王と歌姫

さざれ

第1話

 婚礼の鐘の音が、古い大聖堂に響き渡る。荘厳で厳粛な――王族同士の結婚式だ。

 列席者は多いが、石造りの大聖堂には静謐な空気が満ち満ちていた。歴史ある国の王が、さらに歴史の古い国の王女を花嫁として迎える場だ。

 しかし――そればかりではなく、会場はしんと静まり返り、冷ややかな敵意に満ちてもいた。

(花嫁は誰からも歓迎されていないな……。……無理もない)

 花婿になる青年――ノナーキー王国の国王エセルバート――は他人事のように思った。ちらりと隣に目をやるが、花嫁の顔はベールに隠されており、表情も顔立ちすらも分からない。彼女が何を考えているのかも。

 花嫁の母国トーリアは、ノナーキーに戦争で負けた。だが、国力が低いが歴史のあるトーリア王国をおいそれと潰すわけにはいかず、王女の一人をエセルバートの妻に寄越すことで一応の決着となったのだった。もちろん土地や権利の割譲などは別にあるが、象徴的に、トーリアがノナーキーに下ったことを示すための婚姻だ。

 だが、この聖堂に集ったノナーキーの王侯貴族は誰しもが知っている。

 この婚礼が――トーリアの悪あがき、時間稼ぎに過ぎないことを。

 トーリアから嫁いでくる王女が――生贄でしかないことを。

 トーリアは今、周辺諸国に根回しをして兵力を集めている真っ最中だ。形ばかりはノナーキーにへりくだりながら、虎視眈々と反撃の機会をうかがっている。もちろんノナーキーもその動きを察知し、妨害と対策に動いている。

 しかし衝突が再び起こるのは時間の問題だろう。王女の命運はその時に尽きる。停戦の協定を無視されたらノナーキーとしては人質の王女を処分せざるを得ないが、トーリアはむしろそれを狙っている節がある。王女の弔い合戦という大義名分を得て、勢いを増して再び攻め入ってこようと動いている。

 人質として、やがては生贄としての役回りを期待された王女――アリア・リーチェ・トーリア。

 ノナーキーからもトーリアからも死を求められる王女は、その役回りをどこまで理解して、どんな態度に出るのだろうか。

 悲観し、自暴自棄になっているのだろうか?

 諦観し、粛々と受け入れようとしているのだろうか?

 何も知らず、何も知らされず、この婚姻の意味を理解していないのだろうか?

 あるいは、死ぬことを回避しようと足掻くのだろうか?

(――いずれであっても、厄介で面倒な相手には変わりない)

 エセルバートは遠慮なく顔をしかめた。にこやかな表情など作る必要がない。そんなことは誰からも期待されていない。この婚姻を祝する人などいない。

 花嫁は白いドレスに身を包み、楚々とした様子で足を進めているが、腹の中が真っ黒であっても驚きはしない。エセルバートは王という立場上、そうした女性を腐るほど見てきている。

 祭壇にたどり着き、聖職者の前で誓いを交わし、王は花嫁のベールに手をかけ……


 アリアの幼少期は、幸福だった。


 母親のライラは旅の歌い手で、旅芸人の一員だった。一座がトーリア王国に滞在し、城に呼ばれて見世物を披露した、その席でライラは国王ジョザイアに見初められた。

 ライラは国王の求愛を受け入れ、次の場所へと去っていく一座と別れ、自分ひとりトーリアに残った。

 国王はたいそう喜び、彼女を深く寵愛した。

 そしてやがて、女の子が生まれた。アリアと名付けられ、両親の愛情を受けて育った。

 生まれたのが王女だったことも幸運だった。トーリアでは基本的に男性が王位を継承していくため、王子であれば政争の真っただ中に放り込まれていただろうが、アリアはそうしたこととは無縁でいられた。政治的な立場の弱い母親から生まれた、王位継承に関わらない王女。そうした立ち位置であったため、王がいくら母子を愛しても大臣たちから危険視されずにいられた。

 ライラは天涯孤独で家族を持たず、しいて言うなら旅芸人の仲間が家族ではあったが、血縁のある者はいなかった。生まれた場所ですら定かではなく、もちろん貴族でも何でもない。血筋の定かではない女性の子供が王女として生まれても、王子でなければ特に何の問題もなかった。

 母親と同じ銀の髪を受け継いだ女児を、国王は溺愛した。さまざまな贈り物をし、母子に離宮さえ与えた。

 離宮とは言っても、城の敷地内にある建物だ。少し庭や木立を抜けて歩く必要があるとはいえ、それほど気負わずに行き来できる距離にある。王は足しげく離宮に通い、逆にライラやアリアが城の主な建物に行くことも多かった。

 その頃のアリアは幸福だった。親子三人、まるで一般家庭のような近しさで暮らしていた。

 ……だが、その状況を面白く思わない者は多かった。

 とくに正妃だ。

 貴族ですらなかったライラの身分上当然のことではあるのだが、ライラは正妃ではない。ジョザイアには他に正妃がいるし、さらに言えば側妃も複数いる。

 その全員が、その全員が、国王の寵を独占するライラを――そしてその子アリアを――憎んだ。

 憎んだからといえ、何ができるわけでもない。なにせ王の寵愛がある。王の権力が強い中にあって、母子は守られていた。

 政治的な力は無い、しかし目障りな、とにかく目障りな存在として、ライラとアリアは他の妃たちの嫉妬を集めていた。

 妃たちからは目の敵にされているとはいえ、王の寵愛深いライラにおもねったりあやかろうとしたり、ライラによくすることでジョザイアの歓心を買おうとする者も多かった。

 女同士の争い以外では母子を城に行きにくくするものはなかったし、そもそも争いにしても、ライラはそうしたことを気にしないたちだった。美しく自由な彼女は、そうしたやっかみに慣れていたし、煩わされるつもりもなかったのだ。

 そうした在り方がさらに妃たちの鬱憤を助長する。

 さらにライラは、よく宴の席に呼ばれた。美しい容姿と、奇跡のようによく通る澄んだ歌声を持つ彼女は、誰かを歓迎するときのもてなし役としてうってつけだったのだ。

 彼女が歌えば皆が感動し、涙を流す人まで出るありさま。さえずる小鳥のような話し声や笑い声も耳にこころよく、場の雰囲気を盛り上げる。

 ライラがいたことによって、王はさまざまな重要人物と良い関係を結べた。

 ……そのどこにも、正妃の居場所がない。

 立場を奪われ、寵愛も奪われた彼女は、公的にも私的にも形ばかりの正妃だった。微笑んで表情を取り繕いつつも、胸の中では、そして私的な場では、荒れに荒れていた。

 王の前では隠していたが、そうした雰囲気は滲み出るものなのだろう、王の足は遠のくばかり……いや、正妃が荒れていようと荒れていなかろうと、王はライラしか見ていなかった、彼女に骨抜きにされていた。

 最愛のライラとの間に生まれた娘アリアを、王はどこまでもかわいがっていた。


 ――転機は、ライラの失踪だった。


 失踪、いや出奔だろうか。ライラはアリアが七歳の時、彼女の意思で城から姿を消した。

 書き置きがあったから誘拐騒ぎにはならなかったが、当然、大騒ぎになった。

 それが伝えることによると、城には自由がない、自分はひとところに留まり続けると息が詰まる、アリアも成長して手がかからないようになってきたことだし、ここを出ていく、とのことだった。

 城は豪華な鳥籠のようなもの……何不自由ない生活を与えられても自由だけがない、私はそれに耐えきれない、私を探さないでほしい、と。

 愛する妃がある日忽然といなくなった、置いて行かれた王の心は引き裂かれた。汲めども尽きぬ愛情は行き場をなくし、引き換えにやってくるのは途方もない喪失感。なぜだ、なぜ私のもとを去ってしまった、なぜ私を置いていったのか……。

 王は嘆き悲しみつつ、しかし気持ちを奮い立たせて、彼女の行方を探そうとした。

 しかし見つからない。まず間違いなく国外に出てしまったのだろう、できることにも限界があった。

 そして大臣以下の者たちも王に一から十まで従ってくれるわけでもなかった。

 探さないでほしいと書き置きを残されたのでしょう、その通りにしなければ、などと口々に王を諫めた。いなくなった愛妃のことで頭がいっぱい、政務などそっちのけで彼女を探そうとする王に辟易していたのだ。

 王みずからやみくもに探し回るわけにもいかず、人をやって探させても報告は芳しくなく、王の機嫌も臣下との関係もどんどん悪化していった――ところを取り持った――あるいは、利用した――のが、他の妃たちだった。

 王の愛情はすべてライラに向けられていたが、そのライラが不在である以上、付け入る隙はあった。そもそもライラが来る前は王も複数の妃それぞれを訪れ、王子や王女をもうけていたのだ。

 ライラに向けられた燃えるような愛情ではなくても、そこには確かに情が通っていた。アリア以外の子のことをおざなりにしていたとはいえ、憎んでいたわけではない。

 徐々に、王の周りはライラが来る前の状態に戻っていった。


 ――アリアの周りを除いて。


 ライラがいなくなった今、アリアは城の異物だった。

 あれほどアリアを溺愛した王だったが、ライラがいなくなった後、彼女を思い起こさせる銀の髪を持つ王女を、視界に入れるのさえ厭うようになった。実の娘に強い憎しみさえ向けた。

 こいつが育ったからライラは出て行ってしまったんだ、ライラを思い起こさせる銀の髪の娘、どうしてこんな存在がいるのだ……。

 ……しかしアリアは殺されも追い出されもせずに王女のまま、離宮に留められ続けた。

 王は彼女を殺したくなるくらいに憎んでいたが、最愛の妃を思わせる娘を手にかけることはしなかった。

 殺したらライラとの絆が断たれてしまうと思ったのかもしれない、憎悪に転じた愛情がわずかながら残っていたのかもしれない、殺したらライラがいよいよ戻ってきてくれなくなると思ったのかもしれない。国王本人にさえ分からない理由で、アリアは殺されず、しかしまともに生きているとも言い難い状態で、生かされ続けた。

 王がアリアに憎しみを向けたことが呼び水となり、妃たちも次々とアリアを大っぴらに虐げ始めた。

 もともと長年ライラとアリアに強い嫉妬を抱えていた者たちだ。王の許しが出たような状況で、嬉々として今までの鬱憤をアリア一人にぶつけ始めたのだ。

 もちろん王子と王女たちも同様だ。七歳のアリアよりも年上の王子や王女たちが何人も、こぞってアリアを苛めた。

 初めに、離宮から物という物がなくなった。

 ライラとアリアのために最高級のものが揃えられていたが、調度品から小物に至るまで、まるで蝗が通り過ぎたあとの畑のように、根こそぎ持ち去られた。

 代わりにアリアに宛がわれたのは、粗末で織りの粗い、平民でさえ嫌がるような布地や、家畜用の藁、そういったものだった。それを衣類や寝具の代わりにしろと、妃たちは嘲笑いながら投げ与えたのだ。

 用意しようと思えばもっとひどいものはいくらでも用意できたはずだが、彼女たちは最低限、アリアを生かしておける程度のものを選んでいた。死なれてしまうと鬱憤晴らしができないからだ。

 最低限の衛生、最低限の保温性、最低限以下の人間らしさ。水浴びは許されたが湯を使うことは許されず、熱を出せば効き目だけは強いひどい味の薬を無理やり飲まされ、苦しむ姿を見られては笑われる。水が欲しいと手を伸ばせば指が届く寸前に水差しが取り上げられ、うとうとすれば叩き起こされる。

 そうやって貶めるだけでは飽き足らず、皆はアリアを下働きとして扱き使った。

 離宮の使用人は早々に全員が異動させられた。代わりにアリアは一人で広い離宮を維持することを求められた。

 何の心得もない七歳の少女に、その要求は過酷すぎた。もちろん不可能で、行き届かないところなど数えきれないほど出てくる。

 妃や王子王女たちはそれをいちいちあげつらい、やれ絨毯に染みが残っていただの、窓枠に埃が積もっていただの、数え上げてはアリアを責め立てた。

 そこまでさせておきながら、離宮を磨きたてる必要はまるで無かった。妃たちは城に自室を持っているし、忌まわしいライラが使っていた場所に移り住もうなどとは思わなかった。

 離宮の住人は、今となってはアリアだけ。しかも、寝起きが許されるのは物置の片隅だけ。かつて使っていた寝室は家具もなくがらんとして、しかしアリアには使用が許されない。

 そんな環境にあって、アリアの身と心はどんどん削られていった。


 ――次の転機は、ちょうど十年後。アリアが十七歳になった年に起きた。


「この、のろま! 本当に何もできないのね。カーテンを取り換えて全部洗っておきなさいと言っておいたでしょう!」

 洗うところまで手が回らず、床に積まれたままのカーテンにアリアを蹴とばして姉姫ジュリアが憎々しげに吐き捨てた。

 発育不良でとても十七歳には見えないアリアは、ろくな抵抗もできずカーテンに頭から突っ込んだ。その様子を見てジュリアが嗤う。

「お洋服もカーテンとお揃いなのね? いっそ一緒に洗っておけば? 洗ってもきれいにはならないでしょうけれど!」

 お洋服、などとわざとらしく言っているが、アリアが着ているものは控えめに言ってもぼろ切れだった。ずだ袋に穴を開けただけというような、灰色とも茶色ともつかないごわごわとした布でできた、服のような何か。針や糸などという上等なものがないので、縫い合わせる代わりに穴を開けて紐で留めるだけ、その紐も布地を切って作っただけ、そんな粗末にもほどがある衣を纏って、かつて大事にされた王女は床にはいつくばっていた。

 その様子を見て、満足したようにジュリアは嘲笑う。

 誰もまともに使う者のいない離宮での模様替えなど、無意味以外の何物でもない。だがジュリアはその無意味を嬉々として言いつけ、できていないと嘲ってはアリアを蹴とばしていた。

 蹴とばされて苦鳴を上げ、うずくまるアリアの背中にばらりと銀の髪がかかる。美しかった銀髪はくすんで灰色に近くなり、邪魔になるからと――姉姫や妃たちの手で――不揃いに切られていた。

 対照的にジュリアの格好は華やかだ。アリアを蹴とばした靴は艶がある踵の高いもの、繻子のドレスはそのまま夜会に出られそうな華美なもの。それに加えて髪飾りや首飾りなども高価で貴重なものをふんだんにつけているが、その中にはアリアから取り上げたものもあった。

 アリアには何も、本当に何も残されていない。このからっぽの離宮とて、もはやアリアのものではない。

 うつろな顔を上げたアリアに、ジュリアは嗜虐的な笑みを浮かべた。

 アリアよりも八歳年上の彼女は、すでに結婚している。相手は国内でも有数の高位貴族で、降嫁した形だ。

 相手が相手なので、ともに登城する機会も多く、ジュリアは結婚前とあまり変わらないくらいの時間を城で過ごしている。

(結婚したら、離れてくれると思ったのに……そんなにうまくはいかないか。………この姉が離れてくれても、違う誰かが同じことをするだけだろうし……)

 アリアはぼんやりと考え、絶望を再認識した。

 王族の中にアリアの味方は皆無だ。ジュリアは正妃の子だが、その正妃も、即妃も、即妃の子も、みながそれぞれにアリアをいじめた。本当に唯一の救いは、あまりにも痩せてみすぼらしい見た目のせいか、性的な対象にはならずに済んでいるということだけだ。だからと言って、そのことに感謝したりする道理もない。

 栄養が足りていないために体はあまり成長せず、ふらつき、頭もあまりはたらかない。感覚も鈍くなっている気がするが、そのくせ痛みだけは鋭敏に感じてしまうのが本当につらい。鈍麻した頭でさえつらいと感じる。

 ひとしきりアリアを蹴り転がして満足したのか、ジュリアは鼻歌混じりに出て行った。

「もう少しで旦那様をお迎えする時間だから、庭を散歩するわ。その間はわたくしの視界に入らないでね。不愉快だから」

 そう言い残したジュリアに逆らう気などない。彼女の気分を悪くしないようにという配慮ではなく、気分を悪くした彼女に暴力を振るわれるのを避けるためだ。虐げられ始めた当初はもっと反発したのだが、身体的にも精神的にも痛めつけられていく中で否応なく学習してしまった。逆らってはいけない、と。

 憎んでいる、のだと思う。お互いに。だがアリアからのそれは、もはや澱のように沈殿して、なかなか浮かび上がってこない状態になっている。憎しみだけが生きるよすがだというのなら別だが、アリアにはもっと、すがるべきものがある。

(他の人が来る気配はなさそう……。少なくとも、しばらくの間は……)

 離宮は緑に囲まれた場所で、人が近づくとアリアにはなんとなく気配で分かる。

 ジュリアは機嫌よく散歩しているようだが、なぜかこの城では花々がよく咲く。草花も木々も病気や害虫にやられたりすることが少なく、美しい緑で目を楽しませてくれる。

 緑にあふれ、花々が盛りを長く保って咲き乱れる、楽園のような場所。トーリアの王城はいつからか、「夢の城」と呼ばれていた。

 離宮の周りは、とりわけ美しい。

 普通ならすでに花期が終わっているはずなのにたわわに花をつける植栽によって、城に住まう者も、城を訪れる者も、等しく感嘆させられる。常春の楽園のような夢幻郷、妖精さえさまよい出てきそうな雰囲気に、詩人や楽人はこぞって美を歌い上げた。

 そんないっとう美しい場所だから、王は寵妃に与えたのだろう、とジュリアたちは言う。そして、それを不服として、さらにアリアを痛めつけるのだ。

 体も心も壊れかけているアリアだが、最後の最後で踏みとどまっていられるのは……

(……ここなら。庭のこちら側なら、誰もいないはず……)

 気配は感じないが、いちおうきょろきょろと周りを見回して、アリアはかさついた唇を開いた。


 その唇から流れ出てきたのは、どこまでも透明に澄んだ歌声。空気を潤して染み渡っていく、奇跡のような歌声だった。

 木々や花々が喜ぶようにさやさやと揺れる。

(あ……みんな、喜んでいる気がする……)

 アリアは唇を緩め、さらに高く歌い上げた。

 かさついた唇は口を開けるだけで端が切れるが、血の味など気にもならない。夢中になって次々と歌っていく。

 ぶなの木で眠る小鳥が見る夢、波にゆられる船が目指す海の果て、月光にきらめく雪原を歩いていく旅人……世界のさまざまなことを、自分を通して歌にしていく。

 歌を、歌い方を、歌う喜びを……アリアは母から教わった。母から受け継いだものは容姿ばかりではなく、歌や歌声もそうだった。

 そしてアリアにとっては、歌が救いになっていた。

 悪意に満ちた離宮に押し込められて痛めつけられる日々……しかし心だけは自由だ。

 心は、歌は、自由だ。

 もっと、もっと、歌を――

「――何をしているんだ?」

 世界を破る声が聞こえ、アリアは青ざめて振り返った。

 声で予想していた通り、そこにいたのは王太子ハロルドだった。

ジュリアと同じく正妃の子で、ジュリアよりも一歳上の二十六歳、国王ジョザイアの後継者と目されている王子だった。すでに即妃を娶っており、立場を固めている。その彼が仁王立ちになってアリアを見据えていた。

「何をしているんだ、と聞いているんだが」

 ジュリアそっくりの嗜虐的な笑みを浮かべ、ハロルドはアリアとの距離を詰めた。

 アリアはさらに青くなった。

(歌に夢中になりすぎた……! 気配を探ることを怠っていたわ……!)

 声をかけられるまで気づかないとは、迂闊にもほどがある。だが、歌い始めてからそこまでの時間は経っていないはずだ。歌い始める時には念入りに気配を探ったはずだったのに。

「答えろよ」

 これまたジュリアそっくりの仕草で、ハロルドはアリアを蹴った。倒れ込んだアリアを、さらにぐりっと踏み潰す。

 骨がきしみ、アリアは声にならない悲鳴を上げた。

「答えろと言っているのが聞こえないのか!」

 怒鳴られ、びくっと顔を上げるが、とうぜん答えなど持っていない。何を言っても状況は好転しない。

 アリアの目に、怯えと、なぜここに、という不可解さが滲んでいるのが分かったのだろう。ハロルドは言った。

「お前の声はよく通るからな。かなり遠くからでも聞こえた」

(知らなかったわ、しまった……!)

 アリアが気配を感じられる範囲よりも、声の届く範囲が広かった……それだけの話だったのだ。

 知らなかったことだが、致命的だ。

 ハロルドが嗜虐的に言った。

「歌ったらどうなるか……教えておいたはずだな?」

 アリアの顔色は青を通り越して白い。栄養不足でもともと薄い血の気が完全に引いている。

 まだライラが姿を消してから間もない頃、アリアはよく歌っていた。こそこそと気配を探りなどせず、それまで通りに、心のままに。

 だが、ライラを思わせる歌声が癇に障ったとみえ、妃や王子王女たちに寄ってたかって殴られ、蹴られ、喉を潰された。

 しばらくは息をするのも痛いほどだったが、アリアにとって幸いなことに、やがて声が戻ってきた。その時は本当に安堵したものだ。殺されるよりも声を失うことの方が怖かった。

 声を、歌を失う恐怖から、アリアはそれ以降は人前で歌わないようにしていた。

 それでも歌いたい衝動は止まず、室内で小声で歌うだけではおさまらず、気配を探りつつ外でも歌うようになったのだ。

 ――それを、知られてしまった。

 声を、歌を、今度こそ奪われてしまう。

 アリアはとっさに喉を庇ったが、その痩せた手ごとハロルドがアリアの喉を掴みにかかった。

「忌まわしいんだよ、その声も歌も。そのせいで母上たちがどれほど惨めな思いをさせられたか。おかげで俺たちも被害を被った」

 正妃たちの癇癪を受けたとか、雰囲気が悪い中で過ごしたとか、そういうことなのだろう。同情の余地がないこともないが、やっぱりない。その後の所業で帳消しにして余りある。

 ハロルドは手に力を込めた。

「もういらないだろう? この喉も。どうせお前はもうすぐ死ぬことになるんだから」

「…………!?」

 アリアは目を見開いた。

 最後の最後で命だけは取られずに生きてこられたが、とうとうその命さえ奪われなければならないのか。いつかはその日が来るかもしれないと覚悟はしていたが、それが今なのか。

 妃や王子王女たちにはそんな決定はできない。

(お父様が……!?)

 父がついに、アリアを殺すことを決めたのだろうか。

 ライラに対する愛情がなくなったのか、諦めたのか、事情は分からない。分かる日が来ることなく殺されてしまうのかもしれない。

 だが話は意外な方向に進んでいった。

「お前は生贄になるんだ。ノナーキーに嫁いで、そこで殺されろ」

(ノナーキー……? 嫁ぐ……!?)

 ノナーキー王国のことはもちろん知っている、名前と一般常識くらいだが。山間にあるトーリアとは違い、沿岸部に領土を持つ比較的新しい国だ。

 もっともトーリアはかなり歴史が古い国なので、ここと比べればたいていの国は新しい。

 建国五百年ほどしか経たないが、領土は広く、勢いがあり、国力はトーリアをはるかに上回っている。

 そのノナーキーに、嫁ぐ?

 聞き間違いだろうか? 聞き返したいが声が出せない。そればかりか、空気が喉に入ってこなくて頭が朦朧としてきた。

「お兄様、そこまでにしておいてちょうだい」

 帰ったと思ったジュリアの声がした。信じがたいことに助け舟を出そうとしてくれているようだ。

「お前か。なぜだ? 嫁ぐのに声はいらないだろう」

「嫁ぐのにはいらないけど、生贄には必要でしょう。殺されるときに泣き叫んでもらわなければならないのだから。黙って死なれても目立たないし面白くないわ」

 ……違った。当然のことながら、助け舟などではなかった。

 だがこの場しのぎにはなった。納得したハロルドが手を放してくれたからだ。

 アリアは崩れ落ちて咳き込み、必死に息を吸った。

 嫁ぐ。生贄。ジュリアの口からも出た言葉に、いよいよ聞き間違いではないことを確信する。

 だが、わけが分からない。

 そんなアリアを引きずるようにして、ハロルドとジュリアは城に引っ立てていった。


 城の主となる建物は、以前はよく訪れた場所だが、いかんせん離宮に押し込められた年月が長い。構造は変わっていないが雰囲気は様変わりしていて、懐かしいという感覚はあまりなかった。

 そもそもそんなことを感じていられる余裕もなかった。

 もつれる足を懸命に動かして二人の後を追う。そうでないと早く進めと蹴られたり、荷物のように引きずられたりするからだ。

 普段から立ち働いているぶん体力はあるが、栄養が足りていないぶん体力がない。貧相な体で息を荒げつつ城の廊下を通り、階段を上る。

 その途中でジュリアと王子が交わしていた会話を聞いたところから察すると、ジュリアはどうやら今回の話を離宮に彼女を迎えに来ようとしていた夫から聞いたらしい。それであのタイミングでの登場となったわけだ。

 ジュリアの夫は公爵、位は高いが王族ではない。

 もしもアリアの隣国への嫁入りが決まったというのなら、それがさっそく臣下に伝わっているのはどういうわけだろう? 王族の思惑だけでなく、何かのっぴきならない事情で事が決まったのだろうか。

 目的の部屋に着くと、左右に控えた衛兵が重厚な扉を開いた。

 立派な部屋の真ん中に鎮座するのは大きな円卓。そして、その周りに座る王族たち。

 久々に見る父は年を重ね、そればかりではなく少しやつれたようだった。

 アリアに目を留め、しかし何も言うことなく顔を逸らす。

 父は、母がいなくなった当初にアリアに憎しみをぶつけたきり、以降は離宮に姿を見せていない。アリアを継続的に虐げてこそいないが、妃たちの行状を止めるでもなく、最低限の必需品を離宮に運ぶ使用人が仕事を放棄したり物をくすねたりするのを黙認していた。間接的に彼ら彼女らを助長させていた。

 円卓につく他の面々、妃と王子王女たちは久しぶりどころではなく結構な頻度で顔を合わせている。

 特に正妃デリア、即妃ユーニス、即妃の娘でアリアと年の近いクラリスは執拗に離宮を訪れてはアリアをいたぶっていく。

 そんな面々が勢揃いする場に入っていくよう促され、アリアは足が竦み、転んだ。

 べしゃりと床に伏すアリアに降ってくるのは、くすくすと笑う声、汚らしいと蔑む声、馬鹿にした調子で嗤う声、声、声。

 見世物として引き出されたような状況に、アリアの麻痺した心の片隅がずくりと痛む、庇ったり心配したりしてくれる者はいない、王を含む全員が否定的な眼差しをこちらへ向けている。

 わけが分からない理由でわけが分からないまま連れ出され、心無い声を浴びせかけられる、無数の傷がついた体に、心に、塩水を塗り込むような行いだ。耐えようと噛み締めた唇に簡単に血が滲んだ。

「…………第五王女」

 王の声が降ってくる。昔はアリアと可愛がって呼んでくれたのに、そんな過去などなかったかのように、無味乾燥な呼び方で。

 アリアはのろのろと顔を上げた。

「今日ここにお前を呼んだのは、お前の婚姻が決まったからだ」

「…………私の、ですか…………?」

 そんなことを兄や姉から言われたから分かってはいるが、理解できてはいない。王族の立場は剥奪されていないが、実質的には下働き、いや、それ以下だ。そんな自分に婚姻の話が出るとは欠片も想像していなかった。

(しかもこんな……王族が勢揃いする場を設けて? 私の婚姻を決めた……?)

 まったくわけが分からない。そんな重要事項であるはずがないのに。

 ありうるとしたら、全員が結託した手の込んだ嫌がらせなのだが……。

 まるで何も分かっていないアリアに、王が溜息をついた。ハロルドが嘲りながら代わりに説明した。

「お前は知らないだろうが、この国はノナーキーとの戦争の最中だ。ただ、少し旗色が悪い。形ばかりの恭順の意を示すために、王女を嫁がせることになった」

「…………」

 王族としてはあるまじきことだが、国がそんなことになっているとは全く知らなかった。

 離宮の中まで入ってくるのは王族だけで、外を歩く人とはアリアの方から顔を合わせないように避けている。世間話のたぐいは漏れ聞こえないし、アリアにわざわざ政情を話す人もいないから、本当に何も知らなかった。

(戦争の最中、ね……)

 ハロルドの言葉は疑わしい。最中であるなら婚姻など結ばないはずだ。最低でも無期限の停戦、そのくらいの片はついていると見た方がいい。そうでなければ王女を嫁がせるという話にはなるまい。

(トーリアは、ノナーキーに負けたんだわ……)

 それは憂うべきことなのだろう、とは思う。

 だが、意地悪と表現するにも生ぬるい王族たちを通して見たこの国に、アリアはたいして思い入れを持てない。もしかするとノナーキーの支配下に入ってしまった方が国民にとって良い結果になるかもしれない、とさえ思ってしまう。

 形ばかりの恭順……そのことをまともに隠す気すらないらしい。ぼろぼろの容姿で、教養もマナーもろくに身につけていない、母方の血筋も怪しい、そんなアリアを嫁がせようというのだから。

「年頃の娘は一人しかいないからな、向こうもそこに難癖はつけられないだろう」

 ハロルドは言う。そこ以外の他の部分が問題だらけだが、それはいいらしい。

 ライラが城で暮らしたおよそ九年、国王ジョザイアは他の女性に目を向けなかった。アリアと最も年の近い王女はクラリスで二歳年上、アリアの下となると九歳以上の差が開く。

 確かに最も都合がよさそうな年齢なのは十七歳のアリアだが、十九歳のクラリスも同じ役目ができそうなのに。

 そう思って視線を向けると、クラリスは不機嫌さを隠しもしな冷え冷えとした眼差しでこちらを見返した。


「わたくしにノナーキーへ行けと? 冗談でしょう? あんな未開で野蛮な国。清らかな山々に囲まれた我が国と違って、海辺って猥雑だし粗野な人々が多いと聞くわ。冗談じゃないわ」

 クラリスはさも不機嫌そうに言った。不愉快な場所にアリアを追いやるのはいいらしい。

(海……)

 どんなものなのだろう、とアリアは思う。池を途方もなく広大にしたようなもので、しかも塩水で出来ている地形らしいが、まったく想像がつかない。

 それと、人々の粗野云々については正直なにも思わない。ここに集まる人々よりひどいということもないだろう。

「クラリスには婚約を整えた。だから他国へ嫁げる年頃の娘は、お前ひとりだ」

 国王ジョザイアが言う。整えた、というところから察するに、急ごしらえででっち上げたらしい。本当にそのまま結婚するのか知らないが、しないにしても婚約破棄の方がノナーキーへ嫁ぐよりもましだということなのだろう。

 そこまでしてノナーキーが嫌がられる理由が分からないが、そういえばジュリアたちはこうも言っていた。生贄、と。

 ハロルドが引き継いで言った。

「我が国はしぶしぶながら王女を差し出す。お前には何も期待していない。向こうで無礼をはたらいて手打ちになるならそれでいい。弔い合戦をしてやるからな。まあ、こちらが反撃の準備を整えるまでの時間を稼いでもらえるなら、それでいいんだ」

「………………」

 アリアは再び唇を噛み締めた。何も期待していないというのは嘘ではあるまい。時間稼ぎさえアリアに期待せず、おそらくは婚礼の準備だの何だのと理由をつけて引き延ばすことを考えているのだろう。たとえアリアが反抗して、ノナーキーに渡ってすぐに自死したとしても構わないのだろう。

 生贄と言うからには、すでにアリアの死は織り込み済みだ。どこかで自分は――ノナーキーによってか、トーリアによってかは分からないが――殺される。そして、トーリアの兵たちの士気を高め、諸国の同情を買うために使われるのだろう。

(……ずいぶん、大掛かりな死に方ね……)

 今まで自分が生かされていたのが不思議なほどだ。いつか殺されるだろうことは予想していた。限界を迎えるのは虐げられ続けた体も心か、王族たちの憤懣か、王の恋心か。どれであってもおかしくなかった。……どれでもなく、状況が激変したことによるものだったが。

 アリアを差し出すということは、王は母のことを諦めたのだろうか。それとも、これをきっかけに思い切ろうとしているのだろうか。周りの人々に諫められたのだろうか。そのあたりの事情はアリアには分からない。

「……でも、第五王女を差し出して……大丈夫でしょうか?」

 思慮深げに声を上げたのは、第二王子サイラス。クラリスの同母兄だ。

 だが当然のごとく、彼もアリアを心配して声を上げたわけではなかった。

「政治的に価値のない娘とはいえ、二つ目の名前を持っている王女です。いずれ我が国に連れ戻した方がいいのでは」

 トーリア王族の習わしとして、生まれた子を賢者に見せ、祝福を授けてもらうというものがある。アリアも生まれた時はれっきとした王女として扱われていたため、慣習に則って賢者の祝福を受けている。その際、リーチェという名前を頂いたのだ。

 その名前にどんな意味があるかは知らない。ここにいる人々も知らないだろう。ただ、賢者が祝福とともに名前を与えるのは珍しくも古式ゆかしいことであるらしく、父王にはたいそう喜ばれた。誇りに思う、とも言ってもらったらしいと母づてに聞いた記憶がある。

 アリアの髪は母ゆずりの銀色だが、瞳は王家の青(ロイヤルブルー)だ。他の王子や王女たちもこの色の瞳を受け継いでいる者ばかりだが、二つ目の名前を持つ者はいない。アリアは王家の色の瞳を受け継いだばかりではなく二つ目の名前まで受けたということで嫉妬され、それは後年に具体的な暴力となって襲い掛かってきた。

 賢者がどういう意図でどういった基準で名前を与えているのか知らないが、今のアリアにとっては何の助けにもならないばかりか、虐待を助長するだけの名前だ。いや、もしかしたらこれのおかげで、命までは取られずに済んでいたのかもしれない。……苦しみを長引かせていたということにしかならないが。

「名前なんてそんなもの、賢者のきまぐれでしょう。連れ戻すことなんて考えなくていいわ」

 サイラスとクラリスの母、即妃ユーニスが言い放った。

「名前を二つ持つ娘を我が国に戻して、何かいいことがあるとでも? むしろ好都合ではないかしら。そんな貴重な存在を、蛮族の国に下げ渡してあげるのだから。思い切り恩を売ってやるわ」

 彼女の言葉からも窺い知れるが、歴史の古いトーリアは他国を見下す傾向が強い。

(……でもそんな「蛮族」なら、名前を二つ持つくらいのことをありがたがるかしら……)

 アリアは思ったが、口は挟まない。どうせ結論は変わらない。その過程に折檻が加わるか否かの違いだけだ。

 とにかくも、事情は分かってきた。トーリアはノナーキーに戦争で負け、王女を差し出すことになった。そのあたりは隠しようもないから、ジュリアの夫も公爵として知らされ、迎えに来た彼女にこの話を伝えたのだろう。

 しかしトーリアは負けたままでいるつもりはなく、王女を利用して時間稼ぎをし、のちに反撃の口実あるいは士気を高める生贄として使い潰すつもりでいる。連れ戻すつもりもない。

 その役回りは姉姫クラリスもできるが、できなくさせるために急ごしらえの婚約を整え、アリアに白羽の矢を立てた……いや、順番が逆かもしれない。最初からアリアを犠牲にするつもりで、最大限に利用しようという意図で時間稼ぎと人質と生贄の役を与えたのだ。もしもクラリスしかいなかったら、何とかして彼女の命を救おうと策を弄しただろう。そもそも最初から王女を嫁がせる話にしなかったかもしれない。

 必要にかこつけて、アリアを使い捨てる。

 都合がよかったのだ。王族にとっても、この国にとっても。

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