第二話 「午後四時四十四分の洗濯機」

 洗濯機の窓は、白濁した丸い鏡だ。回転するたび、欠けた鐘みたいな音が腹の底に響く。カラン、と小さく跳ねた金属が、四回に一度だけ鈍く鳴る。僕はその場に立ち尽くしていた。扉の内側に、内側から掻いたような細い傷が幾筋も見える。爪の跡に似ていた。ポケットの中の鍵が、同じ形で冷えている。刻印は「爪」。


 午前、先輩から「名の抜け」が起きていると連絡があったのは、このコインランドリーだった。持ち主の名を書いた洗濯タグや名札から、印字だけが消える。店主の老夫婦は、受け渡しのたびに小さな争いの種を抱え込むことになり、ついに寺へ相談が回ってきたのだという。日常に滲んだ怪異は、だいたい誰かの困り顔を連れてくる。ミステリーとしては地味だが、こういう地味さがいちばん厄介だ。


 店内の壁時計は、午後四時四十四分で止まっていた。秒針だけが、同じ位置で微かに震える。先輩は止まった時計を一瞥いちべつし、洗濯機の蓋の蝶番を指で弾く。

「音が一つ欠けてる。鐘の縁と同じ」

「また“欠け”ですか」

「“欠け”は呼び名の穴になりやすいんだ。そこから借りる」


 僕らは持参した白木の板と半紙を、空いた洗濯機の上に並べ、寺の作法を最小限だけ用いることにした。呼ばない、迎えない、伏せておく。今回は“名伏せ”ではなく、“仮名置き”を先にする。仮の名で、ばらけた呼び名をひとところに寄せてから、しかるべき場所へ返す。


 先輩が半紙に「しろ」と書く。前の件で使った仮名だ。僕はためらう。

 「それ、もう使って大丈夫ですか」

 「仮名は“仮”だ。同じ器を使っても、中身が違えば別物になる。ただし、借り手が気に入って近寄ってくることはある」


 洗濯機のサービスパネルに、指先がひっかかる小さな段差があった。何の装飾もないその角に、針のような傷が四本、並んでいる。僕はポケットから「爪」の鍵を出した。先輩は止めなかった。鍵先を段差に沿わせると、見えない鍵穴が吸い込むように手応えを返し、パネルが静かに開いた。中は乾いた空間で、ほんの少しだけ石鹸の匂いがする。金属製の小箱がひとつ、針金で固定されていた。蓋には朱のスタンプで「返す」と押されている。


 箱を開くと、中には名札がいくつも重なっていた。園児の名、学生の名、会社の名札、縫い付け用の白い布。どれも、肝心の“名前”だけが薄く剥がれている。輪郭はあるのに、中身がない。紙片の底から、細い息のようなものが立ち上って、僕らの指へまとわりつく。呼ばれたい、呼ばれたい、と訴える無数の声が、喉の奥で粉になって舞った。


 先輩は名札を数枚取り出し、白木の上に並べる。

 「仮の場所。ここで一度だけ名を置く」

 僕はうなずき、半紙に手を添えた。「“しろ”」と三度、心の中で唱える。呼ぶのではなく置く。白木の周りの空気が、わずかに重たくなった。止まっていた時計の秒針が、四十五に跳ねる。洗濯機の丸い窓が、より暗く見えた。


 すると、名札の一枚に薄い墨色が満ち、文字が浮かび上がった。「たかはし」。別の一枚に「斉藤」。さらに「ほしの」。滲むように戻ってくる。老夫婦が目を潤ませ、胸に手を当てた。

 「返ってきた……」

 だが、最後の一枚だけは、どうしても白いままだった。名札の布地には、小さく「□」だけが中央に縫い取られている。枠はあるのに、名はない。先輩はそれを手に取り、裏を撫でた。爪の先で擦ったような傷が、枠の四隅にあった。


 「これは、“借り手”の器だ。誰の名も載せないことで、まわりから少しずつ呼び名を吸い取る」

 「じゃあ、どうするんです」

 「戻す。器は器の場所へ」


 僕らは小箱を元の位置に戻し、中に“器”の名札を伏せて納めた。針金を締め、鍵を抜く。先輩が白木の板を抱え、僕はコイン投入ロジックの裏配線に目をやる。そこに、見覚えのある朱色の紙片が貼ってあった。「谷へ」「一口」「伏せる」。前件と同じ作法が走り書きで残っている。誰かがここでも“返す”を試みたのだ。


 店の裏手にある細い側溝に、僕らは水を一口、盃で置き、すぐに伏せた。呼ばない、迎えない。鐘の欠けを思い出しながら、ただ返す。数息ののち、コインランドリーの中の音が、ふっと「一つ」増えた。欠けていた音が戻ったのだ。止まっていた時計はゆっくり動き始め、四時四十六分を指した。


 老夫婦が、受け渡しノートをめくる。「名前、全部ある……」震える指で行を辿る。日常が、音を立てずに戻る。怪異は、静かに引いていく。でも、完全ではなかった。僕のスマホの連絡先の「先輩」のフルネームは、相変わらず空欄のままだ。先輩自身もそれを知っているのか、何も言わない。


 帰り道、僕は鍵を握りしめた。冷たさは去り、代わりに内側へと吸い込むような温度が宿っている。歯の一本に、わずかな欠け。鐘の縁に似た形だ。鍵は、使うたびに何かを記憶していくのかもしれない。あるいは、次に差す先を、鍵自身が決め始めているのか。


 「仮名は便利だが、長居されると危ない」先輩がぽつりと言う。

 「“しろ”を置いた場所には、その白さを好むものが寄ってくる」

 「さっきの“器”?」

 「器は戻した。けれど、仮名はここ(僕の胸を指差す)にも置いた」


 その夜、風呂上がりに鏡を見る。曇った鏡の内側で、指が二本、さっと横切った気がした。拭くと、何もない。玄関で呼び鈴が一度だけ鳴る。足拭きマットに、濡れた二歩の跡が並ぶ。去年と同じ幅、同じ歩幅。僕は呼ばない。迎えない。伏せる。息を潜めると、携帯が震えた。先輩からの短いメッセージ。「明日、鐘の修繕の見積もりが来る。欠けの由来、少しわかるかも」


 通話履歴の名前欄は、やはり白い。仮名の白は、思っていたよりも明るい。光は影をつくる。僕が差し出す影に、誰かの指が触れる気配がする。鍵の「爪」が、ポケットの内側からゆっくり布を掻いた。いつか、その爪が僕の名前の縫い目に触れる。そう確信すると、眠気は遠のいた。日常に戻ったはずの音は、やはり一つ欠けたまま、耳の奥で鳴り続けていた。

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