第3話 図書館の扉
放課後、空はオレンジ色に染まり始めていた。校庭からは野球部の掛け声が響き、遠くではトラクターの低いエンジン音が一定のリズムを刻んでいる。
僕はバックパックを肩にかけ、いつもなら家へ直行する道を曲がった。目指すのは町の図書館。サラに言われた「図書館行けば?」の一言が、頭の中で何度もリフレインしていた。
⸻
小さな図書館
町の中心部にある図書館は、スーパーマーケットの駐車場の端にある古い平屋だ。入口のドアベルを押すと、かすかな鈴の音が響いた。
カウンターの奥から、白髪をひとつにまとめた女性が顔を上げる。
「いらっしゃい、ノア君じゃない。珍しいわね、放課後に」
司書のメアリーさんは、この町で生まれ、この町で育った“町の知恵袋”のような存在だ。子どもの頃から何度もこの図書館に来ていたけれど、宿題のため以外で足を運んだのは初めてだった。
「ちょっと……人を探してるんです。昔の人なんですけど」
「昔の人?」メアリーさんは眼鏡を押し上げ、首をかしげた。
「僕の……曽祖父です。名前は……イサム・サトウ」
その名前を声に出すと、胸の奥が熱くなった。
「サトウ? ああ、日本の名字ね。サトウシュガーのサトウと同じ発音よ」
「そうなんですか?」
「ええ、甘いお砂糖と同じ。ふふ。……どんな資料を探してるの?」
僕はバックパックから祖父のノートを取り出し、そこに書かれた“Isamu Sato”の文字を見せた。メアリーさんはしばらく目を細めて考えたあと、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、あっちの奥。地域史の棚に移民関係の記録があるわ。たぶん西海岸への渡航記録や、昔の新聞記事の縮刷版もあるはず」
⸻
古い紙の匂い
奥の棚は、誰も使っていないような静けさが漂っていた。黄ばんだ本の背表紙がずらりと並び、紙の独特な匂いが漂っている。僕は一冊手に取り、慎重にページをめくった。
そこには「日系移民(Japanese Immigrants)」という章があり、20世紀初頭のアメリカ西海岸へ向かう船の記録、写真、そして人々の証言が淡々と記されていた。
“They came with dreams and fears, carrying only a few belongings and a name.”
(彼らは夢と恐れを抱え、わずかな荷物と名前だけを携えてやって来た。)
その一文に目が止まり、心がざわついた。
ページをめくると、古い白黒写真が載っていた。サンフランシスコの港で撮られたという写真。背広を着た男たち、和服姿の女性、小さな子供を抱えた母親。
その中の誰かが、自分の曽祖父と同じ時代を生きていたのだと思うと、胸が不思議な熱さで満たされた。
⸻
最初の“線”
何冊も本を開き、記録をノートに書き写していくうちに、少しずつ見えてくるものがあった。
20世紀初頭、日本からアメリカ西海岸への移民が増えていたこと。多くが港町から出発し、シアトルやサンフランシスコに着いたこと。そして……多くの人が農場や港湾で働きながら、家族を呼び寄せ、コミュニティを築いたこと。
「……シアトル」
祖父の木箱の中にあった、半分だけの渡航券の片隅に確かにそう書かれていた。
それは、途切れた線がゆっくりとつながる感覚だった。まるで、見えない地図の一部が薄く浮かび上がるように。
⸻
司書の助言
ノートを抱えてカウンターに戻ると、メアリーさんが微笑んだ。
「どうだった?」
「……なんとなく、少しだけ分かってきた気がします」
「なら、次は州の公文書館か、日系人会に問い合わせるといいわ。ネットでも調べられるけど、紙の記録のほうが確かよ」
「日系人会……?」
「Japanese American Community、って言えば分かるかしら。西海岸のほうに本部があるの。彼らは昔から記録を残してるから、きっと何か見つかるわ」
その言葉を胸の奥で繰り返した。日系人会。
何も知らない僕にとって、それは遠い国へのもうひとつの扉のように思えた。
⸻
夜の帰り道
図書館を出ると、空は群青色に変わり、星がひとつふたつ瞬き始めていた。
家に戻る途中、風が頬を撫でる。その風が、不意に海の匂いを運んできたような気がした。もちろんこの町に海はない。それでも、確かに潮の香りがした。
ノートのページをそっと撫でながら、僕は心の中で呟いた。
まだ何も知らない。でも、知りたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます