第2話だよ〜
廊下に出ると、昼休みのざわめきが広がっていた。
教室から漏れる笑い声や、購買に向かって走る生徒たちの足音。
そんな喧噪の中で、彩葉は歩幅を合わせるようにゆっくりと歩く。
「ねえ、天野くんは……お昼、食べなくても大丈夫なの?」
ふいにかけられた問いかけに、少し肩が跳ねる。
「あぁ、大丈夫。今日は……緊張するってわかってたから、持ってきてないんだ」
正直に答えると、彩葉は口元に手を当てて
「そうなのね。確かに、すごく緊張してたわね……」
「まさか先生が、急にあんな無茶振りしてくるとは思わなかったよ」
僕も思わず苦笑する。
廊下を並んで歩きながら、彩葉はひとつひとつ指を差して校内を説明してくれる。
彼女の歩調はゆったりとしていて、僕の歩幅にぴたりと合わせてくれているのが分かった。
――気を遣わせているんだろうか。けれど、不思議と嫌な感じはしない。
◇◇◇
「ここは保健室。具合が悪いときは遠慮なく行ってね」
窓の向こうに、静かな部屋と白衣の先生の姿が見える。
「そう言えば保健室の先生は一体何をしてるんだろうね?やっぱり忙しいのかな?」
「んー、そうねー。やっぱり忙しいと思うわよ?」
そう言いながら視線をやると、窓の向こうでは白衣の先生が腕を組んであくびをしていた。
◇◇◇
「次は体育館。入学した時の行事はだいたいここでやるの。最近だと始業式で使ったわね」
大きな窓の向こうに、広々としたフロアが広がっていた。
「へぇ……広いね」
思わず感嘆の声が漏れる。
中からはバスケットボールの弾む音や、叫び声が響いている。
「あの人たちは、だいたいここで遊んでるわ。バスケ部なのかしら?」
そのとき、遠くでボールを追っていた女の子が、こちらに気づいたように手を振ってきた。
「……こっちに手を振ってる気がするけど。知り合い?」
僕が問いかけると、彩葉は小さく首を横に振った。
「いいえ、知らない人だと思うけど……?」
桜色にきらめく瞳が揺れ、口元と顎にそっと手を当てて、困ったように笑った。
◇◇◇
「次は図書室に行こうかしら。……天野くんは、本は結構読むほう?」
「そうだね。どちらかと言えば読むほうかな」
そう答えると、彩葉の桜色の瞳がぱっと明るくなった気がした。
両手を叩いて
「まあ、嬉しい。実は、わたしも本が好きなの。小説でも詩でも……読み始めると、つい時間を忘れてしまうのよ」
「あ、それはちょっとわかるな。僕も夢中になりすぎて、気づいたら夜が明けてることがあるから」
「ふふっ、それはちょっとやりすぎね」
そうかな、とふたりは顔を見合わせて笑った。
「“あと一ページだけ”とか、“ここまで読んだらやめよう”って思っても、なかなか手が止まらないんだよね」
湊が言うと、彩葉はくすっと微笑む。
「その気持ち、よくわかるわ。続きが気になって、ついついページをめくっちゃうのよね」
彩葉が微笑む。その笑顔に、張り詰めていた空気がふっと緩んでいく。
ほんの短いやり取りなのに、ぎこちなさがほどけていくのがわかった。
ゆっくりと歩幅をそろえて歩いていると、彩葉はふいに下を向き、足を止めた。
「……?四季さん?」
顔を上げたとき——桜色だった瞳が、ふっと薄茶色に変わっていた。
彼女はきょろきょろと周りを見渡す。廊下の先、窓の外、掲示板、非常口の矢印。
状況を一瞬でなぞり取るみたいに視線が跳ねて、次の瞬間——無邪気な笑顔で、まっすぐ僕を見つめる。
「ねぇ、ねぇ?」
さっきまでよりも、半歩……いや一歩は近い。肩が触れそうな距離まで寄ってきて、覗き込む。
「あなた誰?」
「……え?」
「うそうそ、知ってるよ。昨日会ったもんね。」
ケタケタと笑う。
「転校時の挨拶って緊張するよね! でも、あの“特技ペン回し”は点数高いと思う。」
彩葉は腕を組んで小さく頷き、ぱっと視線を上げた。
「11点かな! もちろん50点満点中だよ!」
「ねぇ、ねぇ、君は、四季の中で何が一番好き? ……春香? 夏海? 冬乃? 春夏秋冬って語呂よくない〜?一番嫌いな言葉かも?」
首をこてんと傾け、薄茶色の瞳が好奇心で揺れる。
「……あれ? まだ会ってない? そっか、そっか、初日だもんね〜。」
そう言うやいなや、彼女はコマのようにくるくると回り、ぴたりと足を揃えて止まると肩口や裾をポンポンと叩いて埃を一通り払う。
「私は秋音! 彩葉って呼んでいいよ〜」
「…………えっと、その——」
ようやく声になった言葉を、彼女の明るい調子が軽やかに上書きした。
「ねぇねぇ、非常口の人っていつも急いでるよね。どこにいきたいのかな?——あ、今日の献立はカレーだって。お昼?朝?夜?いい匂い、風がカレー色」
「……実はね、こっちの窓、開けたら雲の形が増えるの。開け閉めで一、二、三——ほら、ふえた」
窓のハンドルをくるりと回す。さっきまで閉まっていた窓から外気が流れ込み、制服の袖がふわりと揺れる。薄茶色の瞳が楽しそうに細まった。
そう言って掲示板をぱん、と指で叩き、今度は床の白線の上にバランスを取りながら一本足で進むと思ったらすぐに、マグマに落ちる。
「廊下は走らない、って書いてあるけど——心だけなら走ってもいいと思うの。セーフでしょ?」
「このポスターの猫は昨日までは笑ってたけど、今日はちょっと機嫌が悪いの。だから撫でておこう——はい、よしよし」
掲示板の端をそっと撫でる仕草をして、満足げに頷く
「ごめん、ちょっと待って。さっきから——」
そう口を挟んだ瞬間、さっきまでの笑顔がすっと消え、眉がわずかに寄った。
「……やだ、機嫌悪いのがうつっちゃった……」
廊下のざわめきが一瞬だけ遠のいた気がした。
「え? いや、その——」
彼女はぱちぱちと瞬きを二度。次の拍で、表情が元の明るさに戻る。
「よし、戻った。——はい、つづき」
今度は指を三本立てて、いたずらっぽく揺らす。
「質問は三つまでね。四つ目からは謎に変わるから。
あ、でも偶数はボーナスだから二つ目は二回分オマケにしてあげる。今、二回目だからボーナスタイムだよ?」
チッチッチッと言ったと思ったら。
「はい、終了」
ぱん、と手を打ってから、思い出したように指を立てる。
「そういえば案内の途中だったよね? じゃあ行こうか、ついてきて〜」
そう言うなり、テコテコと歩き出す。——ついさっきまでとは、違い、歩幅が全く合わない。
一歩が急に速くなったり、ふいに小刻みになったり、リズムが独特で、こちらの足がどうにも噛み合わない。
「ま、待って——」
慌てて追いすがり、なんとか横に並ぶ。
「四季さん? 一体……」
口に出した途端、自分でも質問がうまく形になっていないと気づく。
「彩葉だよ〜」
彼女はスキップをひとつ。その勢いのままぴたりと立ち止まり、ポケットからスマホを取り出した。
「……え、ちょ、え?」
急に立ち止まった彼女に追突しそうになって、思わず体を引く。
「先行ってていいよ〜」
画面を親指で素早くなぞり、何かをぽんぽんと送っていく。
僕はその場で呆然と立ち尽くす。何をしているのか、何がどうなっているのか、頭が追いつかない。
やがて彩葉はスマホをぱたんとしまい、ぱっとこちらへ向き直る。
「お待たせー。じゃあ行こうか〜」
そう言うや、かかとで軽く跳ねてスキップしたと思ったら。——次の瞬間、くるりと踵を返して廊下を駆け出した。
「え、ちょ、ちょっと、待って——!」
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