海神の花嫁

月兎アリス/月兎愛麗絲@後宮奇芸師

海神の花嫁

 欠けた月のように純白の裳裾を鵲の橋のように広げながら、ざあざあと鳴る漆黒の波浪に視線をむけた。

 松明の荒々しい光に皆の顔が映る。どこか余所余所しさか、それとも畏敬の念か、昏く疎らな情感が染物のように滲みでていた。空には弓張り月が静謐に浮かぶばかりで、星々さえもが神を畏れて輝きをとめている。


 安政の世から続くこの村の伝統は、正気の沙汰ならば思いもしない。

 けれども、循ってきた番をこばむことは、どうしても心が赦さなかった。





 それに気づいたのは十のころだったと思う。亡き祖母が仏壇に線香を供えながら愁いを独り言ちたのだ。雫の糸を垂らすように静かな語らいだった。博識でおとなしい祖母は、蓋し七年後に訪れるであろう、その禁忌じみた「伝統」を語った。


「この村は古来より海の恩恵を享けて生きてきた。だから、世紀にいちど、海神さまへ花嫁を差しだして、村の御加護を祈祷するんじゃ」


 祖母の時代には執り行われなかったが、彼女の祖母の妹にあたる方は花嫁として海神さまに差しだされた。まだ十五の幼い童女だったけれども、無垢な白い花嫁衣裳を纏って、村の大路からは遠く離れたお堂で一夜を過ごした。

 花嫁は此処に戻ることは二度とない。


「花嫁さんは、海神さまにどうされるの?」

「ひどい噂があるものでな、玲は知らぬ方がためになる。世のなかには、無知を装った方が面倒ごとに巻き込まれにくい、ということわりがあるんじゃ」


 祖母は一貫してほんとうのことを語らなかった。幼かったわたしは「かくしごとはよくない」と幾度となく叱られていたので、どうにも胸の裡の波紋が絶えなかった。やがて祖母は、経帷子を纏って柩に横たわった。


 どうしてだろうか、わたしは心が騒めいた。葬儀のとき、何故か胸の奥底をざらりと撫ぜられた気になったのだ。大路から遠く離れた岩礁の上に聳え立つお堂だ。わたしの、曾々祖母の、その妹さんが花嫁として送られたあのお堂を、いちどはこの目でみていないと、このからだが壊れてしまいそうな気がした。行くには荒波の脈打つ海を渡らねばならない。むかしからこの海には人喰い鮫が泳いでいるから、沖には漁師さんしかでてはいけないという掟がある。それでも、あのときの頬の熱りがそれを脳から消し去った。岩礁へと渡ろうとしたとき、何人がかりものおとなにとらえられた。何故、掟を破ったのか。海神さまが御怒りになって高潮を起こしたらどうする、おんなの餓鬼がどう責任を取る、そう尋問された。令和にもなってこんな風習をどうして信じているのか解せない。けれどもわたしは、何時間も正座させられ、暫くは学校以外の外出を厳禁された。


「神をばかにしやがって、そんなものは村からでていけ」


 そんなことを言われて、叱られて、押し入れのなかに閉じこめられたのにも拘らず、わたしは顧みなかった。花嫁のきもちなど、ほんの涙の一滴ほどの少ないことさえ知らない、知ろうともしない、知ろうとも思わない彼らが、わたしは大きらいで仕方なかった。


 花嫁なんて、奇麗な言葉で取り繕ったところで、けっきょくは生贄なのだと。

 花嫁衣裳を纏わせて列をつくったところで、誇りも幸せもないのだと。


 祖母は、花嫁衣裳のように白いからだになって、壺のなかにおさまった。

 そのからだは、時折りとまったはずの脈を打っていた。






 汐の香で随処が脆く崩れている校舎は、碧く透き通った深い海を窓から望める。

 噎せかえるほどに汗が噴きでてくる教室の床はひどくひんやりとしていた。蝉の音で融けてしまいそうな雪を想わせる。そういえば雪は透明な白だ。透き通っているはずなのに、折り重なれば白色になる。

 そういえば、祖母から花嫁の語りを聴いたあの日から、わたしは白という概念に敏感になった気がする。


 間もなく花嫁が択ばれるのだろうか。

 最後の花嫁が送られてから一世紀ほど経っているはずだ。わたしの世代から、花嫁が択ばれる。


 それで祖母は、花嫁のことを語ったのだろうか。

 わたしとさして変わらぬ齢の子が生贄にされることを解っていたから。


 真っ新な入道雲が天の深くへ膨らんで意気揚々と昇っていく。絶えず轟く雷鳴を、鮮烈な昊天にかくして。耳にうるさい蝉の声さえ、蜩の声ともなると少々ばかりの名残惜しさが胸を掠める。ざあざあという汐の音だけは、四季が循ろうと変わらない。絶えず、ざらついた音をたてている。


「今夏……だっけ? 海神さまのところへ花嫁が送られるんだよね」


 それを言ったのはちょうど後ろの席のあたりではやりの話題に華を咲かせていた女の子だった。やはりわたしの世代だったのだ。祖母はそれを解っていたに違いない。


「だれが送られるの?」

「いちばんおとなしい子じゃない? あんまり影響とかもないし……」


 からんとこまやかな音をたてて、シャープペンシルが床に落ちた。高らかに舞い上がる鳳蝶アゲハチョウをみていないと、そんなどうでもいいことをしていないと、あのときみたいに胸をまさぐられて、からだが壊れてしまいそうだった。ひびが割れるように、かたかたと音が聞こえるほどに、わたしの胸のさざなみは波紋を描いておおきくなっていた。

 わたしの一族から花嫁がでているから、よけいに息が苦しくなったのかもしれない。


 確かに地上にいるはずなのに、深くて闇い海の底であぶくを吹いているような気がした。


 わたしかもしれない。

 でも、此処に戻ってこれないことは特段どうでもよかった。家族と縁を切っても哀しくないうえに、揶揄したり噂を寫したりするようなばかしかいない高校は、わたしにとって地獄にもちかかった。

 けれども、痛みを感じながら喰われるのは御免だ。


「花嫁は、海神さまに喰べられるんだよ」


 痛みを感じずに死にたい。それこそ、安楽死みたいなものだ。だれだってそういう死がいちばん嬉しいのではないだろうか。ひとはいずれ、呼吸をとめるのだから。


 わたしが花嫁になったら、海神さまは痛くせずに喰べてくださるだろうか。どうか、気づいたら黄泉路を歩いていた、そんなみらいになりますように。

 願っても祈っても徒なことをつぶやけるほど、狂っていたのかもしれない。






 僅かに紅色の衣がみえるほど白い花嫁衣裳の裳裾を引きずりながら、海風の馨る宵の径を練り歩く。清い羅綾の花嫁を祝賀するのはこうこうと叢雲に輝きを映す玉鉤ぎょっこうだけだ。まるで花嫁を祝うように囲み歩む者たちは、世紀にいちどの花嫁を物珍しく想い、因習に順い役を負っているだけだ。花嫁がお堂に姿を消せば、お役御免と言わんばかりに日常へ帰す。

 その日常はわたしに降りかかることは二度とない。星となり散るのか、石となり散るのかさえ解らない。ただのにんげんとしては散れないのは薄々勘づいていたから、今更身を竦めることはなかった。


 黒の絵具で塗り潰したような海に、橋がかかる。鵲の橋だ。織姫が彦星に逢うように、わたしは海神さまに逢う。星屑の粉を鏤めたようなあまやかな橋に一歩踏みだせば、拡がる海にわたしが浮く。なにかのうえに立っている感覚はせず、まるで虚空にぽつりと浮かんでいるような気がした。それなのに鵲の温みは感じるから、よけいにわけが解らなくなる。


 岩礁の舞台のうえに立ったときには、ひとの喧騒は耳に入らなくなっていた。波が循りうつ音と、そんな音さえ響かない静寂しじまの天満つ月だけが、わたしの想いに届いていた。

 今度は海月が橋をかけた。濡羽色の海に融けてしまいそうな輪郭が月の光に撫ぜられて、華の紋を揺蕩わせる。まるで脈打つ心臓だ。確かないのちが揺れている。白い綺羅に擁かれると海月は、己の霓裳げいしょうを舞わせて呼応した。宵の虚空のなかで、海月は足許を照らす松明となって藍色のくうと混ざった。


 ついにお堂が姿を現す。

 ふるぼけたお堂は微かに汐の香を纏い、潜んでいた。


「海神さま」


 道しるべであった海月が、爛々としたぎょくとなって柱となる。花嫁との婚礼を寿ぐ舞姫のようだった。続いて鵲が、壊れてしまいそうな岩礁とお堂を護るように飛翔く。いつしか星芒が煌めき、わたしのよみちとよみじを照らしはじめた。綿帽子の綿毛が種を蒔くため舞うように、輪郭が融けて月と海に花嫁の再訪を報せる。漆黒に融けゆく吾身があくたになる前に、わたしは再度声を張った。


「海神さま……」


 刹那、海から水の天蓋が舞いあがって、揺れる水鏡に銀の鱗をはりつけた少年が映った。細く消えそうなからだに融けそうな淡い色の衣紋が果敢なく、そしてやはり、間もなく水鏡の波紋に揺れて消えた。けれども水は夜空と深海を孕んでいた。海の底と空のうえ、ふたつのあまねく一幅の絵を、円い貴石にとじこめて、そのなかで息をさせているような水鏡だ。

 やがてわたしの綿帽子が薄く散って、裳裾が風に靡きはじめた。姫百合の華の散り際を想わせる。結いあげていた髪がはらりと落ち、散る花弁を飾りにして落ちる。水飛沫の音色は波に搔き消されて耳に届くことはない。最後に袖が散り、足袋が散り、鯨の潮吹きを彷彿とさせる噴水が巻き起こり、岩礁が崩れ落ちる。海の竜巻だ。白い裾が濡れるさまは、まるで自分が人魚になったような気がした。


「……海神さま」


 鵲が擁き、海月が触れた。音もなく月に汐がかかり、現世が揺らいで鏡がわたしに接吻くちづける。月のうたかたが爆ぜて、夜空に翳を落とした。光が遠のき、常闇があぶくにとじこめられていく。彗星が落ちわたしの衣のなかで燃え尽きた。わたしのものではない袖が、わたしのからだに触れ、逃がすまいと抱懐する。銀漢を眼下に、わたしはこぼれゆく意識のなかで、袖に手を伸ばした。


 いつまでも、うたかたを歎いていた。

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