第8話~ミルフィーユ、旅立つ~

私がこの家に来てから、また1年があっという間に過ぎた。


ロベルトの研究発表以降、毎日のようにロベルトの研究仲間が、私を見るために家へ訪れるようになった。


けれど、レベッカは不満そうだった。

まだ幼い私がたくさんの人に会えば体力の消耗が激しいこと、そしてボウルが人間を嫌っていること――

その2つの理由から、人を呼ぶたびにロベルトに怒っていたのだ。


一方のボウルはときどきレベッカへ、こう言ってフォローを入れていた。


「気持ちはありがたいが……我々は所詮、奴隷だからな。」


* * *


そして――楽しかった日々は、突然崩れることになる。


その日、ロベルトの帰りは遅かった。

私だけでなく、ボウルももう寝ようと地下の奴隷部屋へ降りていた。


「ロベルト、まだ戻らないの?」


いつもなら夕食のあと、ボウルかレベッカに連れられてベッドへ入り、そのまま眠りにつく。

だがその日は、一度寝かしつけられたあとで目が覚めてしまったのだ。


「ミルフィーユ、起こしたか?」


ベッドで目をこする私に、ボウルは気を遣うように声をかける。


そのとき――。

ボウルの耳が、玄関の扉の開く音をとらえた。

彼は顔を上げ、1階の玄関の方を見やり、ロベルトを迎えに上へ登ろうとする。


私もその後を追って階段を登る。

だが、いきなりボウルに抱えられ、口を押さえられた。


ボウルは私のもごもごする口を塞いだまま、玄関の声へと耳を澄ます。


「どうしたの、ロベルト? 元気ないじゃない?」


レベッカの声。

どうやらロベルトは玄関に座り込み、深くため息をついているようだった。


「これを……ミルフィーユに飲ませてみろと言われた。」


しばしの沈黙ののち、ロベルトが何かをレベッカに見せる。


「特殊誘火剤? 何これ?」


「前の研究発表で、俺が火炎袋の仕組みを話しただろ?」


「うん。」


「これは、その火炎袋に反応する薬なんだ。普通の人間が飲めば腹を壊すだけだが……」


そこでロベルトの言葉が途切れる。


「壊すだけだが? 火炎袋に反応するとどうなるの?」


さっきまで心配していたレベッカの声が、急に冷たい響きに変わる。


「……爆発する。」


ロベルトの答えを最後に、玄関が静まりかえった。



グルゥゥゥゥ……


私の口を塞ぐボウルの喉から、低く唸るような音が漏れる。


「人間どもめ……」


その表情は、今まで見たこともないほど恐ろしいものになっていた。


「それで? 研究のためにミルフィーユの喉を爆発させるつもり?」


レベッカの言葉は、鋭く突き刺さるようだった。


「そんなこと、できるわけないだろ!!」

ロベルトも声を荒げる。

「俺たちを警戒しているボウルなら……いや、ボウルでも無理だ。

だけど、俺たちを信じきってくれているミルフィーユを裏切るなんて、何を差し置いても絶対にできるわけがない!」


「けど……どうしたらいいか分からない。俺がやらなきゃ、他の奴が必ずやるんだ。」


ロベルトの苦悩に、レベッカが少し声を和らげて答える。

「そう。良かった……あなたが“ミルフィーユを殺す”なんて言い出さなくて。

もしそんなこと言ってたら、ボウルとミルフィーユを連れてすぐにでも家出してたから。」


その言葉に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。

ボウルの険しい表情も、少しずつ元に戻っていた。


「でも、どうするの? 2人を隠そうにも、この家の地下ももうバレてるし……。他の学者なんて当てにならないし……」


レベッカが言うと、ロベルトは答えを見つけられず、また沈黙が落ちる。


――長い沈黙ののち。


「2人を……逃がすか……」


ロベルトがぽつりと呟いた。


「逃がす?」

レベッカがその言葉を繰り返す。


「ああ、そうだ。2人に逃げられたことにすれば、俺は“役立たず”と罵られて終わるだけだ!」


「ロベルト……それをしたら、もう二度とミルフィーユやボウルと会えなくなるのよ?」


今度はレベッカの声が震え始める。


「分かってる。逃げるなら、学者の捜索網を抜けるところまで行かなきゃならない。

……だけど俺は、あの2人を殺したくないんだ。奴隷の首輪の鍵を取ってくる。」


ガチャッ。


地下へ降りる階段の扉が開かれる。


「あ……」


――盗み聞きをしていた私とボウルは、そこでロベルトに見つかってしまった。



「……話を、聞いてたんですね?」


「ああ。」

ロベルトの問いに、ボウルはあっさりと答えた。


「人間を、さぞお嫌いになったでしょうね……」


「元々、俺は人間が嫌いだ。」

ボウルの声音は冷たい。


「……首輪の鍵を取ってきます。少し待ってて下さい。」

ロベルトはそう言い残すと、地下の研究室へと階段を降りていった。


私はボウルの腕からするりと抜け出し、レベッカの元へ駆け寄る。

レベッカは指で目を擦りながら、鼻をすんと啜っていた。


「どうしたの、レベッカ? どこか痛いの?」

私は泣いているのかと思い、心配になって尋ねる。


レベッカはそんな私に笑顔を向け、「大丈夫だよ」と答え、私をぎゅっと抱き上げて頬擦りをした。

私を心配させまいと元気に振る舞っているけれど、その目も鼻も赤くなっていた。


やがて、ロベルトが奴隷の首輪の鍵を持って戻ってきた。

彼はまず私の首輪を外す。


「レベッカ、ミルフィーユの荷物をまとめてあげて。」


「うん。」

素直に答えると、レベッカは私を抱っこしたまま自分の部屋に行き、小さな赤いリュックサックを取り出して地下の私たちの部屋へ向かう。


そして私を降ろし、毛布をきれいに畳んでリュックに詰め込んだ。


その間、部屋の外ではロベルトがボウルの首輪を外し始めていた。


「……奴隷の首輪を外す意味を理解しているのか?」

ボウルが低く問う。


「分かっています。これを外した瞬間、私はあなたの主人ではなくなり、あなたは奴隷ではなくなる。」

ロベルトは淡々と答えた。


「俺はまだ、ミルフィーユを連れて逃げてやるとは言ってないぞ。」


「“言ってない”のではなく、“言うまでもない”のでしょう?」

ロベルトの静かな言葉に、ボウルは黙り込んだ。


「……あなたの人柄は、この3年間で理解しているつもりです。」


ガチャリッ――。


ボウルの首輪が外れる音が響く。

ボウルは首をぐいと曲げ、自由を確かめるように首回りを触ると、深いため息をついた。


「ここまで信用されたら、もう裏切れないか……。俺もお前に感化されたようだな。」

そう言って玄関へと歩みを進める。


「少し待ってて下さい。」

ロベルトはそう言い残し、自分の部屋へ走っていった。


――


部屋では、レベッカが荷物をまとめ終え、小さな赤いリュックを私の背中に背負わせてくれた。

それを見たレベッカは「フフ……」と、涙混じりに笑う。


「レベッカ、大丈夫?」

私は泣き顔のレベッカを見て心配になる。


「大丈夫! ミルフィーユのリュック姿が可愛すぎて、つい笑っちゃったの。」

そう言いながら私を抱き上げ、1階の玄関へ向かって階段を上っていった。


――


玄関に着くと、ボウルがロベルトの魔術師用のフード付きローブを身につけていた。


「ボウルさんの顔は人目に付きやすい。普段はできるだけフードを深く被って下さい。」

ロベルトは注意を促しながら、小さな袋を差し出す。


「……?」


「30万ダーム入っています。路銀にしてください。」

ロベルトが説明すると、ボウルは静かに頷く。


「それと――この国エルンの王都から、ジールド・ルーンという国へ向かう船が出ています。

あそこは亜人を含め、奴隷制度を禁じている国です。そこに着ければ、比較的安全に暮らせるでしょう。」


「……分かった。色々と世話になったな。」

ボウルは短く礼を言うと、レベッカの腕から降ろされた私に目をやる。

私は駆け寄り、ボウルに手を握られた。


「世話になった。」

そう言い残し、ボウルが玄関の扉に手をかける。


「待って!」

レベッカが駆け寄り、私を抱き上げた。鼻をすんと鳴らし、涙をこらえきれずにいる。


「おい……レベッカ。」

ロベルトが力なく嗜める。


「分かってる……分かってるから……」

苦しげに答えるレベッカ。


「レベッカ、苦しいの? どこか悪いの?」

私は首を傾げて尋ねる。


「ううん、大丈夫。ごめんね、ミルフィーユ。しっかりしなきゃね。」

そう言って私を降ろすと、レベッカはロベルトの胸にしがみつき、肩を震わせた。

ロベルトは黙って彼女の背を撫でている。


――


「別れを惜しむと、余計に辛くなる。……悪いが、行かせてもらうぞ。」

ボウルは私を抱き上げると、暗い夜の街へと駆け出した。

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