第五話 幻影都市の真実

 グラハム・レイス高官は、ガイウス隊長によって、その日のうちに逮捕された。

 都市の秩序を乱した罪、そして、ドクター・ヴァンスの事件における偽装工作の扇動。

 彼がこれまでに行ってきた、数々の裏工作の証拠も、アゼルが周到に用意した報告書によって、次々と明るみに出た。

 都市には、安堵の空気が流れた。

 伝説の錬金術師の死の真相は、都市の権力者が、その危険な研究を闇に葬るために仕組んだ、壮大な陰謀だったのだ、と。

 人々は、分かりやすい結末に胸を撫で下ろし、事件は解決したものとして、急速に日常の中へと埋もれていった。


 だが、アゼルの心には、まだ、解けない数式のように、いくつかの疑問が澱のように残っていた。

 研究室の壁には、事件の相関図が、今も貼られたままだ。

 アゼルは、その図を、何日も、何時間も、ただ、じっと見つめていた。

「先輩、事件は解決したのに、まだ難しい顔をしていますね」

 リリアが、心配そうに、温かいハーブティーを彼の机に置いた。

「…リリア」

 アゼルは、初めて、助けを求めるように、彼女に問いかけた。

「この事件、まだ、何かがおかしいと思わないか?」

「え…?ですが、グラハム高官が…」

「ああ、彼は黒幕の一人だろう。だが、彼の動機は、あまりにも合理的すぎる」

 アゼルは、相関図の一点を指差した。

「彼が本当にドクター・ヴァンスの研究を危険視し、それを完全に消し去りたかったのなら、なぜ、あの『若い頃のヴァンスの幻影』を、現場に残しておいた?あれは、私に『魂の転写』という、事件の核心に繋がるヒントを与えてしまった。あまりにも、不自然なミスだ」

 アゼルは、机の上に広げられたドクター・ヴァンスの研究ノートの、最後の数ページを指差した。

 そのページは、他の部分とは異なる、極めて複雑な術式で暗号化されており、解読できずにいた。

「この暗号化された部分に、ドクター・ヴァンスの本当の目的が記されているはずだ。だが、これは、理論だけでは解けない。分子レベルの錬金術的な鍵(キー)が必要だ…」

 アゼルが、悔しそうに呟いた、その時だった。

「先輩、こっちのほうは、もしかしたら解読できたかもしれません」

 リリアが、別の実験台から、一枚の羊皮紙を大切そうに持ってきた。

 それは、暗号化されたページの、彼女が作った写しだった。

「暗号そのものは解けなかったんですけど、このページに使われているインクの成分を、ずっと分析していたんです。ほんの僅かですけど、『響鳴石(きょうめいせき)』の粉末が混ざっていました。特定の魔力周波数にしか反応しない、特殊な鉱石です」

 彼女は、この数日間、諦めずに、考えうる全ての微弱な魔力周波数を、その羊皮紙に当て続けていたのだという。

 そして、つい先ほど、特定の周波数を当てた瞬間、インクの模様が、ほんのわずかに、しかし、確かに変化したのだという。

 羊皮紙の上には、元の暗号の下に、新たな数式が浮かび上がっていた。

「…これは…『記憶の残滓レムナント』の、固有振動数に関する数式…」

 アゼルは、その数式と、自らが記録していた「都市の幻影の異常な揺らぎ」のデータを重ね合わせた。

 その瞬間、彼の脳内で、最後の閃きが生まれた。

「そうか…!そういうことか!リリア、君のおかげで、最後のピースがはまった!」

 都市の幻影の、微かな変化。それは、グラハムの逮捕後も、続いている。

 その変化の周期と、リリアが解読した『記憶の残滓レムナント』の振動数が、完璧に一致したのだ。

 これは、グラハム個人の影響ではない。

 もっと、巨大で、根源的な何かが、この都市そのものに、影響を与え続けている証拠だった。

「リリア、行くぞ」

 アゼルは、決意を固めた顔で立ち上がった。

「もう一度、大図書館へ。最後の答えを、聞きに」


 ◇


 大図書館の最奥、古文書修復室。

 セラフィーナ・ローブは、アゼルとリリアの来訪を、予期していたかのように、静かにお茶の準備をしていた。

「…お気づきになりましたか、アゼル・クレメンス」

 彼女は、アゼルが口火を切る前に、そう言った。

 その声には、諦めと、そして、ほんの少しの安堵の色が滲んでいた。

「ええ」

 アゼルは、彼女の前に、リリアが解読した数式と、都市の幻影のパターン分析図を置いた。

「ドクター・ヴァンスは、不老不死を求めてはいなかった。そして、あなたも、単なる傍観者ではない。この事件の、本当の真相を、教えていただきたい」

 彼は、セラフィーナを見据えて、自らの最後の仮説を告げた。

「ドクター・ヴァンスの本当の目的は、この数式を使って、都市全体の『記憶の残滓レムナント』の共振周波数を特定し、それを浄化することだった。この都市を、本当の意味で救うことだった。あなたは、それを知っていた。そして、止めた。違いますか?」

 セラフィーナは、長く、深い沈黙の後、ついに、重い口を開いた。

「…どこから、話すべきでしょう。そう、全ては、この幻影都市アストラルムの、創設の秘密から、始めなければなりませんわね」

 彼女が語り始めたのは、おとぎ話のようであり、そして、あまりにも残酷な、この都市の真実の物語だった。

「かつて、この地で、不老不死の研究が、禁忌を恐れぬ天才たちによって行われていました。ですが、その研究は、大失敗に終わった。彼らは、不老不死の代わりに、決して消えることのない、『記憶の残滓レムナント』という名の、精神的な汚染ミアズマを生み出してしまったのです。それは、人々の精神を蝕み、この地を、狂気と絶望の牢獄に変えようとしていました」

「それを、封じ込めるために、この都市が…?」

「その通りです」

 セラフィーナは、静かに頷いた。

「このアストラルムという都市そのものが、暴走する『記憶の残滓レムナント』を封じ込めるために築かれた、一つの、巨大な錬金術的結界なのです。そして、中央の『幻影の塔』は、その結界を維持するための、要となる装置。都市に美しい幻影を見せることで、人々が、その足元に広がる、巨大な狂気の牢獄に気づかないように、偽りの平和を、演じさせ続けているのです」

「では、ドクター・ヴァンスは…」

 リリアが、震える声で尋ねる。

「彼は、その事実に気づいてしまった、数少ない錬金術師の一人でした。そして、彼は、不老不死などという、矮小な目的のためではなく、この都市そのものを、呪われた運命から解放するために、その生涯を捧げたのです。彼が研究していたのは、不老不死の秘術ではありません。寄生した『記憶の残滓レムナント』を浄化し、この幻影都市を、真の意味で、実体のある、本物の都市へと、生まれ変わらせるための、究極の秘術だったのです」

「彼の『老化』は…」

「ええ」

 セラフィーナは、痛みを堪えるように、目を伏せた。

「その秘術の、最終段階の実験でした。彼は、自らの肉体を触媒とし、都市に満ちる汚染の一部を、その身に引き受け、浄化できるかどうかを試したのです。それは、成功すれば都市を救い、失敗すれば、彼一人が犠牲となる、あまりにも気高い、自己犠牲の実験でした。そして、実験は…失敗に終わったのです」

 アゼルは、全ての謎が解けた衝撃に、言葉を失っていた。

 ドクター・ヴァンスは、自ら死を選んだ。

 シルヴィアは、師の名誉を守るために、それを偽装した。

 グラハムは、その偽装を利用して、危険な研究を闇に葬ろうとした。

 そして、その全ての駒を、盤上で静かに操っていたのは…。

「なぜ、あなたは、この真実を、もっと早く私に明かさなかったのですか? なぜ、私を、グラハムという偽りの黒幕へと誘導したのです?」

 アゼルは、最後の問いを、セラフィーナに投げかけた。

「…ヴァンスの最後の実験は、あまりにも危険すぎたからです」

 彼女の瞳から、初めて、感情のヴェールが剥がれ落ち、深い悲しみが溢れ出した。

「成功すれば、都市は救われる。だが、一歩間違えれば、このアストラルムは、封印された『記憶の残滓レムナント』の奔流に飲み込まれ、消滅していた。私には、選べませんでした。この都市の、何十万という市民の命を、彼一人の、あまりにも気高い博打に賭けることなど…!私は、彼を止めたかった。そして、彼の死が、この都市の本当の危機を人々に知らせ、パニックを招くことを、何よりも恐れたのです」

「だから、あなたは、全てを操った。シルヴィアの師への想いも、グラハムの歪んだ正義感も。あなたは、彼らを誘導し、この事件を『錬金術を巡る矮小な隠蔽工作』という、人々が理解しやすく、そして忘れやすい、ありふれた物語に仕立て上げた。この幻影都市の、本当の危険を、人々に知られないようにするために」

 アゼルは、ついに、最後の真実にたどり着いた。

 この事件の、真の黒幕。

 それは、誰よりもこの都市を愛し、その平和を守るために、自らが汚れることを厭わなかった、一人の、孤独な守護者だったのだ。

 アゼルは、静寂に包まれた大図書館で、自らの無力さと、そして、これから向き合わねばならない、あまりにも大きな真実の重さに、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。

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