第7話 ダンスよりも危うい鼓動

伯爵邸の大広間はダンスホールの様に広く、床は大きな窓から入った光に照らされて輝いていた。

広間に響くのは、リズムを取る手拍子と、マチルダ夫人の容赦ない掛け声。


「奥様、そこで右に九十度ターンです」


「はぁぁ? 右にターンって、私から見て右? それとも夫人から見て右?」


「……奥様から見て右です」


言われた通り、靴の踵で床をギリギリと擦りながら九十度回転。

その瞬間、マチルダ夫人は額を押さえ、長く重いため息をついた。


――メイド長、マチルダ・ブラックウッド。

屋敷のメイドたちを束ねる、厳格で礼儀にうるさいマダム。

清楚な見目に凛とした立ち姿、年齢を感じさせない美貌。

でも表情がほとんど変わらないせいで、私は密かに“女版ジル”と呼んでいる。


そのマチルダ夫人ですら、私の「踊れなさ」には頭を抱えるしかないらしい。


「奥様。なぜこのような悲惨な状態になるまで放置なされたのですか?」


怒るでもなく、憐れむような視線。

やめてよ! 現代人なんだから踊れなくても仕方ないでしょ!?


広間の隅で見物していたジルが、夫人に声をかけた。


「夫人、奥様の具合はいかがでしょうか」


「そうですね……峠を越えるには、最低でも二か月は必要でしょう」


ちょっと! 何よその会話!

私を病人みたいに診断しないでよ!?


私が噛みつく前に、ジルが涼しい顔のまま口を開いた。

ほんの少しだけ口元を上げて――つまり、楽しんでいる顔で。


「……奥様。失礼ながら、先ほどの回転は壊れかけのオルゴールを眺めているようでございました。

 舞踏会でそのままお披露目なされば、殿方はきっと――足を踏まれまいと必死に逃げ惑うことでしょう」


「……っ!!」


睨み返すと、ジルは胸に手を添え、あくまで恭しく続けた。


「ですがご安心を。奥様がどれほど足をもつれさせても、転ぶ瞬間には必ず私が支えます。

 ……観客の前で倒れ込む奥様を、誰よりも優雅に抱きとめるのは、この私の役目ですので」


その瞳の奥に、ほんのり楽しげな光。


――きぃぃぃ!! このクソ執事、腹立つ!

アンタの足に、そのオルゴールみたいな回転で穴を開けてやろうか!?


私の殺気を受け流しつつ、ジルは顎に手を当てて考え込む。


「しかし、このままでは一か月後の舞踏会には間に合いませんね」


「その通りです、ジルバート。今の奥様を表に出せば、我らがグレイストーク領は確実に破滅します。絶対に躍らせてはなりません」


――え、破滅!?

私のダンス一つで破滅フラグが立つとか、どれだけ深刻なのよ。


でも、少し光明が差した。

一か月後に間に合わないなら、練習しなくてもいいんじゃない?

安堵しかけたその時、マチルダ夫人が力強く前に出た。


「ですが、ご安心下さい。このマチルダが、必ずや舞踏会までに奥様を仕上げて見せます」


「い、いやでも……一か月後の舞踏会には間に合わないなら、別に踊れなくても……」


「間に合う間に合わないの話ではございません。やるのです。

 グレイストーク伯爵夫人が踊れないとあっては末代までの恥。全身全霊をもって奥様をご指導させて頂きます」


マチルダ夫人の言葉には有無を言わせない淑女の重みがあった。

ぞわり、と背筋が冷える。

やばい、このマダム本気だ。


ダンスなんて絶対に嫌! 面倒の極み!

私は救いを求めて、ジルへと視線を投げた。

――ジルえもん、助けて!


だが私の祈りは冷酷に裏切られる。

ジルは眼鏡を押し上げ、瞳に隠しきれない愉快さをにじませて告げた。


「奥様のご予定に、毎日二時間のダンスレッスンを追加いたします。

 ここ最近、午後のお茶の時間がなくなっておりましたので、ちょうど良いかと」


心底楽しそうに、わずかに口角を上げるジル。


――このモブ執事ぃぃ!!

ここぞとばかりに仕返ししてくるなんて姑息すぎる!


絶対に許さない。

もう二度と、こいつと口なんか利いてやらないんだから!


私はギリギリと歯を食いしばりながら、そう心に誓った。






***


その日から、地獄のような二時間が日課となった。

マチルダ夫人によるダンスレッスン――毎日みっちり二時間。


最初はひたすら音楽に合わせて足を動かす、ただの作業。

無心で踏みしめて、足が勝手に動くようになってきたら、今度は人と組んで踊る練習に移る。


……そこで、私が指名した相手はエディだった。


屋敷には、下級貴族の出身で「貴族の教養」を身につけた使用人が数名いる。

専属執事のジル、メイド長マチルダ夫人、部屋付きメイドのクララ、そして会計士のエディ。

この世界の厳格な身分制度では、上級貴族の私と直接言葉を交わせるのは、彼らのような“血筋持ち”だけらしい。

……まあ、私はそんな制度どうでもいいけど。


それでも練習相手は必然的に限られてくる。

でも、ジルは論外。絶対に嫌。踊るぐらいなら足を捻挫した方がマシ。

メイドのクララが相手でも良いけど、彼女にはピアノで伴奏をする役目がある。

というわけで、必然的にエディが私の相手となった。


最初は、私と手が触れるだけでガチガチに固まっていたエディ。

けれど私があまりにも足を踏みすぎたせいで、練習の終盤には緊張どころか足の痛みに半泣きになっていた。


それでも健気な子犬――いや、エディは一言も「痛い」とは言わず、練習が終わると必ず深々と頭を下げる。


「……お、奥様とダンスをご一緒できて、光栄でございました」


涙目でそう言われると、胸がチクッと痛む。

完全に“子犬を虐めている飼い主”の気分。罪悪感で胃が重い。


……いっそ練習相手をジルにすれば良かったか?

思い切り足を踏み抜いてやれば、少しは溜飲も下がったかもしれない。


――いや、駄目だ。あの執事のことだ、私が踏む前に察してスッと逃げるに決まってる。

仮に踏めたとしても、涼しい顔でこう言うだろう。


「素晴らしいおみ足です、奥様。私の足を粉砕するその勢いは、まるでハンマーのようでございました」


……想像しただけで腹が立つ!


それに――。




大広間に一人残った私は、暮れゆく夕陽に包まれていた。

差し込む光は赤く陰り、広間全体をほんのりと染めている。


背筋を伸ばし、顔を上げる。

両腕を構え、空気の中に“架空の相手”を思い描いた。


左手は――肩に。エディより、ずっと高い位置。

右手は――相手の手に。……少しざらついた感触が、否応なく蘇る。


そして視線を合わせれば、いつもの無表情な顔がこちらを見返すだろう。

腰に添えられる手、その支えの力強さ。


――途端に、あの夜の記憶が全身を痺れさせて動きを止めた。

執事と主人という境界を越えてしまった、忘れたいのに忘れられない夜。


「……っ!」


思考を振り払うように、その場でしゃがみ込む。


無理。絶対に無理。ジルと踊るなんて、私には不可能だ。

エディには申し訳ないけど、まだまだ相手をしてもらうしかない。


……ごめんね、エディ。君の足を犠牲にしてでも、私は上達してみせるから。


罪悪感を抱えながら立ち上がって出口に向かう。


……今日はもうやめよう。部屋に戻ってお風呂に入りたい。


疲れた溜息をついて大広間の扉を開けると――そこにいた。

まさにノックをしようとしていたジルと、鉢合わせてしまった。


一瞬、視線が絡む。二人だけの沈黙。


「オフィーリア様。まだ練習をなさっていたのですね。

 お部屋にいらっしゃらなかったので、探しに参りました」


「……あっそう」


それだけで胸がざわつく。

ダンスのレッスンを始めて二週間。ジルとまともに言葉を交わすのは、それ以来。

しかも二人きりで顔を合わせるのは――あの夜以来。


どうしたって意識してしまう。

慌てて視線を逸らすと、ジルの手に一冊の本があるのが目に入った。


赤い表紙、金の箔押し。タイトルの下に刻まれた作者の名――「アストレア」

その名を見た瞬間、思わず舌打ちしそうになる。


「……その本、読んでるの?」


「はい。これは礼儀作法書ですが、描写が緻密で実に興味深い一冊です。

 特に観察眼には目を見張るものがあり、私の人間観察の指標と言っても過言ではありません。私の愛読書と言えるでしょう」


――オタク特有の“自分の趣味の話になると饒舌”になるやつだ。


鉄面皮の執事が語り出すとこうなるのか、と呆れつつ、私はそっぽを向いて歩き出す。

ジルの横を通り過ぎ、大広間を出て自室へ向かう為に長い廊下を進む。

すぐ後ろから、足音を合わせてついてくるジルの気配が、やけに耳についた。


「本を読みながら私を探しに来たわけ?」


「いえ、たまたま読書中にクララから“奥様が戻らない”と報告が。

 読書帰りの道すがら、奥様の捜索を行っておりました」


……ついで、か。

何か腹立つんだけど。


それよりもっと意味不明なのは――私が冷たくするほど、声色が微かに明るくなる事。

聞き間違いじゃないわよね? どういうこと?


二週間も避けてたのに、どうしてそんなに平然としていられるの。

しかも避けられて喜んでるとか……まさかジルってマゾ?

理解不能すぎて頭が痛い。


――私はこんなにも動揺してるのに。


後ろを歩くジルの視線が背中を焼く。

久しぶりに聞いた声が耳に残って離れない。

手を伸ばせば触れられる距離にいるだけで、心臓がうるさい。


平静を装って廊下を歩くけど、誰も通らない。

よりによって、こんな時に限って。

……誰か来て! この空気に耐えられない!


「オフィーリア様」


突然の声にビクリと振り返れば、ジルが横道を指差していた。


「お部屋はこちらでございます。その先は行き止まりかと」


「わ、分かってるわよ!」


真っ赤になって引き返す私。

背後から漂う愉悦の気配に、さらに苛立ちが募る。


「ジル。あんた、楽しそうね」


「はい、オフィーリア様。これ以上の愉快はございません。なぜなら……」


ジルが言いかけて止まる。

気になって足を止めた瞬間――しまった。罠だった。


振り返った私と、ジルの視線が絡んでしまう。

鉄面皮のはずの顔が、今は笑っていた。

隠しきれない感情が漏れだした様に眼を細める。

その顔に、なぜか寒気を覚えた。


「オフィーリア様が私を避ければ避けるほど、私には愛を語られているように感じるのです」


――は?

思考が一瞬止まり、次の瞬間、叫んでいた。


「はぁぁぁぁ!? 何言ってんのよ! マゾみたいなこと言うのやめて! 気持ち悪い!」


「ですが、現にオフィーリア様は私と会うことに照れを感じていらっしゃる」


「うっ……」


痛恨の図星。

反論できない時点で、認めたようなものじゃない!


ジルは目を細め、さらに畳みかけてくる。


「視線の揺れ、体の緊張、言葉の端々。

 オフィーリア様から発せられるすべてが告げております。

 ――貴女は私を単なる執事以上に意識していらっしゃると。


 だからこそ、私を避けてしまう。

 私を見ると、あの夜を思い出してしまうのでしょう」


否定したいのに、声が出ない。

視線が絡めとられて抜け出せない。


「一週間でも、一ヶ月でも。どうか、お好きなだけ私を遠ざけてくださいませ。

 ――そのたびに、私の愉悦は高まるのですから」


そう言って笑みを浮かべるジルに、すぐ言葉が出ない。

本来の私――雪村灯子なら、何も返せずに俯き、悔しさと恥ずかしさの中で地面を見つめていただろう。


けれど今の私は、悪役令嬢オフィーリア。

変態観察魔ごときに屈するほど、彼女は弱くない!


拳を強く握り、ジルに向き直る。


「はぁ? 何それ。自分の変態性を誇らしげに語る執事なんて聞いたことないわ」


二歩、距離を詰める。

心臓が跳ね上がりそうになるのを必死に抑えながら、指先でジルの胸を突いた。


「愉悦だなんて……本当におめでたい執事ね。

 あんたと寝たことなんて、私にとってはただの気まぐれ。

 自分の妄想で燃え上がるなら、一人で勝手にやってなさい」


――そう、これだ。これが私。


ジルの影に怯えて逃げるのは、本来のオフィーリアじゃない。

強く、毅然と、何があっても怯まない。


それが『私のオフィーリア』

ゲームの彼女とも、現実の雪村灯子とも違う。

破滅フラグを折り、余生を勝ち取った、私だけのオフィーリア。


あの夜の記憶? ただの初体験に戸惑っただけ。

変態観察モブ執事に好き勝手言わせてたまるものですか!


私が睨みつけると、ジルは静かに目を伏せ、口元にわずかな微笑を浮かべた。


「申し訳ございません、オフィーリア様。

 どうやら、私としたことが少々浮かれておりました。

 執事としてあるまじき振る舞い……まことにお恥ずかしい限りにございます」


深々と頭を下げるジル。

私は「ふんっ」と鼻を鳴らし、踵を返して背を向けた。


途端に、手のひらから汗が噴き出す。

心臓は脈打ちっぱなしで、顔は熱くて仕方がない。


……ちゃんと出来たかな。悪役令嬢らしく。


背後のジルがどんな顔をしているか、考える余裕なんてなかった。

とにかく部屋に戻って、一人になりたい。


荒くなりそうな呼吸を必死に抑えながら、私は足早に自室へと戻った。


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