第32話

「これが取りたいのですか?」


 頭の上に影が差して、腕が伸びるのが見えた。


「あ、ありがとう。オーディン」


 オーディンが書架から本を抜き取りこちらに差し出したのを受け取って、マルガレーテは礼を言った。


 ここは学園の図書室で、マルガレーテは読みたかった本を見つけたのだが、それは書架の一番上の棚にあったから、背の低いマルガレーテでは届かなかった。


 爪立ちになって腕を伸ばして、ううんと背伸びをしても届かない。


 司書に頼めば脚立を用意してくれる。だが、マルガレーテにはそれがはばかれた。マルガレーテはこの国の第一王女の身分にある。ほんの僅かな頼み事も、受けた方は「命令」と思うだろう。


 王女に生まれながらかしずかれることに慣れない。そういう内向的な面が自分にあるのをマルガレーテは誰よりも知っている。


 そんなマルガレーテに一片の忖度も見せない人物、それがオーディンだ。


 オーディンは父王の側近の子息である。

 コットナー伯爵家の嫡男で、一人きりの息子である。大変な難産の末にオーディンが生まれた後、コットナー伯爵は夫人に子を孕ませなかった。

 この世に生まれる命よりも、最愛の命が脅かされるほうが地獄なのだと言って、後継の息子ただ一人を大切に養育している。


 陰では、伯爵が避妊薬を常用しているのだとか、そういう秘したテクニックに長けているのだとか、夫人に不思議な力があってその力で子を成すことを抑えているのだとか、噂は幾つもあるのだが、幸いマルガレーテはその手の噂を知らずにいる。



 マルガレーテの顔に影ができている。狭い書架の通路にいるのと、背の高いオーディンに見下されているからで、たったそれだけのことでマルガレーテの胸は早鐘を打つように鼓動が早まる。


 マルガレーテに本を渡して、ほんのちょっとこちらを見下ろしたオーディン。それが、マルガレーテにしかわからない程度に片方の口角を上げた。


 これが彼の笑みなのだ。マルガレーテだけが知る、オーディンの笑み。


 胸の奥の温かな感情を本と一緒に抱き締めた。オーディンは既にこちらに背を向けて、書架から明るい通路のほうへ抜けて行ってしまった。


 マルガレーテは、つい先ほどまで見上げた顔を思い出す。


 オーディン。

 ブルネットの髪に消炭の瞳。母譲りのおっとりとした細面の顔。だが彼がまるっきりの母似でないのは、もう片方の目が父と同じ翠色をしていることだ。

 オーディンは、珍しいオッドアイの持ち主なのだ。


 それを稀有だと讃える者がいる一方で、気味が悪いと厭う者もいる。

 だが、マルガレーテにとっては、ただ美しく見つめていたいと思う瞳だった。


 幼馴染でもあるオーディンに、マルガレーテは惹かれている。


 一つ年下の弟ヘンリーが今年の春に立太子してから、元より大人しいマルガレーテは益々影が薄くなった。誰から聞かされたわけではないが、本人にその自覚があるから確かだろう。


 オーディンはヘンリーの側近候補だ。彼の父であるコットナー伯爵はそれを酷く嫌がったが、夫人がカードで引いてしまったとかなんとか言って渋々納得していた。


 城にいる限り、マルガレーテはオーディンの近くにいられる。もし彼が妻を得ても、城にまで妻を連れてくるわけではないから、きっと耐えられるだろう。

 夜会や茶会といった社交場で、妻をエスコートする姿を見るのは辛いことだと思うも、それは遠視的に視野をぼかして切り抜けようと思っている。


 オーディンに婚姻の予定など無いのに、王族とは生まれながらに覚悟を要する身の上であるから、備えあれば憂いなし、父愛読の東国の諺通りに、マルガレーテは今から心の内で備えている。


 大好きなオーディン。

 貴方が誰かと出会い、誰かを愛し、私ではない誰かと寄り添い生きるのを、私は覚悟をしてるの。それでも城の中にいて、貴方の側にいたいと思う。


「姉上」


 背中から声を掛けられて、マルガレーテははっとする。

 とっくに姿の見えなくなったオーディンが出ていった書架を、ぼぉっと見つめていた。


「こんなところにいたんですね。迎えが来ます、帰りましょう」


 弟のヘンリーはまだ十五歳。本来、学園の入学は来年なのだが、どうしても姉と一緒に入るのだと言って、一年早く入学した。


 帝王学を学びはじめたヘンリーには、貴族学園に入学する程度の学力は既に備わっている。

 父王と母妃の長所を余すことなく受け継いだヘンリーは、賢く聡明で美しい。

 マルガレーテだって、母譲りの真っ白な肌に父そっくりの青い瞳、その目は母と同じく猫目に吊って理知的な表情に見せている。


 なのに本人の気質は、折角の金色の髪が魅力とならないくらいに地味だと思う。誰から聞かされたわけでもないが、本人にその自覚があるから確かだろう。


「さあ」


 ヘンリーが手を差し伸べて、マルガレーテの手を取った。キュッと握る手の感触は、幼い頃から変わらない。

 姉であるのに幼少の頃から、手を引くよりもこんな風に手を引かれることのほうが多かった。


 マルガレーテもそんなヘンリーにされるがままになっていて、だから今だに手を引かれてしまう。


「恥ずかしいわ、ヘンリー」


 ここは学園の図書室で、他にも生徒がいる。こんな姿を見られるのは、どことなく恥ずかしいことに思えた。


「嫌?姉上」


 ヘンリーが眉を寄せてこちらを見る。決して嫌ではないのに、この姉想いの弟から守られるばかりではいられないと、この頃のマルガレーテは思うのだ。


「嫌だなんてそんなこと、ある訳がないわ」

「よかった」


 そう答えれば、ヘンリーは笑みを浮かべた。それで今日も結局ヘンリーに流されて、手を引かれて馬車まで歩くのだった。






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