第三話 第一の試練・忘れられた者たちの声
満月の夜、アゼルとリリアは、セラフィーナに示された、大図書館の秘密の扉の前に立っていた。
ガイウスは、万一の事態に備え、部屋の外で屈強な部下たちと共に待機している。
やがて、天窓から差し込む満月の光が、床に描かれた魔法陣を照らし出すと、目の前の石の扉が、音もなく淡い光を放ち始めた。
そして、二人の脳内に、直接、声が響いた。
それは、男でも女でも、老いても若くもない、無機質で、しかし威厳のある声だった。
『我は塔。我は法。我は、この都市の揺り籠にして墓標なり。我が内へ入らんとする者よ。汝らの覚悟を、我に示せ』
その声が響き終わると、目の前の石の扉が、まるで塔が呼吸をするかのように、一度だけ、深く、そして静かに脈動した。
『問いに答えよ。この都市の成り立ちにおいて、最も大いなる罪とは、何か』
アゼルは、セラフィーナから渡された羊皮紙を広げた。
そこには、古代エルフ語で、一つの詩が記されていた。
「リリア、これを」
アゼルは、羊皮紙をリリアに手渡した。
「俺が合図をしたら、この詩を詠唱してくれ。一字一句、間違えずに」
「え?でも、これって…」
「いいから頼む」
アゼルは、光る扉に向き直った。
「最も大いなる罪。それは、禁忌の探求心ではない。ましてや、実験の失敗でもない」
彼は、静かに、しかしはっきりと答えた。
「それは、『真実から目を逸らした、臆病さ』だ」
『…解を、認めず』
塔の声が、無慈悲に響く。
扉の光が、急速に失われていく。
「今だ、リリア!」
『――光を求めし者は、影を生み、永遠を望みし者は、終わりを招く。されど、最も深き闇は、閉ざされた瞳の裏にこそ宿る――』
リリアの凛とした声が、詠唱を響かせる。
その瞬間、消えかけていた扉の光が、再び激しく輝きを取り戻した。
『解の、修正を確認。…扉を開く』
ゴゴゴゴ…と、重々しい音を立てて、数百年ぶりに、禁断の扉が、内側へと開かれていった。
「なぜ…?」
リリアが、驚いてアゼルを見た。
「塔は、創設者たちの『後悔』を基盤にした、一種の論理プログラムなんだ」
アゼルは、驚くリリアに説明を始めた。
「『最も大いなる罪とは何か』という問いは、知識を試す問いではなかった。俺たちに、中に入る資格があるかどうかを試す、認証キーのようなものだったんだ」
「認証、キー…?」
「ああ。だから、答えは二手必要だった。まず、俺自身の言葉で、彼らの罪の本質を理解していることを示す必要があった。だから俺は『真実から目を逸らした、臆病さ』だと答えた。だが、それだけでは不十分だ。なぜなら、俺は部外者だからな。創設者たちの心を代弁することはできない」
アゼルは、リリアが持っている羊皮紙を指差した。
「だから、彼ら自身の言葉による『本物の証明』が必要だった。創設者たちが遺したこの詩こそが、その証明書だったんだ。俺の答えで『問い』を理解している挑戦者であることを示し、君が彼らの詩を読むことで、その『答え』が本物であると証明する。二つが揃って、初めて『正解』になったというわけだ」
あまりにアゼルらしい、常識外れの解答法に、リリアは呆れるしかなかった。
扉の向こうに広がっていたのは、階段や廊下ではなかった。
そこは、地平線の果てまで続くかのような、広大な、灰色の平原だった。
空には、太陽も月もなく、ただ、濃淡のない、均一な光が満ちている。
そして、二人の目の前には、無数の道が、迷路のように入り組んでいた。
塔の内部は、それ自体が巨大な謎解きダンジョンとなっていたのだ。
「どこへ進めば…」
リリアが途方に暮れていると、二人の目の前に、一体の巨大な幻影が、陽炎のように揺らめきながら姿を現した。
それは、何十人もの人間が、苦悶の表情のまま、一つに融合したかのような、おぞましい姿をしていた。
都市創設の際、実験の犠牲となった錬金術師たちの、『
『帰れ…帰れ…我らの安息を、乱すでない…』
融合した幻影が、何十もの声を重ねて呻く。
その声は、二人の精神を直接揺さぶり、立っていることさえ困難にさせた。
「先輩、これは…!」
「ああ、物理的な攻撃は意味をなさない。奴は、俺たちの精神を、直接蝕もうとしている」
幻影は、ゆっくりと二人に向かって這い寄ってくる。
その巨体から発せられる絶望の波動が、二人の体力を容赦なく奪っていく。
リリアは、とっさに鞄から数種類の鉱石を取り出し、それを調合して幻影との間に投げつけた。
鉱石は、まばゆい光を放ち、一時的に絶望の波動を中和する、錬金術的な結界を張った。
「先輩、この結界も、長くは持ちません!」
アゼルは、結界が守る僅かな時間の中で、必死に思考を巡らせていた。
(奴を倒すには、奴を構成する『
彼は、苦悶に満ちた幻影の顔の一つ一つを、その驚異的な記憶力と分析力で、脳内に記録していく。
そして、気づいた。
全ての顔が、一つの方向を見つめていることに。
それは、この灰色の平原の、遥か彼方。
肉眼では到底見えないはずの、一点。
「リリア、奴らの視線の先だ。あそこに、何かがある」
アゼルは、結界の外へと飛び出すと、幻影の攻撃を紙一重でかわしながら、一直線にその場所を目指した。
リリアも、彼を援護するように、次々と妨害用の錬金術を放つ。
やがて、アゼルは一つの小さな塚のような場所にたどり着いた。
そこには、風化した石碑が一つ、寂しげに立っている。
石碑には、無数の名前が、乱雑に刻まれていた。
「これか…!」
アゼルは、石碑に刻まれた名前を、大声で、一人、また一人と、読み上げ始めた。
それは、この都市の歴史から、意図的に抹消された、禁忌の実験の犠牲者たちの名だった。
アゼルの声が響くたびに、巨大な幻影の動きが、僅かに鈍っていく。
彼らは、忘れ去られることを、何よりも恐れていたのだ。
アゼルが最後の犠牲者の名を読み終えた時、巨大な幻影は、そのおぞましい姿を解き、一人一人の、穏やかな表情をした錬金術師の幻影へと分離した。
彼らは、アゼルとリリアに、安らかな笑みを向けると、満足げに光の粒子となって、静かに消えていった。
彼らが消えた後、目の前の迷路は、一本の確かな道筋となって、次の階層へと続いていた。
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