第2話 村マサイ町マサイ

 第二章 村マサイ町マサイ


「アぁカぁぁリーッ」

 門番の詰め所の椅子に腰かけていたジョンが、立ちあがって両手を振っている。ふたりよりも早く、定刻に着いていたジョンだった。

 午前十時四十五分。左から出てきた明香里と右から出てきた航は、ゲートまでほぼ同じ距離まで近づいているのだが、ジョンは目ざとく明香里を見つけ、手を振って、片足まで上げている。

 ちぇーっ。おみやげを持っているのはぼくなのによぅ。

 左手に握ったビニール袋をぶらぶらさせながら、歩みの速度をゆるめた航に、明香里のほうが気がついた。

「おうっ。遅いじゃねーかっ」

 明香里が航のほうを向いたので、ジョンも彼に気がつく。明香里に対してほど、おおげさに喜びをあらわさなかったので、航はもういちど心のなかで、ちぇっ、と舌を打った。

「なになにーっ? ジョンが正確に時間を守って、あたしたちは遅刻? ヤバいじゃーん」

 大声をあげて立ち止まった明香里に手を振ってジョンは、航のほうへと歩み寄ると、ビニールを握っていない彼の右手を両手でがっしりとつかみ、ブンブンと上下に振り回しながら叫んだ。

「ハバリ ザ スィク ニンギッ(久しぶりっ)!」

「あいててててて」

 手がもぎれるくらいのちからだ。

 とりあえずウラフィキ(友情)は枯れていないようだ、と航は理解した。

 ジョンは正真正銘のマサイである。きょろっとした大粒の両目に、くるっとカールしたまつげがついていて、くちびるは厚い。鼻はうらやましいことに少々高めで、ついでに横にも広い。髪は短く丸刈りで、オフィスで仕事をする時はメガネをかけている。

 一キロ先で牛糞を転がすフンコロガシが見えると噂されるほど視力の良いマサイがメガネ? と驚かれるかもしれないが、悪いものは悪いのだ。本人は大まじめに、「勉強のしすぎ」、だと言っている。

 背は、航より頭半分くらい高いから、一八〇センチ以上はあるのだろう。今日は青と白のチェックの長袖シャツに、紺色のスラックスをはき、キメ感メキメキである。

 こう眺めると、彼は完ぺきなシティ・ボーイ、すなわち「町マサイ」だった。

 察するに、性格はまじめな陽キャ、ってな感じがする、と航はジョンをしげしげ観察する。

「お、おしゃれしてきたね。教会での礼拝のため? そ、それとも目の前の、明香里さんが理由?……」

 雑巾ぞうきん色になりかけているTシャツを着た航は、そうからかいたかったけれど、黙ってジョンの鼻先にビニール袋を差し出した。

「おみやげ。日本のTシャツとチョコレート二箱だよ」

「ゥワオッ」

 受け取ったジョンはさっそく、袋をシャカシャカいわせながら中のTシャツを引っぱり出し、広げてみせた。

「ケ、ケンカ売ってんの?」

 そばによってきた明香里が、それにしてもダサい、と率直な感想を述べながら指摘する。

「そ、そうですか? キリマンジャロとの山コラボのつもりだったんですけど」

 手前に桜の景色がひろがる、雪のかぶった富士山の写真プリントTシャツだった。

 ジョンはふたりの憂慮をよそに、えへへっ、と笑って「ありがとうっ!」と礼を口にしながら、「ムリマ、ウジ……」、と山の名前を思い出そうとしている。さすがだ。知識がある。航は「フジ」と訂正しながら感心した。

 Tシャツを、丸めるようにたたんでチョコの入ったビニールに戻しているジョンに向かって、航はひとこと付け加えた。

「ふたりとも、ジョンの勤める会社の飛行機に乗って来たよ」

「そうかっ。乗りごこちはどうだ」

「いいけど、距離は長いよ」

「それはおれのせいじゃない」

「たしかに」

「ビジネスクラスに乗りたいな」

 明香里がなにげなく口にする。

「おれが乗せてやる。いつかきみの両親に会いに日本へ行くとき」

 引きつった笑い顔で明香里は、一歩あとずさっている。

「こんなところで立ち話もなんだから、お茶でも飲みに行きましょうか。あ、お茶じゃないな。ソーダかビールですね」

 航がそう提案するとジョンは、「車がなぁ」、と言い出した。

「買ったのっ?」

「買った」

「スゲえっ」

 明香里も男ことばになって、航と調子を合わせる。聞けば走行距離六万キロのトヨタカローラの中古車を、日本から直輸入したのだという。価格は輸送費込みでドル換算にしたらいくらいくら、と教えてくれる。ふたりで計算して円換算したら、おおよそ百二十万だった。

「すげえっ」

 航も明香里ももういちど声をそろえる。

「あたしさ、今、自分の通帳に二十三万円ぐらいしかないんだよね」

 えっ、そうなんですか? 社会人経験者だからもっとあると思ってました。航は率直な感想を述べた。

「でも大丈夫。ぼくはもっとないです。七万円だけかな」

「それもヤベェよ」

 ふたりとも大学へは実家から通っているため、食と住は確保されているが、なにせ渡航費用や現地滞在費などが重くのしかかってくる。そのため明香里は、大学でのリサーチアシスタント、近所のうなぎ屋、遺跡の発掘調査、スーパーのレジ打ちと、アルバイトを四つもかけもちしている。同じく航は、塾の講師、コンビニエンス店員、焼き肉屋と三つかけもちだ。

 じゃあ、乗っけてもらう?

 日本人ふたりがそういう雰囲気になりかけたとき、ジョンはしょぼくれた顔になって言った。

「買ったけど、盗まれた」

「ええーっっっ?」

 煩瑣はんさな手続きを経て、港湾で自家用車を受け取り、嬉しくなってことあるごとに乗り回していたら、ある日突然。そう言ってジョンはしょげた。手元に届いてからたったの二週間だったという。

「日曜日、今日みたいに教会での礼拝の帰り、きみたちも知っていると思うが、ムウェンゲの叔母さんのうちへ行ったのさ」

 ふたりとも、ああ、知っている、クララのおかあさんのうちね、と、ムウェンゲにある一軒家を思い出した。

「クララを乗っけてあげようと家の横に路駐ろちゅうして、そこにいた子どもにちょっと見張っててと小銭を握らせ、中で叔母さんと、ついつい長ばなしをしてしまったのさ。戻ってみると、タイヤ四本すべてとエンジンがなくなっていて、ボディーだけが地面にお座りしていたよ」

「……」

 明香里があきれたように言った。

「ジョン、あなた、マサイとしての野生の勘を、失っている」

「そのとおりだ。スィナ ネノ(ことばもねえっ)……」

 でも、とジョンは顔をあげた。

「新しいのを買ったさ」

 うひっ。日本人ふたりは目をむく。

「それは、日本で使われ、アラブで使われた、走行距離二十一万キロのホンダフィットだよ!」

 日本円にしておよそ八万円で買ったその車は現在、船に乗せられてアラブ首長国連邦からこちらへ向かっているのだという。

「あの、航……」

「はい」

「できれば乗らんとこうな」

「そ、そうですね。危なさそうですもんね。盗まれなくてもタイヤ、パンクするかはずれるか、ですよね」


 三人は宿舎の前の大通りから乗り合いバスに乗った。中心地の郵便局前で降り、乗り換えのマサキ行きのバスを待つ。平日は大混雑している中心街だが、休日は比較的、人も車も往来が少ない。そのためマサキ行きがなかなかがつかまらず、三人はバジャジと呼ばれるインド製の屋根つき三輪オートに乗ることにする。

「こらこら。なんであたしと隣りどうしになりたがる?」

 先ほどの乗り合いバスでもジョンは、すかさず明香里のとなりに陣どりたがった。

「ほーらほら、ふたりは後部座席に一緒に。そしてあたしは運転手のとなりに」

 バスでは航とジョンを二人掛けシートに座らせ、自分はアフリカ人のおばちゃんの隣に座った明香里は、今度は、前列左側の助手席にさっさと乗り込んでしまう。仕方ねえなぁ、という調子で後方に身体を突っ込んだジョンのとなりに、航は苦笑いしながら腰をおろした。

「サレンダーかな。セランダーかな」

 風を切って車道を走る三輪オートの後部座席でつぶやいた航の疑問に、明香里とジョンと運転手がいっせいに、「セランダー!」、と回答の声を合わせる。在タンザニア日本大使館を過ぎ、幹線道路が湿地帯を越えるときに渡る橋がセランダーブリッジで、進行方向右手には海が広がる。

「ああ、気持ちがいい」

「臭いね」

「海臭?」

 左側にはマングローブの茂った小さな入り江があり、水が引いたあとの湿地のにおいを漂わせている。

「ここさあ」

 明香里が前方から日本語で大声を出す。風にあおられて、後部座席の航にはようやっと聞きとれる音量だ。

「お江戸と似てる感じがするんだよね」

「お、えど、ですか?」

「うん。そう。都市の成り立ちって、結構似通っているところがあるなあ、ってね。江戸にも小さな半島があったり砂州があったりして。日比谷は埋め立てられた入り江なんだよ。どこもそうやって人によって手が加えられ、土地が変貌へんぼうしていくんだなって」

 そうなんだ。航はとっさに返事ができなかった。明香里とすぐさまアカデミックな意思疎通ができない自分がいた。まだまだ勉強不足だな。吹く風に髪をなびかせている明香里の後頭部を眺めながら、航は、ほんのちょっとだけくやしいような気持ちがした。


 海に面したホテルの先は、いかにも観光客用のショッピングエリアだ。おみやげ用のペンキ画ティンガティンガや、民族布のカンガが、観光客用値段で売られている。

「サファリも高いね」

 外国人向けピザ屋の値段表を眺めながら、明香里が日本語で喋った。

「ジョン。ビールが高いんだって」

 明香里の情報を航が伝える。

「当然だろ。ワゲニ(お客さま)仕様なんだから」

 そう言いながらジョンは突然、ぎゃっ、と叫び声をあげたかと思うと、一メートルくらいうしろに飛びのいた。

「なっ、なになにっ?」

 マサイの叫び声に、日本人ふたりは、抱き合わんばかりにおののく。ジョンが指さした先を眺めると、海上テラスの足元に、巨大クラゲがうごめいていた。

「な、な、なんだ。クラゲか」

 明香里が半分ほっとしながら、よく観察しようと欄干から身を乗りだす。

「そ、それにしてもデッカイね。なんて種類なんだろう」

「エチゼンクラゲみたいですね。でも青いし、足の段々が三つもある」

「ジョン。これ、スワヒリ語でなんていうの?」

「し、知らない。習ったような気もするが、忘れた。き、きしょいし、喰わないからね……」

「えーっ。じゃあマア語でなんて呼ぶのよ」

「知らないよ。草原にはいないからさ。いま、びっくりしてるもん、自分。まあ、英語だとジェリーフィッシュかな」

 クラゲにおびえているマサイの答えに日本人ふたりは、それなら知ってる、と顔を見合わせた。


 怖いもの見たさに、クラゲに見入っているジョンとは、マア語で会話することはないだろうなあ、と、航はちょっと残念に思っている。

 タンザニアには百以上の民族が暮らしているといわれるが、ここでいう民族とは、コーカソイドとかモンゴロイドといった人種とは異なる、言語をもとにした区分である。

 マサイはより正確な発音では「マアサイ」という、マア語を母語とする人々の集団であり、マア語は、ナイル諸語に分類されている。

 いっぽう、同じタンザニア国内で、言語の多くを占めているのがバントゥー諸語であり、たとえばチャガ民族が話すチャガ語、スクマ民族のスクマ語などがその系統に分類される。また、ナイルともバントゥーとも異なる、舌を打ち鳴らすクリック音のハツァやサンダウェなどの言語も存在している。それらは、アフリカ大陸における人々の移動と、密接に関係があるのだ。

 じゃ、今ぼくたちが会話に用いているスワヒリ語はなにか。授業で習ったことを、航は心のうちで反復する。異なる母語を持つ人々の共通語だ。

 バントゥーの人々とアラブの人々が、インド洋のこの海岸で出会ってはぐくまれた言語。それがスワヒリ語。

 そして英語は、植民地支配の時代にもたらされた言語だ。

 今まさにジョンは、母語であるマア語の上に、リンガフランカであるスワヒリ語と英語を操っている。そして現在、仕事の関係上アラビア語を学んでおり、できればフランス語もできるようになりたいと言う。

 航がマア語を学べばいいのだろうが、彼にとってのマア語は目的意識が薄く、学習環境が整わない言語だった。でもそんな間にも、アフリカ各地の民族言語が、リンガフランカや国際語に取って代わられ、話者がいなくなり消滅していく現実があることも、航は知っている。


 クラゲに見飽きたのかジョンが、

「バス停留所のほうに、観光客用でないバーがあるから、そこにサファリを飲みに行こう!」

と、平地のほうを指さす。

「そうねぇ。お腹すいちゃったもんねぇ。薄っぺらで小っちゃいピザなんかはジョンには物足りないでしょ」

「がっつりウガリでないと。あと、肉?」

 行こう、行こう、と言いながら三人が、浮き床からコンクリート製の階段の方向へ戻ろうとした時、前方から、どう見たって東洋人と思われる親子連れが、階段を降りてくるのに出くわした。

 日本人ふたりがあっ、と叫んだのと同時に、母親らしき女性も、あっと声をあげた。

梨花りかさんっ!」

 小学校低学年くらいの男の子と、日本でいう幼稚園年長くらいの女の子が、驚いた表情で、母親の名を呼んだ三人のほうを眺めている。子どもたちの背後にいる恰幅の良い東洋人男性は、少しけげんそうに前方の航たちに目をやったまま突っ立った。

「来てたんだあ」

 涼しげなブラウスにスカート姿の、梨花さんと呼ばれた女性が、まず口を開いた。

「あ、はい。ぼくはおととい、明香里さんは一週間とちょっと前に到着しました」

「そうだったのね。すぐに寄ってくれたらよかったのに」

 ありがとうございます、と言って明香里も笑顔を見せ、背後に立つ夫に挨拶をする。

「ニンハオ」

「ニーハオ」

 夫がちょっと笑顔になって答えた。それからジョンのほうに目をやると、どこかで会ったことがあるな、という表情をした。ジョンは自分から、年長者へ向けた挨拶をした。

「シカモー(ごきげんうるわしく)、ムゼー(だんなさん)。シカモー、ママ」

「マぁラハバー(ご挨拶、ありがとう)。確かジョン、さん?」

 ジョンは、そうです、というように少し口角をあげる。

北京ペキン行きではいつも、お世話になってます。みんな知り合いなんだー」

 梨花は最初の節をスワヒリ語で喋って、あとの節は日本語で続けた。

 ジョンの勤める航空会社は、中東から中国各地へと便をいくつも飛ばしている。梨花の夫は北京出身の中国人で、輸出業のかたわら、中国政府による開発援助の現地コーディネイター兼通訳として、八年間ほどをここで暮らしている。梨花と出会ったのはそれよりずっと以前、北京の大学だったそうだ。結婚したあとにふたりしてタンザニアに渡ってきた。

「こんなとこ、来たくなかった!」

というのが、梨花の第一声だったらしい。そう、吉田先生は教えてくれた。

 航と明香里に梨花を紹介したのは、ふたりの担当指導教授、吉田昌美である。

 彼女は調査に入っていた八年前、郵便局の前で、タンザニアに来たばかりの梨花に出会った。声をかけてきたのは梨花のほうだったという。

「あのっ、日本人ですか? 日本人ですか?」

 梨花は泣きそうだったそうだ。吉田先生をわざわざ自宅まで引っぱっていって、三時間も愚痴を聞かせたらしい。かいつまんでいえば、自分の人生にアフリカで暮らすなんていう選択肢はひとっつもなかった、ということなのだ。離婚を考えている、とまで言ったらしい。

 ところが八年経った今、吉田が紹介する学生の面倒を見たり、相談に乗ったりするようになったのだから、人も人生も、どう転ぶかわからない。

「アフリカ人はナマケモノで、嘘つきだ。でもおれはここが気に入っている」、という夫のリーさんに、その考えには賛成できないけれど、ここが気に入ったのはわたしも同じ、と言いつつそのかん、子どもふたりまでもうけた。

「あ、梨花さん。吉田先生、二週間後に到着しますよ」

 そう伝えた明香里に梨花は、

「知ってるわ~。連絡いただいたから。うちに泊まってくださいってお誘いしたんだけれど、固辞されました」

 でも、と言いながら梨花は、「食事会はしましょうね」と、笑って、腰の両側に貼りついているふたりの子供の頭を撫でた。

「ニーハオ、ニーハオ、ニーメンハオッ」

 明香里が中腰になりながら子どもたちに挨拶をする。お兄ちゃんのほうは一歩引いたが、妹のほうが人懐っこそうに、笑顔を浮かべている姿を、航はかたわらで観察していた。

「覚えているかな~、お姉ちゃん。何回か会ったことがあるよぉ、あなたたちに」

 そう、日本語で声をかけてから明香里は、あることに気がついたように、梨花に向かって顔をあげる。

「お子さん、日本語わかります?」

 梨花は小さく笑いながら答えた。

「それがねえ、わからなくなっちゃってるのよねぇ」

 航と明香里は顔を見合わせた。

「家のなかでは中国語、インターナショナルスクールでは英語、それから外ではスワヒリ語だから、日本語がちょっと……」

「そうですか。でも、いいですね。グローバルで」

「そんな簡単なものじゃないのよ」

 そう言って梨花は、笑顔をたやし、ため息をついた。

「子どもたちはもう、日本には帰れないかもしれないと思うと、やっぱり考えるところはあるの。日本国籍もないし。帰ったとしても外国人でしょ」

「思ったより我が国、排外主義が強くなってますもんね」

「そう。人間の性なのかしら。わたしたちだって、ここだけじゃなく、どこでだって差別を受けるものね」

「あ、わかります。わたしもここで、『チャイニ~ズ~』とか『フンハンホンハン~!』みたいにからかわれると、マジ頭きちゃいますもん。それと同じようなことを日本でされたら、どんな気持ちになるかって」

 そう言って明香里は、自分が口に出した単語で、梨花の夫である李が気分を害していないか、心配したように彼の表情をうかがった。梨花は気を利かせて、中国語で通訳をしている。

「まあ、子どもたちにはそれぞれ、自分の生きられる場所を、見つけてもらうしかないと思ってるわ」

 ちょっと寂しそうに笑った梨花に航は、ちょっと見、幸せそうだけれど、とてつもない苦労があるのではないかと、想像をめぐらせてみるのだった。

 連絡くださいね、と言った梨花とその家族と別れて、三人は徒歩で、椰子やしの葉ぶき屋根のバーへと向かった。屋外に十ほどのプラスチック製丸テーブルがあったが、そのうちのふたつにしか客はいなかった。

「めっちゃ腹減った」

 そう言ってジョンは、ウガリと牛肉スープ、豆を注文してから、おっと、忘れちゃいけねえ、ビール、と、まじめな顔でサファリを追加した。航は鶏肉と米飯、明香里は、「あたしはチップスがいい」と、フライドポテトの卵とじを選んだ。

「ニャマチョマ(牛串焼き)食べる? ジョン」

「いいねえ~」

「キティモト(豚肉焼き)は?」

「それは遠慮しとくわ。豚は慣れない」

「美味いのにね~」

 そんな会話を交わして、三人は腹を満たすことにとりかかった。

「ジョン」

「うん?」

「タラシーに会ってる?」

 ニャマチョマにかぶりつきながらジョンは、タラシーねえ、という顔つきになった。

「長いこと会ってないよ」

「親戚なのに?」

「そうなんだよ。でも、生活リズムが違っちゃうんだよ」

「そっか」

 ジョンは二十六歳の町マサイで、タラシーは二十四歳になる、戦士モランの半町半村マサイだ。ふたりはアルーシャの同じ村に系譜を持つ親戚同士である。ただし、ジョンの祖父が、チャガ民族を真似て早くから商才の頭角をあらわしたのとは対照的に、タラシーの家族は伝統的なマサイの牧畜生活を守っていた。

「連絡手段がないんだよねえ」

「おれもそう」、とジョンが答えた。

「壊しちゃうのか番号かえちゃうんだか、いっつも携帯がつながらない」

 明香里がチップスをもぐもぐしながら、ははっ、と笑っている。

「やっぱ、美容室長屋で待つしかないか」

「そう思うよ。こっちに連絡が入ったら、ワタルに教えてあげるよ」

「ありがとう」

 そう言いながら航は、明香里と折半してジョンの飲食代を支払うことにした。貧乏学生ふたりが、金持ち社会人におごるってどういう状況よ、と思ったが、実はジョンだって、そんなに羽振りが良いというわけでもないんだろうな、と、なんとなく感じたから。車だってきっと、三、四年お金を貯めたうえでの購入だったんだろう。

「ああ、楽しかった。偶然梨花さんにも会えたし。ありがとう、ジョン」

 そうお礼を言った明香里に対し、

「そうだろう。おれと居れば毎日が、こんなに楽しいよ」

と、ジョンは返事をした。顔をくちゃっとさせて苦笑いした明香里は、

「何番目だか知らないけれど、あなたの他の妻たちと一緒に生活するような人生はちょっと、あたしには無理かなあ」

と、ジョンの甘言をやんわり断わっている。そのつれない返答にジョンは、まじめな顔になって言った。

「きみひとりにきまってるだろ」

 明香里はテーブル席からずり落ちそうになるくらいドン引いており、航はソーダを吹き出しそうになった。

「ワタルからなんとか説得してくれ」

「えっ? それは、どうなの?」

「まさか、まさか、きみたち、デキているわけじゃないだろうな」

「あのさ、そういう邪推やめてくんない? デキてないし、先輩後輩だって」

「じゃあ、説得してくれ」

「困ったなあ」

 そんなやりとりを聞き流しながら、現地のキャッスレスシステムで支払いを済ませた明香里が先に席を立ち、ジョンと航があとに続いた。

「う、うらやましいですね。あの、押せば願いはかなう、みたいなノリ」

「真似しなくてもいいよ。どっちにしてもあとが大変だろうからさ」

 むすっとしているジョンを背後に明香里は、客待ちしているバジャジを呼ぶ。街なかへ向かう途中でジョンは、クララの家に寄って、もらったチョコレート一箱を渡してくる、と三輪オートを降り、手を振った。

「またねー。連絡する」

「またねー」

 三輪オートのなかからふたりも手を振る。立ち直りの早いマサイだった。

 助手席で明香里が振り向いて、風にさえぎられないくらいの大声で言う。

「明日の朝あたし早いから、挨拶はできないけど。昨日運んだスーツケースだけ、保管お願いね」

「お預かりします。何時出発なんですか?」

「朝五時くらいにシスターたちが車で迎えに来てくれる」

「気をつけて行ってきてください」

「うん。あ、それと、吉田先生。二週間後に着くから、忘れないでね」

 了解です、と答えてから航は、

「明香里さん、ぼくちょっと、マサイの美容室に行ってみます」

と、運転手に、途中で停まってくれるように指示をする。

「タラシー?」

「はい。いるかなって」

「そう。よろしく伝えてね」

 市場の角で航をおろした三輪オートは、助手席に明香里を乗せたまま、土煙をあげて遠ざかっていった。

 町マサイのジョンにあてられてなんだか急に、村マサイのタラシーが懐かしく思えてきた。まだ三時すこし過ぎだから、夜警の仕事に行く前に、ほかのマサイと一緒に美容室にたむろしているかもしれない。そう航は、土ぼこりの舞う歩道を、靴を白くしながらまっすぐに進む。

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