第15話~ミルフィーユ、逃げる~

その晩、私は久しぶりの陸地での眠りを堪能していた。


夕方から夜遅くまで酒場の1階は騒がしく、2階で眠る私たちのところまで声が届いていた。

しかし、その雑音も不思議と心地よく、まるで子守唄のように耳に響いた。


――ガバッ!


熟睡していた私は、突然何者かに抱き上げられて目を覚ました。

私の眠りを妨げたのはボウルだった。


いつもなら「ちょっと!」と文句を言うところだが、今回に限っては言葉を飲み込む。

私を抱き抱えるボウルの表情が、冗談を許すものではなかったからだ。


――ガシャン!


ボウルは私を抱えたまま部屋の窓を蹴破り、大通りへ飛び降りる。

振り返った彼の視線の先、部屋の中から怒声が響いた。


「逃げやがった!」

「あの狼、まだ野性が残ってる!気を抜くな!」


私は息をのむ。


「ちっ……。平和な国だと思ったが、馬鹿はどこにでもいるか」

ボウルの顔がまた険しくなる。


――私は、この顔が嫌いだ。

いつもの優しくて、ちょっと抜けたカッコつけマンのボウルが好きなのに。


ボウルは私を強く抱きしめたまま、夜の通りを駆け抜ける。


「いたぞ!郊外の街へ逃げた!」

「やっぱり赤竜の亜人だ!」


その言葉に、私は事態を理解した。


――亜人狩りだ。


でも、ここはジールド・ルーン。奴隷制度は禁止されているはずなのに……。

私はボウルの腕の中で、信じられない思いに囚われた。


「やつら、犯罪者だ!」

ボウルが低く告げる。

「違法と分かってても、お前を捕まえて外国に売れば大金が入る。その金で外国で悠々自適に暮らすつもりだ!」


どうして……そこまで。

胸の奥が、悲しみでいっぱいになる。


だがボウルの脚は速かった。私を抱えていてもなお、誰1人として追いつけない。

やがて彼は街を抜け、闇の森へと駆け込んだ。


森に入れば――ボウルは無類の強さを発揮する。


ボウルは背後から迫る気配に神経を張り詰めながら、暗い森の中をひた走っていた。


「しつこい連中だ……。ミルフィーユ、空へ飛べ。離れた木の上に隠れてろ。」


「……分かった。」


私は返事をし、翼を広げる。

その瞬間、ボウルが私を抱く腕を放した。


宙に浮かび上がり、少し飛んでから振り返る。

視線の先には、振り向いたままのボウルがいた。


「行けッ!」


怒鳴る声に胸が痛む。

私は前を向き、真っすぐ飛び去る――ふりをした。


だって、ボウルを置いて逃げられるはずがない。

物心ついた時から、ずっとそばにいてくれた人。

いつも1番近くにいてくれた、この世で唯一の家族なのだから。


「3人か……。」


ボウルは夜目で、迫ってくる人影の数を見極める。

荒い息を吐きながら、3人の犯罪者が森の中に姿を現した。


「おい、狼。赤竜はどこへ行った?」


「遠くへ飛んだ。もう戻らん。諦めろ。」

ボウルは冷たく吐き捨てる。


「そういうわけにはいかねぇんだよ……。俺たちは明日には国を出なきゃなんねぇ。この国で人拐いなんざやって生きていけるかってんだ。」


「自業自得だろ。大人しく聖騎士に捕まれ。」


そう言い捨てると、ボウルは木の幹を蹴り、跳躍した。


――高い所からの攻撃は、生き物の反応を遅らせる。

ボウルの持論だ。

実際、それで野生の狼すら一撃で仕留めてきた。


バシュッ!


だがそれは、接近戦しかできない獣相手に限った話だった。


投げつけられた刃付きのブーメランが、ボウルの左足を切り裂く。


ドサッ。


支えを失った体がうつ伏せに地へ叩きつけられた。

その背に、1人の男が飛び乗り、頭を押さえ込む。


「はっはぁ! 狼風情が人間に勝てると思ってんのか!」


「グルゥゥゥ……!」

ボウルは押さえつける男を睨み上げる。


「ごちゃごちゃ言ってねぇで、殺しちまえ!」

背後から別の男が怒鳴った。


「けどよ、こいつを人質にして赤竜を呼んだ方がよくねぇか?」

背に乗った男が、後ろを振り返り反論する。


――そのやり取りを聞いて、私の中で何かが弾けた。


「わあああああ!!」


泣きながら翼を広げ、私は木から飛び降りた。

ボウルの背に乗っていた男めがけて、全力で体当たりする。


不意を突かれた男の体がよろめいた。


その隙に、ボウルは体を捻り、仰向けに転じて――喉元へ牙を突き立てる。


グルゥゥゥ……。


牙が肉を裂き、喉奥へと食い込んでいく。


「ぐぁ……っ!」

男はくぐもった声を漏らし、しばらくもがいたが――やがてガクッと崩れ、力なく垂れ下がった。


ボウルはその亡骸を横へ投げ捨て、片足でよろめきながら立ち上がり、木に背を預ける。


「ま、マジかよ……。」

「噛み殺しやがった……。」


残る2人の顔に、恐怖が浮かんでいた。


――その時。

ボウルの冷たい眼差しが、地面に尻餅をついた私に突き刺さる。


「ボ……ボウル?」

震える声で名を呼んだ瞬間。


「逃げろっつっただろうが!!!!」


怒号が夜の森に轟いた。

体が硬直する。

これほどまでに本気で怒るボウルを、私は初めて見た。


「う、うあぁぁぁぁん!」


涙でぐしゃぐしゃになりながら、私は必死に羽ばたいた。

もう2度と戻ってはいけない――そう自分に言い聞かせながら。


* * *


ボウルは飛び去っていくミルフィーユの小さな背中を、ただ黙って見送っていた。


――万事休す。


木に寄りかかり、下を向く。

切断された足からは、止めどなく血が流れ落ちていた。


『判断を誤ったな……。』


ジールド・ルーンの王城へ向かうべきだった。

ここは神の教えを重んじる法治国家。

人も亜人も分け隔てなく守る――聖騎士たちなら、きっと助けてくれただろう。


過去に1度、亜人狩りに捕まったこともある。

武器を持った人間の群れに敵わぬことなど、分かりきっていたのに。


『ミルフィーユ……すまない。』


胸の奥で詫びる。

あの子が、自分と同じように「助けたい」と願っていたことも知っていた。


だが、それでも――ここだけは譲れない。


孤独に生きてきた。

人間を恐れ、山奥に身を潜め、ただ狩りをして過ごしてきた。

人間をよく知りもせず、ただ憎んで避け続けてきた。


そんな自分に、ミルフィーユが教えてくれた。

彼女の無邪気さが、自分を人間と出会わせ、優しさに触れさせてくれた。


――ミルフィーユ。

どうか人間を恨むな。

どうか、人間を好きでいてくれ。

自分のように、全てを疑って生きる人生を歩んではいけない。


そうすれば、きっといつか……お前を心から大切に思ってくれる人間と出会えるはずだから。


ボウルはそっと目を閉じ、ミルフィーユの幸せを神に祈った。

そして再び目を開き、目の前の犯罪者たちを睨み据える。


怯えていた彼らも、腹を括ったのか、武器を構えて立ちはだかった。


ボウルは最後の力を振り絞り――吠えるように飛びかかった。

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