風の家紋(かぜのかもん)—僕が日本へ向かうまで—

和泉發仙

第1話 出奔と箱

乾いた風が町外れのトウモロコシ畑を揺らしていた。僕の住む町は州間高速から外れたところにぽつりとあって、どこを切り取っても同じ空と同じ色の土が広がっていた。朝、母が出勤する車のテールランプが砂埃の向こうへ消えるたびに、僕はこの町が少しずつ僕を小さくしていくような気がしていた。


 父は修理工場で油にまみれ、僕に「手に職をつけろ」と言った。母は看護師で、夜勤を終えて帰るとテーブルに肘をつき、ミントのガムを噛みながら「大学を出て、ここを出るのも一つの道よ」と言った。二人の言葉は、進行方向の違う二本の線路みたいに、家の中でかすかなきしみ音を立て続けていた。


 その朝、僕は数学の答案用紙を鞄から取り出して、テーブルの上に黙って置いた。赤いペンの丸は少なかった。父は拭いたばかりの手で紙をつかみ、溜め息をひとつだけ落とした。母は「次、頑張ればいいの」と言った。僕はなぜか、その言葉の軽さに耐えられなかった。


「僕は、ここを出たいんだ」


 気づくと、そう言っていた。父の眉が動き、母の指が止まる。


「出るって、どこへ?」と母。

「逃げるのは簡単だ」と父。


「逃げるんじゃない。僕は――」


 喉の奥で言葉が絡まった。何から逃げたいのか、どこへ行きたいのか、自分でもはっきりしない。ただ、畑の向こうに延びる未舗装の道の先に、僕の知らない世界の色が確かに滲んでいる気がした。


「話は終わりだ。学校に行け」父は紙を折り、ポケットにしまった。


 その仕草が、まるで僕の未来をポケットに押し込めるみたいで、僕は椅子を引き、玄関へ向かった。母が何か呼びかけたが、ドアの蝶番の音がその声を切った。家の前の乾いた空気が肺を刺し、僕は歩き出した。



 町のバス停は、案内板の塗料が剥がれ落ち、時刻表の横に古いチューインガムが固まっていた。昼過ぎの便まで三時間もあった。僕はバックパックの紐を締め直し、コーラの自販機の影に腰を下ろした。掌の汗がひいたころ、声をかけられた。


「待つのは、風を相手にするみたいなもんだ」


 振り向くと、灰色のフードを被った男がいた。髭は白く、頬骨の上に日焼けが積もっている。町外れでときどき見かけるホームレスのレイだ。彼はいつも同じ、破れたスニーカーを履いていた。


「どこへ行く?」レイはベンチに腰を落とし、足のつま先をブラブラさせた。

「とにかく、ここじゃないどこか」

「いい“どこか”は、たいてい“だれか”の隣にある」


 僕は笑えなかった。レイは僕をしげしげと見て、ポケットから飴玉を二つ出した。一つを自分の口に放り込み、一つを僕に投げた。包み紙は赤いストライプで、角が柔らかくなっていた。


「へんな言い方だけどな」レイは空を見上げた。「帰れる場所があるなら、それは君の宝だ。宝は捨てるものじゃない」


 あっけなく喉の奥が熱くなった。涙が出るなんて思ってもみなかったのに、鼻の奥がつんと痛み、視界が揺れた。僕は慌てて俯いたが、レイは笑ったりしない。ただ、風に揺れる案内板を眺めたまま続けた。


「俺は、帰る場所をうまく持てなかった。だから道の端で風を数えてる。君が同じ真似をする必要はない」


 沈黙が落ちた。遠くでトラクターの音がした。僕はバックパックの紐を緩め、ゆっくりと立ち上がった。


「……家に、戻るよ」


「いい選択だ」レイは片手を上げた。「戻って、もう一度話すんだ。人間は言葉でしか橋をかけられない」


 僕は頷き、歩き出した。背中でレイが「飴はポケットで溶けるぞ」と笑った。



 家の前に立つと、ドアの向こうから鍋の蓋の当たる音が聞こえた。ノックの音は自分の心臓より小さかった。ドアが開き、母が立っていた。目の周りが少し赤い。僕は「ごめん」と言おうとして、言葉より先に涙が落ちた。


 母は短く息を吸い、僕を抱きしめた。肩に感じる看護師の消毒液の匂い。父は廊下の奥で腕を組んでいた。しばらくして、ゆっくり近づき、咳払いを一度。目は合わせない。


「腹が減ってるだろ」それだけ言うと、父はキッチンへ戻った。母は僕の頬を拭い、「荷物は外の押し入れに置いてきなさい。汚れてる靴も、そこで」と言った。


 外の押し入れは、ガレージの横にある木製の小さな収納だ。鍵は壊れたまま、ひねれば開く。中には古いガーデニングの道具、クリスマスの飾り、祖父の釣り道具が雑に詰められていた。僕はバックパックを奥へ押し込み、靴の泥を落としているうちに、奥の棚の下に指先が何か硬いものに触れた。


 引き出す。埃をかぶった、茶色い木箱だった。幅は肩幅ほど、重さは意外に軽い。蓋には金具の留めが二つ、真鍮が鈍く光る。箱の表面に、黒い墨のような印が押されている。丸の中に、五つの花びら――桔梗だ、と僕は思った。どこで覚えたのか分からないが、その形を見た瞬間、脳の奥がじん、と鳴った。


 箱の上には、乾いた布が一枚かかっていた。広げるとそれは風呂敷だった。深い藍色に、白い小さな桔梗が散っている。布地の端には、細い糸で「S」とだけ縫い取りがあった。


 僕はリビングへ駆け戻り、母に声をかけた。「これ、知ってる?」


 母は両手の水を振り、タオルで拭きながら近づいた。箱と風呂敷を見るなり、目を見開いた。


「それ……おじいちゃんの箱だわ」


「祖父さんの?」


「そう。あなたが生まれる前に亡くなったから、覚えていないでしょうけど。幼い頃から、あの人だけが大事にしていたの。誰にも触らせなかったから、私も中を知りません」


 父もキッチンから出てきた。手にはまだ油の匂いが残っている。三人でテーブルを囲み、僕は慎重に留め金を外した。古びた蝶番が、低く鳴る。蓋を開けると、ふわりと紙と布の混ざった匂いが立ち上った。


 中には、さらに風呂敷で包まれた小さな包みが二つ、古い封筒が三通、厚紙に貼られた白黒写真が数枚、そして薄い木の板に焼き印の押されたものが一枚。焼き印にも、あの桔梗が刻まれている。


 封筒の一つを持ち上げる。茶色の紙に、万年筆のインクで書かれた文字。「To my son」。開くと、折り畳まれた便箋の端が脆く、少し欠けた。中には英語で短い文と、最後に大きく署名があった。


 Isamu Sato


 息が詰まった。父が身を乗り出す。母は手を口に当てた。


「イサム・サトウ……?」母がゆっくり繰り返す。「これが、あなたの曽祖父の名前なのかもしれない」


 別の封筒の中には、英語と見慣れない文字が混ざったメモが入っていた。曲線の多い、不思議な文字。僕は一行目を指でなぞった。指の腹が震える。写真を一枚取り上げる。若い男が写っていた。端正な顔つき、髪を七三に分け、黒い学生服のような服を着ている。胸ポケットに白いハンカチ。背景には木造の校舎。写真の裏に、鉛筆の字でこうあった。


 佐藤 勇 昭和六年 三月


 見慣れない「昭和」という字。僕は父と顔を見合わせた。父はゆっくりと椅子に座り直し、深く息を吐いた。


「サトウ……Sato。勇(Isamu)。なるほど」


 風呂敷の小包を解くと、薄い紙に包まれた船の切符の半券が現れた。かすれた英字で、港の名と日付が読める。“Seattle”の文字。日付は遠い昔。もう一つの包みには、小さな木の印――印鑑というのだろうか。朱色がかすかに残る。彫られた文字は僕には読めない。


 僕は、ゆっくりと椅子の背にもたれた。レイの言葉が、耳の奥で再生される。「帰れる場所があるなら、それは君の宝だ」


 帰れる場所。僕にとってそれは、さっき泣きながら叩いたこの家のドアで、同時に、今ここに開かれた箱の向こう側に延びる、見たことのない海の匂いのする国のことなのかもしれない。


「ねえ」母が言った。「祖父は、出自のことをほとんど話さなかった。けれど、長いことこの箱を手放さなかった。たぶん、そこに理由がある。……調べてみましょう」


 父は黙っていたが、やがて頷き、箱から英字の封筒を一つ取り上げた。「手がかりは十分にある。写真、名前、年代、港。やるなら、やりきれ」


 僕は深く頷いた。胸の奥に、乾いた町の風とは違う、湿った潮の風が吹き込んできた気がした。窓の外で雲が流れ、台所の時計が一分を刻む。僕はそっと風呂敷に触れ、布の目の細かさを確かめた。誰かの手の癖。細い糸の“S”。その縫い目の向こうに、人の人生がほどけずに結ばれている。


 夜になって、父は工具店のレシートと一緒に、古いノートを僕に差し出した。罫線の太い、茶色い表紙。


「記録をつけろ」父は言った。「お前が何を見て、何を聞いたか。忘れるな」


 母は紅茶を淹れ、砂糖を一匙落とした。「明日、図書館に行きましょう。古い新聞、移民の記録、何か見つかるかもしれない」


 僕はノートの最初のページに、震える手で四つの文字を書いた。

Isamu Sato。

そしてその下に、見よう見まねで曲線の多い見慣れない文字を並べた。写真の裏にあったのと同じ――たぶん、佐藤 勇。


 書き終えると、胸が熱くなった。遠くで犬が吠え、畑の向こうを風が渡る。僕はページを閉じ、顔を上げた。世界が少しだけ広くなった気がした。いや、広がったのではなく、僕がやっと扉の位置を知ったのかもしれない。


 その夜、ベッドに横になって目を閉じると、波の音のようなものが聞こえた気がした。もちろん、この町に海はない。けれど確かに、どこかで、夜の海が黒く光っている。そこに、ひとつの家紋が風に揺れている――丸の中の桔梗。誰かがそれを指先でなぞる。

 僕は、眠りに落ちる直前、はっきりと心の中で言った。


 僕は、行く。


 そうして、僕の旅は始まった。

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