第16話「牧場の夜明け」

週末の早朝。まだ空が青と灰色の境界を漂っている時間に、ノアはガレージの奥から聞こえる金属音で目を覚ました。

 階段を下りると、父が工具を広げてトラクターの古いエンジンをいじっていた。油の匂いがガレージいっぱいに満ちている。



無言の手伝い


「……手伝おうか?」

 声をかけると、父は驚いたように一度顔を上げ、それから無言でレンチを差し出した。

「ボルト、ここを外せ」

 ノアは言われた通りに手を動かした。最初はうまく力が入らなかったが、何度か繰り返すうちにコツをつかむ。

 父は黙ったまま、必要な指示だけを投げてくる。そのやり取りが、妙に心地よかった。



朝焼けの中で


 作業がひと段落した頃、空が薄いオレンジ色に染まっていた。牧場の向こうから牛の鳴き声が聞こえる。父は手を洗いながら言った。

「……もうすぐだな」

「何が?」

「日本に行くんだろう」

 ノアは一瞬返事に詰まったが、やがて小さく頷いた。

「まだ何も決まってないけど、行くつもりだよ」

「そうか」

 父は短く答え、工具箱を閉じた。その背中から、言葉にできない複雑な感情が滲んでいる気がした。



父の不器用な言葉


 しばらく沈黙が続いた後、父がぽつりと言った。

「行くなら……見てこい。お前の曽祖父がどんな人間だったのか、どんな場所で生きていたのか。それをちゃんと目で見てこい」

 その声は低かったが、不思議と力強かった。


「うん、絶対に」

 ノアはまっすぐに答えた。胸の奥が熱くなり、目の奥が少しだけ滲んだ。



静かな朝食


 家に戻ると、母がキッチンでコーヒーを淹れていた。

「おはよう。二人で何してたの?」

「整備だよ」

 ノアが答えると、母は柔らかく笑った。

「そう。……あなたたち、似てるわね」

 父は新聞を開いたまま何も言わなかったが、耳の先がわずかに赤くなっているのをノアは見逃さなかった。



ノートのページ


 部屋に戻ると、ノアはノートを開いた。

 新しいページの一番上に、ゆっくりと書き込む。

•Step Eleven: Prepare for the journey.

•Family support = strength.


 そしてページの隅に、小さな文字でこう付け加えた。


「帰る場所があるから、行ける」



夜明けの約束


 その夜、牧場の空気が静まり返った頃、ノアは再びガレージを覗いた。工具箱の横には、父がいつも使っている古い作業手袋が置かれている。

 その手袋をそっと持ち上げ、心の中で誓った。


「必ず見てくる。そして、必ず帰ってくる」

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