自らの民を救うため、二人は、未知なる遺跡の闇へと、共に足を踏み入れる覚悟を決めたのだった。

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