第一章 四月

 四月。先日の雨で散った桜の花を避けながら、誰もいない駅のホームに立っていた。どうやら、始発であるこの駅から、この時間に電車に乗るのは私だけだということは数日通う中でわかった。

 けれど、むしろそのほうがいい。誰にも会いたくない。会えばきっと、私の制服を見て気付くはずだ。


 ――公立高校に落ちたのか――


 と。

 他の地域がどうなのかは知らないけれど、私の住む地域ではほとんどの人が公立高校を受験する。そして、先生たちが出願する人数を調整するのか、毎年落ちる人は各中学校で一人か二人だった。

 だから、落ちる可能性がある人は市内にある唯一の私立高校に併願を出すのだ。……落ちる可能性のある人は。

 私は落ちる予定なんてなかった。先生だって余裕で合格するだろうと言っていたし、私だってそう思っていた。

 なのに、落ちた。落ちたのだ。


 熱があった? ううん、平熱だった。


 お腹でも下していた? ううん、してない。


 頭でも痛かった? ううん、痛くなかった。


 じゃあ、いったいどうして?

 答えは簡単だ。


 カンニング――。


 もちろん、私はカンニングなんてしていない。なのに、なぜカンニングで失格になったのかと言うと、どうやら消しゴムを落としたときに隣の席の子と入れ替わってしまっていたようだった。その子がずっと真っ青な顔をして俯いていたから間違いないと思う。

 でも、それがわかったところであとの祭りだった。どれだけ私が否定しても、誤解だと訴えても、手元にカンニングペーパーの挟まった消しゴムがあるのだ。これ以上の証拠はない。

 と、いうことで私はそのまま試験会場を追い出され、別室でたくさんの先生から叱られ、そしてもちろん……高校受験に失敗した。

 その時点で私立に出願すれば間に合ったのだけれど、ショックから数日間部屋に引きこもり、気付いたときにはもう市内の私立高校の出願期間は終了していた。

 そんなこんなで、その時点で応募できた県内の、それも私の住む市からは電車で2時間かかる場所にある私立高校になんとか出願し、合格通知を貰い、数日前からこうやって通っているのである。


「はぁ……」


 小さくため息を吐くと、電車の中から降りてくる駅員さんにペコリと頭を下げる。そして私は誰もいない車内へと足を踏み入れた。

 進行方向右側、窓際の後ろから三番目のボックス席。そこが数日前から私の指定席。誰も乗ってこないのをいいことにカバンを隣の席に置いて憂鬱な気持ちのまま窓の外を見た。

 今の学校に進学したことを知っている人は、家族を除けばこの街に一人もいない。


「梓がそんなことするわけないってわかっているから」


 そう言ってくれていた友人たちが、陰で何を言っていたか知っている。もう誰も信じられない。誰も信じたくない。だから、スマホから全員の連絡先を消した。今の私のアドレス帳には家族の名前しか残っていない。

 前だったら寂しいとか、恥ずかしいとかそんなことを思っただろうけれど、今はもうどうでもいい……。

 そんなことを考えていると、いつの間にか発車時刻となっていたようで、音を立てて扉が閉まると電車が動き出した。

 ここから二時間。憂鬱な通学時間が始まる。

 私はカバンから取り出した小説を膝に置くと、窓の向こうに流れていく景色をボーッと見つめ続けていた。一駅すぎただけで、いつも見ていた景色が見覚えのないものへと変わっていく。

 ――数分後、電車は音を立てて止まった。止まったといってもこの時間だ。乗ってくる人も……。

「あれ……?」

 何気なく向けた視線の先に、人影が見えた。この数日、ここから乗ってくる人なんていなかったのに……。

 その男の子は私と同じぐらいの年頃に見えるけれど、私服姿のところを見るともしかしたら大学生なのかもしれない。

 私とは反対側の、一つ前の席。そこにその人は座った。少し茶色がかった髪の毛が、背もたれの向こうにチラチラと見える。

 別に一人が好きなわけじゃないけれど、なんとなく……一人きりだった空間を邪魔された気がして、見え隠れする頭にイラついた。別に気にしなければいいのに、一度気になり始めると、気になって仕方がないのはどうしてだろう……。


「次は――」

「あっ……!」


 いつの間に、時間が過ぎ去っていたのだろう。気が付けば、降りる駅のアナウンスが流れていた。

 結局、全く読み進めることのなかった小説を慌ててカバンに入れると、私は忘れ物がないか確認して席を立った。


「っ……」


 後ろのドアから出ればいい。そう思うのに、足が自然と前に向かう。一歩、一歩と足を踏み出すごとに、全身が心臓になったかのようにドクンドクンと響いている。

 どうして、こんな……。


「っ……はあ……」


 背後で電車のドアが閉まると、ようやく私は呼吸を止めていたことに気付いて、思いっきり息を吐き出した。

 何をやっているんだろう……。自分自身の行動がおかしくて自嘲気味に小さく笑うと、電車を振り返った。


「っ……う、そ……」


 そこには、窓の向こうからこちらを見つめる彼の姿があった。


「っ……」


 一瞬、目が合った。そんな気がした。

 けれど、すぐに電車は動き出し、彼の姿は見えなくなった。

 いったい、なんだったんだろう……。


「……っと、いけない。学校、行かなくちゃ!」


 私は慌てて歩き出した。おさまらない胸の動悸を抱えたまま。



 翌日も、私は同じようにあの時間のあの電車に乗り込んだ。膝の上にはいつものように読みかけの小説を置いたものの、なんとなく開く気になれない。

 車内にアナウンスが流れて、もうすぐ次の駅に着くことを知らせた。

 少しだけ、心臓がドクンとなったのを気付かないふりして、誰に見られているわけでもないのに私はこっそりと窓の外を見た。


「あれ……?」


 ――けれど、そこに彼の姿はなかった。


「なぁんだ……っ」


 思わずついて出た言葉に、慌てて私は口を押さえる。これじゃあ、まるで彼がいるのを楽しみにしていたみたいじゃない……。

 そういうわけじゃない、そういうわけじゃないけれどなんとなく……ホームが目に入って、なんとなくそこに誰もいなかったから……だから……。

 まるで言い訳を並べる子どものように、自分自身の呟いた言葉を否定するかのような言葉が次から次へとあふれ出す。私は気にしてなんていないですよ、とでも言うかのようにホームに背を向けて、置いたままになっていた小説を開いた。



 週末を退屈に過ごした私は、月曜日再び一人電車に乗っていた。

 結局、あの次の日も、そのまた次の日も彼は電車に乗ってこなかった。もしかしたらあの日、たまたま用があって乗っただけなのかもしれない……。だとしたら、もう二度と会うこともないだろうし……。


「はぁ……」


 ガッカリしている自分がいることを、もう否定はしなかった。私は、一度、それも見かけただけの彼が気になっている。一目惚れだとか恋に落ちただとか言うつもりはない。でも、どうしてか彼のことが気になって、もう一度会いたいとそう思ってしまう。

 きっともう彼は来ない。そう思ったかと思えば、もしかしたら今日こそは乗ってくるかもしれないと思う自分もいて……。そんなふうに考える自分自身を笑ってしまいそうになる。

 でも、それでも……だんだんと次の駅が近付くにつれ、動悸が激しくなるのを感じていた。

 電車がブレーキをかけ始める音がしたかと思うと、もうすぐ次の駅に着くというアナウンスが流れた。

 あと少しで――この間、彼が乗り込んできた駅に着く。

 ゆっくりとスピードが落とされて、ホームが見えてきた。私は、期待しても無駄だと思いつつも、それでももしかしたらを諦められずに窓の外を見た。


「……いない」


 けれど、ホームに人影はなく……。結局、誰も乗り込むことなく、発車メロディーが鳴り響きドアが閉まった。

 何回こんなふうに期待してはガッカリするんだろう。

 来るか来ないかわからない人を待つなんて……しかも、相手は一度会っただけの知らない人だとか笑えてくる。もう、忘れよう。二度と会うことはないのだから――。


「……え?」


 そのとき、車両と車両を繋ぐドアが開いた。

 そこには――あの日以来、待ち続けたあの人の姿があった。


「あっ……」

「え?」

「っ……」


 思わず声を出してしまった私に、彼は一瞬不思議そうな顔をする。私は慌てて窓の向こうに視線を向けた。……彼が首をかしげながら、この間と同じ席に座るのを、まるで鏡のように反射して見える窓越しに見つめていた。



 その日から、何日かに一回、同じ時間帯の同じ車両に、彼は乗り込んでくるようになった。なんとなく、彼が乗ってくるとそちらを見てしまう。そのたびに心臓は高鳴り、そわそわしてしまう。いったい私はどうなってしまったのだろう……。話をしたこともない人のことが、こんなにも気になるなんて……。

 今日も、一駅となりから乗ってきた彼は私の一つ斜め前の席にーー。


「え……?」


 思わず出てしまった声を慌てて押さえると、慌てて窓の方を向いた。いつもは、一つ斜め前の席に座る彼が……今日は、通路を挟んだとなりの席に座ったのだ……。

 たまたまかもしれない。でも、それだけでこんなにもドキドキ してしまうなんて……。

 私は本を読むふりをしながら、すぐそこにいる彼の姿を盗み見る。茶色い髪の毛はもしかしたら地毛なのだろうか。さらさらで、触ったらすっと指をすり抜けていきそうだ。それから、すっと通った鼻筋に、少し垂れ気味の目。きっと笑うと可愛いんだろうな……なんて、想像して恥ずかしくなる。話したこともない、会ったことがあるというよりは見かけたことがあるだけに近い彼のことをこんなふうに想像するなんて……。

 でも……。もしも、いつか話しかけることができたら、この退屈な通学時間が楽しいものになるかもしれない……。そんなことを考えながら、ときおり彼の姿を盗み見ながら、内容が頭に入ってくることのない小説のページをめくり続けた。



 ――それに気付いたのは放課後のことだった。居場所のない教室から早く出ようと鞄をつかんだとき、ストラップと一緒につけてあったお守りがないことに気付いた。

 辺りを見回してみたけれど、落ちていない。もしかしてと、職員室に無造作に置かれた落とし物ボックスも見てみたけれど、入っていない。

 そもそも、いつからなかったのか……。朝、家を出るときは確かについていた。……じゃあ、学校では? 学校に着いたときにはあった? ……記憶に、ない。

 私は、学校から駅までの道のりを、いつもよりもゆっくりと歩いた。けど、やっぱりない。

 駅の窓口でも尋ねてみたけれど、落とし物に届いてはいないという。じゃあ、いったいどこにいってしまったというのだろう。あれは、あのお守りはおばあちゃんにもらった大事なものだったのに……。

 しょんぼりとした気持ちのまま電車に揺られ、地元の駅まで帰ってきた私は、またお守りを探し歩きながら自宅へと帰った。もちろん、どこにもお守りは落ちていなかった。



 翌日、見つからなかったお守りのことを思うと学校になんて行っている場合じゃないのに、それでも家にいたってお母さんからグダグダと言われるだけだしと重い足を引きずりながら駅へと向かう。

 もう一度、学校に行く道のりを探してみようかな……。もしかしたら、駅にも届いているかもしれないし……。うん、そうだ。そうしよう。

 ちょっとだけ、気持ちが前向きになったところでちょうど駅に着いた。とりあえず、窓口で……と、思ったけれど誰もいない。それなら、とホームに上がった私は、ちょうど私が乗る電車のそばに立っていた車掌さんらしい男の人を見つけた。


「あの……」

「はい? どうかしました?」

「わ、私……昨日、落とし物しちゃって。その……」


 私の言葉に、車掌さんは少し考えるようにしたあと、パッと明るい顔になった。


「もしかして、お守り?」

「そうです! 届いてるんですか?」


 食いつくように言った私に、車掌さんは困ったような表情を浮かべると「ごめんね」と言った。


「昨日、拾ったっていう話は聞いたんだけど……」

「誰がですか?」

「それは……」


 歯切れ悪く言う車掌さんの背後のスピーカーから発車を知らせるメロディーが聞こえた。


「あっ……。えっと、もう電車が出るから、とりあえず乗ってもらえるかな?」

「はい……」


 仕方がない……。私がしぶしぶ電車に乗り込むと、車掌さんはホッとしたような表情を浮かべて、それから出発の準備を始めた。

 私はというと、そのまま立ち尽くしていても仕方がないから、とりあえずいつものようにボックス席に座る。鞄を隣の席に置くと、お守りのついていないそれはどこか心細く見えた。

 どのタイミングでもう一度話しかけようか、そう思っているうちに電車は次の駅へと着いた。いつもなら、窓の外を見ているのだけれど、今日だけはそうはいかない。駅でなら車掌さんも外に出てくるはず。そのタイミングで……。

 開いたドアの向こうに車掌さんの姿が見えるのを今か今かと、座席から身を乗り出すようにして後ろを見ていた私は、すぐそばにある人影に気付かなかった。


「え……?」


 その人は、今日もいつもの席より一つ後ろ、通路を挟んで私の隣の席に座った。二日続けて会えると思っていなかったので頭が追いつかない。どうして……。ううん、違う。今は車掌さんにお守りのことを聞かなくちゃ……。

 開いたドアの向こうに車掌さんの姿が見えた私は、立ち上がろうとした。けれどそんな私よりも早く、その人は鞄から取り出した何かを差し出した。


「これ」

「っ……!」


 差し出されたそれは、私が昨日からずっと探していたお守りだった。


「どうして……!」

「昨日、君が降りたあと通路に落ちているのを見つけたんだ」

「ありがとうございます! これ、昨日からずっと探してたんです!」


 手渡されたお守りをギュッと抱きしめた。

 よかった、本当によかった……。もう見つからないかと思った……。

 お守りを、今度こそ取れないように鞄に結びつけると、私は視線を感じて顔を上げた。


「……っ」


 私のすぐ隣で、その人は、微笑んでいた。その表情があまりにも優しくて、私は何も言えなくなってしまう。こんなふうに微笑む人を、私は知らない。同級生の男の子たちはがさつで笑うときだって口を開けて唾を飛ばしながら笑ってて……。なのに、この人はどうして……。


「あの……」

「あっ」


 黙り込んだ私を不審に思ったのか、その人が小首をかしげるようにして私を見つめる。私は慌ててもう一度お礼を言った。


「ホントにありがとうございました」

「気にしないで。……それじゃあ」


 その人は、ニッコリと笑うと用は終わったとばかりに窓の外へと視線を移そうとした。だから、私はーー。


「あの!」

「え?」

「た、たまに! この電車で会いますよね」

「そう、だね」


 会話を続けたくて、必死で話しかけた私にその人は一瞬困ったような表情を浮かべたあと優しく笑った。迷惑だったのだろうか……。

 その人の態度に、さっき必死に振り絞った勇気が萎んでいくのを感じる。声なんてかけなければよかった。見ているだけでよかったのに……。


「俺も、この時間の電車に乗っている人って珍しいから気になってたんだ」

「え……?」


 彼は困ったような照れくさそうな顔で笑っていた。


「どうしたの?」

「あ、えっと、その……話しかけたの、迷惑だったかなって思ったから……」

「迷惑なんかじゃないよ。それに迷惑だったら……それ、直接返さないでしょ」

「どういう……」


 言葉の意味がわからず尋ねた私に、しまったとでもいうかのような表情を浮かべた彼は、私から目をそらした。


「あの……」

「なんでもない。……ところで、その制服って北条高校?」

「っ……」


 彼のその指摘に、心臓がキュッとなるのを感じた。わざわざそんな遠い高校に行くなんて、この子公立に落ちたんだな、なんて思ってるんだろうか……。恥ずかしい、やっぱり話しかけるんじゃなかった……。

 けれど、俯いたまま手をギュッと握りしめていた私の頭上に、彼の言葉は優しく降り注いだ。


「そこ、いい学校だよね」

「え……?」


 彼の言葉が信じられず思わず顔を上げた。


「それ、本気で言ってます?」


 自分では普通のトーンで言ったつもりだった。でも、耳に聞こえてくる自分の声は、冷たくて暗くて……まるで自分の声じゃないみたいだった。


「本気だけど? なんで?」

「だって北条って言えば公立に落ちた、落ちこぼれの行く高校って有名で……!」


 みんな私を見るたびに、あああの子はダメな子だってレッテルを貼られているみたいだった。この制服だって、まるで囚人服のようで、この子は落ちこぼれですよって書かれた服を着せられているみたい……。


「落ちこぼれかぁ」


 でも、私の言葉に、目の前の彼は小さく笑った。


「俺の姉ちゃんさ、そこの出身なんだ」

「え……?」

「けど、いっつも楽しそうでさ。先生も友達もみんないい人ばっかりですごく充実した三年間を過ごせたって言ってた」

「お姉さんが……」


 この制服を着ている私を見て蔑みや憐れんだ視線を向ける人はいても、そんなふうに言ってくれる人なんて一人もいなかった……。


「高校なんてさ、長い人生のうちのたった三年間なんだよ。だからそこで何を学ぶかなんてたいして重要じゃないと俺は思うよ」

「じゃあ、何が重要なんですか……?」


 思わず、尋ねてしまってた。だって、高校は勉強をするところだし、少しでもいい学校に入って、いい大学に入って……。それがみんなのいういい人生なんじゃないの……? だから私たちは、中学のときも、それから高校に入ってからも必死に勉強をするんじゃないの……?

 そんな私の疑問に、彼はニッコリと笑うと答えた。


「そこで、誰と出会うかが重要なんだ」

「誰と、出会うか……」

「そう。勉強なんてしようと思えば学校の外ででもどこででもできる。だからこそ、もっと大事なものを見つけるために学校に行くんだと、俺はそう思うんだ」


 そんな考え方があるなんて、今ままで知らなかった。


 ――何を学ぶかじゃない、誰と出会うか――。


 彼のその言葉は、たくさんのものから目をそらし耳を塞いできた私の胸の奥にストンと入ってきた。


「凄い……」

「え?」

「そんなふうに言ってくれた人……今まで一人もいなかった……」


 お父さんもおかあさんも、みんな私に対して失望とそれから哀れみの混じった視線を向けてきていた。大学では挽回できるといいね、なんて入学する前から言われているようで、ここにいる私に何の価値もないかのようで……それで……。


「目に見えるものを見ることは簡単だけれど、見えないものを見ることの方がずっと価値がある」

「目に、見えないもの……?」

「そう。偏差値の高い高校に行くことは、そりゃあ凄いと思うし、そのためにした努力は誇っていい。けど、それ以外の学校に価値がないかと言えば決してそんなことはないんだ。もちろん高校に行かないっていう選択肢をすることにだって価値はある。ううん、その行動に価値を作るのは自分自身なんだ」


 彼の言葉は分かるようで分からなくて、でもすっごく大事なことを伝えてくれているんだと言うことは、真剣な表情でわかった。

 私とそう年の変わらないであろう目の前の彼の口から紡がれる言葉は、私なんかじゃあ到底思いつかなかったようなことばかりで……。


「そんなふうに、思ったことなかったです……」

「それはきっと……君が幸せだからだよ」


 嫌みを、言われたんだと思った。だからムッとした表情を浮かべた私を見つめる彼の目が、優しくそれからどうしてかまぶしそうに見えて……私は首をかしげた。


「どうしてそんな顔をするんですか……?」

「……どうしてかな」


 悲しそうに微笑む彼を見ていると、心臓を鷲掴みにされたみたいに苦しくなる。どうしてそんな顔をするのか聞きたい。でも、今日初めて話をしただけの私が踏み込んでいい場所じゃないこともわかるから……。

 なんと言えばいいかわからずにいた私をよそに、彼は窓の外へと視線を向けると口を開いた。


「……おっと、そんなこと言ってたらもうすぐ駅に着くよ」

「え、あ……」


 スピーカーからは高校の最寄り駅の名前がアナウンスされ始めた。いつもならあんなに長く感じる道のりが今日は……。


「あ、あの!」

「え?」

「名前! 聞いてもいいですか?」


 電車はスピードを落とすとゆっくりとホームへ入る。もう立ち上がらなければいけない。でも……!


「……青空」

「せいあ、さん……?」

「そう。青空って書いてせいあって読むんだ。……君は?」

「私は……」


 発車のベルが、車内に鳴り響く。どうしたら……。


「早く行って! それで……次会ったら、そのとき名前教えて」

「っ……」

「約束だよ」


 そう言って微笑む青空さんに頷くと、私はホームへと飛び出した。すぐ後ろでドアが閉まると、電車は動き出す。

 窓の向こうから私に手を振る青空さんの姿を、電車が見えなくなるまでずっと追いかけ続けていた。



 青空さんに見送られるように電車を降りた私は、いつものように階段を下りると駅の外へと出た。ここまで来ると、同じ制服を着た生徒の姿もちらほら見かけるようになる。とはいえ、学校に行くにはまだ早い時間なのでそう多くはないのだけれど。


「あれ……?」


 私は、目の前に広がる光景が昨日までとは違って見えた気がして思わず目をこすった。 どうしてだろう。昨日まではあんなにくすんで見えていた光景が、ほんの少し、ほんの少しだけ輝いて見える気がするのは……。墨を落とした水の中のようだった世界が、色づいて見える気がするのは……。


「どうして……」


 どうして、なんて自分自身に問いかけてみたけれど、本当は分かっていた。――青空さんの言葉のせいだって。あんな一言で、自分の中の意識がこんな風に変わるなんて、私はそんな単純な人間だったのだろうかと思う。でも、そんな自分のちっちゃさがどうでもよくなるぐらい、景色は違って見えていた。

 まだ、一歩踏み出すのは怖い。でも、この変化を青空さんに伝えたい。お礼を言って、それから……。

 明日、青空さんと会えるのを思った以上に楽しみにしている自分に気付いて、恥ずかしくなった私は慌てて学校へと向かうために、色づいた世界へと足を踏み出した。



 翌日が土曜日で、学校がないことに気付いたのはその日の夕方だった。高校受験がきっかけで家族と気まずくなってしまった私は、結局土日はほとんど自分の部屋から出ないまま月曜日を迎えた。

 青空さんに会える。そう思うだけで朝からそわそわしていたし、なんなら普段は言わない「いってきます」という言葉をリビングに向かって言いながら自宅を飛び出した。

 学校へ向かうために駅へと向かうときだって、昨日まではコソコソと誰かに見られないように隠れるようにして歩いていた。それが、今日はなんとなく空を見上げる余裕さえある。春にしては熱い日差しも、頬をなでる風も全部が心地よく思えた。

 今日は青空さんは電車に乗っているだろうか。

 青空さん。

 名前を聞いただけで、急にあの人の存在がリアルになった気がする。ただよく同じ電車で見かけるだけだった人が、一人の人間になったような。

 もしかしたら人間の意識付けなんてそんなもんなのかもしれない。いいと思えばいいし、悪いと思えば悪い。他人だと思えば他人だし好きだと思えば……。


「え……?」


 自分自身の思考が理解できず、思わず声を出していた。好き……? 私が、青空さんを?

 そんなわけない。だって、昨日初めて話をして、その前だって何回か電車の中で見かけただけなのに、好きとかそんな……。

 でも……。

 青空さんへの気持ちが何かとかそんなのわからないけれど、でも昨日の青空さんの言葉で、私の中で何かが変わったのは事実だ。あの言葉がなければ、私は今日もどんよりとした気持ちのまま重い足を引きずるようにして駅へと向かっていただろう。

 本当は、まだ少しこの制服を着るのは気持ちが重いし、同級生たちが通っていない時間の道を一人で歩くのは寂しい。でも、それでも……。


「今日も青空さん、乗ってるかな……」


 乗っていたら、名乗って、それから――青空さんのお姉さんの話を聞かせてもらおう。どんな学校生活を送っていたのか。あの学校で面白い先生は誰なのか。どんなイベントがあるのか。

 そうしたら……少しだけ、あの学校のことが、好きになれる気がするから。

 ドキドキしながら電車に乗った私は、青空さんが乗ってくる駅に着くまでの間、なんとなく髪の毛を直したり、制服のしわを伸ばしたりと、落ち着かない時間を過ごしていた。会えないかな、会えるかなと待っているのは昨日までと同じなのに、どうしてこんなにも動悸がうるさいのだろう……。


「……あれ?」


 でも、そんなそわそわと落ち着かない心を打ち砕いたのは――誰もいないホームだった。いつもと同じ時間なのに誰もいないと言うことは……今日は、青空さんは来ないということで……。


「なあんだ……」


 ドキドキしていた自分がなんだか馬鹿らしくって、ちょっとだけ笑ってしまった。だって、昨日の言い方じゃあ、今日会えると思っていも仕方ないじゃない。こんなふうに、男の子と待ち合わせみたいなことするのなんて初めてだから、それでドキドキしちゃって……。

 でも、これじゃあ、ドキドキし損だ……。

 ブツブツと文句を呟いても青空さんが乗ってくる気配はない。そして、発車のベルとともにドアが閉まると、電車は出発した。――青空さんが乗ってくることはないまま。


「はぁ……」


 一人きりの道のりにようやく慣れたと思っていたのに、昨日があまりにも楽しくて嬉しくて、そのせいで今日がずいぶんと気怠く感じてしまう。

 そうはいっても、ここから自宅へと引き返すこともできない。……できれば、さっきまでの少し前向きな気持ちが萎みきってしまう前に駅に着きますように。そう祈ることしかできなかった。



 翌日もそして祝日を挟んだそのまた次の日も青空さんがあの電車に乗ってくることはなかった。そうなると、会話をしたことさえも夢だったのではないか。私が都合よく妄想しただけなのではないかと思ってしまう。だからそのたびに、鞄に、今度こそ取れないように固く結んだお守りを握りしめた。確かにあの日、青空さんがこれを届けてくれたんだと思い出せるように。

 そして私は今日も一人電車に乗る。いつの間にか桜は散り、五月を迎えていた。

 今日こそは会えるのではないかというそわそわする気持ちと、ううん、きっと今日も会えないというしょんぼりした気持ちを抱えて。

 いつものように発車のベルを聞きながら、電車の外と……それから、誰も座っていない通路を挟んだ隣の席を見つめる。けれど、すぐにそんな自分が恥ずかしくなって私はもう一度、電車の窓の向こうを眺めた。

 ドキドキそわそわしていると、いつもよりも時間が経つのが早く感じるのはなぜだろうか。あっという間に車内に次の駅に着くというアナウンスが響き始めた。それと同時に、電車のブレーキ音が聞こえ、スピードが落とされていく。

 もうすぐ、ホームが見えてくる。今日こそは、今日こそは……。


「いたっ……!」


 思わず声を上げてしまった私は、慌てて両手で口を押さえた。いた。いたのだ。ホームに立って電車を待つ、青空さんの姿があったのだ。

 でも、誰かを探しているのだろうか。青空さんはキョロキョロと辺りを見渡している。もしかしたら誰かと待ち合わせをしているのかもしれない……。


「っ……」


 ズキッと胸が痛むのを感じた。

 さっき青空さんを見つめた瞬間の、あの瞬間の私が酷く滑稽で恥ずかしく思えてしまう。待っていたのは私だけで、青空さんは別に私を待っているわけじゃないのに……。逃げたい、逃げ出してしまいたい。――けれど、電車は音を立てて止まると、アナウンスとともに扉が開いた。

 開いた扉の向こうから、青空さんが乗り込んでくるのが見える。どうしたら……。


「あっ」


 けれど、予想に反して青空さんは私を見つめると手を振った。


「え……」

「また会ったね。……えっと」

「え……?」


 何か言いたそうに私を見つめる青空さんに首をかしげる。すると、青空さんは困ったように笑いながら私の――通路を挟んだ隣の席に座った。


「名前、教えてくれるって言ってよね?」

「あ……」

「その反応は……もしかして、忘れてた? 酷いなぁ」

「ちが……」


 慌てて両手をブンブンと振った。忘れてただなんて、そんなわけない。だって……。


「ずっと待ってたのに、来なかったじゃないですか……。だから、青空さんの方こそ忘れちゃったんだって思ってました……」

「……待っててくれたんだ」

「あっ……」

「そっか……」


 もう一度、違うと否定しようと思ったのに――すぐそこで嬉しそうに笑う青空さんの顔を見たら何も言えなくなってしまった。


「ごめんね、いつ乗るって言わなかったから、あの日からずっと俺のこと待っててくれたんだね」


 小さく頷いた私に、青空さんはもう一度「ごめんね」と言うと、優しく微笑んだ。もやもやしたり悲しかったりしてたはずなのに、その微笑みだけで全部吹き飛んでしまうのはどうしてだろう。


「ん?」

「あ、いえ……。えっと……」


 私は顔を上げると、青空さんの方へと向き直った。


あずさです。福島梓っていいます」

「梓」

「っ……!」


 その瞬間、息が止まるのを感じた。名前を呼ばれただけ、ただそれだけなのに、呼吸ができないほど苦しくて、でも体中の血液が沸騰してしまうんじゃないかと思うぐらいに熱い。


「いい名前だね。よろしく、梓」

「よろしくお願いします」


 青空さんが優しく笑うから、私もつられるようにして笑った。


 四月、一人きりだった長い長い道のり。それが五月には、二人で笑い合って過ごす大切な時間になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る