第2章 連結編
コード029 煤けた空気のぬくもり
朝、目が覚めて寝床から起き上がる。ラッドスパンの朝は今日も煙たい。
体に悪そうなガスの匂いが鼻を刺激し、換気扇の低い唸りが耳の奥に残る。
ここで迎える朝には、まだ慣れない。
こうして見慣れない天井を見上げるたびに、ほんの少しだけ落ち着かない気持ちになった。
それでも、「帰る場所」があるという感覚は、不思議と胸の奥を温かくしてくれる。
私は大きく伸びをし、眠け眼を擦りながら洗面所へ向かう。
本来なら廃水しか出ない配管も、私が旧式のナノフィルターを再生修復したから、顔を洗うくらいなら問題ない程度には浄化できた。
飲めるほどの水じゃないけれど、
けれど、肌寒い朝に冷たい水は容赦なく肌を刺す。思わず息を吸い込みながら、ロザリオ区画で使えたぬるま湯を少しだけ恋しく思った。
そうして冷たい水と格闘しながらも朝の支度を済ませ、レクスが「好きに使え」と言ってくれた作業部屋へ向かう。
もとは埃まみれの倉庫だった場所を、言葉通り好きに片づけさせてもらった。今では私の小さな修理工房になっている。
棚には私の工具や部品が並んでいる。
あの施設から拝借した精密器具も揃っていて、前よりずっと細かい作業ができるようになった。
嫌な思い出の詰まった道具だが、物に罪はない。
そう自分に言い聞かせながら、昨日レクスが拾ってきてくれたジャンクをひとつずつ仕分けし、棚へと収めていく。
黙々と手を動かしているおかげか、頭の中が静かになっていく。
そうして整頓を終えると、今度は工具の手入れに取りかかった。油を染み込ませた布で一つひとつ磨きながら、金属の擦れる感触を確かめる。
磨かれた金属が、薄明かりの中でわずかに光った。
そのまま、精神統一するように、必要なすべての工具の手入れを終える。
そして、作業台の明かりが揺れる中、私は横たわる「猟犬」を見据えた。
「……っ!」
見るだけでどす黒い憎悪が顔を出す。けど、コイツの力は私の目的のために必要で、目的を果たすまでは殺せない。
そうだ。コイツは道具だ。目的を果たすための道具なんだ。
何度も何度も、心の中で繰り返しながらコイツの修理に取り掛かった。
作業台から伸びるチューブが少し揺れる。栄養と補助電力を送るためのラインだ。
寝たきりのコイツは自分で摂食できない。チューブの脈打つ振動と低く漏れる機械音が、コイツがまだ生きている事を教えてくれる。
コイツを殺すのはいつでも出来る。だから深く考えちゃいけない。いつか便利屋を離れて、独立するためにも、コイツには生き延びてもらわないと困るんだ。
今はレクスの便利屋に厄介になっているが、本音としては、もう誰も巻き込みたくなかった。私の
だから、コイツがちゃんと動くようになったら……コイツをちゃんと動かせるようになったら、ここを離れるんだ……。
その誓いを胸に、私は作業に没頭した。
まずはチューブと注入ポンプの点検だ。繋ぎ目を指先でなぞり、漏れがないか確かめる。
フィルターは目詰まりしてないか、ダイヤルを回して流量を確認。栄養ラインの温度を微かに上げ、冷たすぎないようにする。ここが安定してなきゃ、話にならない。
次に電源系。補助バッテリと並列してある小型コイルをチェックし、出力表示が安定するのを確かめる。
脳に繋がる端子類はまだ危うい。強いパルスを流せば暴走する。だから、低出力でゆっくり上げていくしかない。
工具を握る手に無駄な震えが入らないよう、深呼吸を一つ。指先で露出したギアポートの端子に慎重に小さなパルスを当てる。モニタの緑が一回、小さく点滅した。
よし、反応がある。
私はさらに微調整を続けた。神経同期用の波形をわずかに修正し、ノイズを落とす。心拍計の針が、わずかに速くなる。規則的な機械音。
……ついに、ここまできた。これが安定すれば、あとは最後のトリガーだ。
呼吸を整えてから、私は猟犬の名前を強く、はっきりと呼んだ。
「
同時に、同期パルスをごく短く、少しだけ上げる。波形は弱くても、確かな印を刻むように。声と信号が同時に届くよう、慎重にタイミングを合わせた。
瞼がわずかに震え、指先がぴくりと動く。胸の機械音が一拍だけ速くなる。
「……ヴィ、ク……?」
かすれた声が空気を震わせた瞬間、私は意識の奥でアクシオンギアを作動させた。
神経の奥が焼けるように熱い。視界が一瞬だけ白く弾け、血管の中を何かが逆流していく。
「よく聞け、ゼヴィ」
手が震える。失敗すれば何が起きるか、誰よりも分かっている。だから、慎重に……けれど、躊躇わずに言う。
「これから、お前が従うのは私だ」
……あぁ、吐き気がする。
それがギアの副作用か、自分のしていることへの嫌悪かは分からない。
それでも割り切れと、ここで引いたら全部が無駄になると意識を集中させた。
アクシオンギアを壊すためなら何だってする。
殺人鬼だろうが悪魔だろうが利用するって決めたんだ!
きっと、それが……両親も恩人も死なせてしまった私にできる、唯一の恩返しだから──
「私の声に、従え!」
「……ヒャハッ」
◇ ◇ ◇
「そんで、これはどういう状況?」
テーブルの上に置かれた皿の向こうで、レクスが不機嫌そうな声を出した。
その後ろでは、壁の一部がきれいに吹き抜けになっている。風通しは抜群だ。もちろん、最悪の意味で。
「えっと……想定より、出力が高かったというか……想定外なことが起こったというか……」
「お前マジでふざけんなよ。バカデケェ目覚ましで起こされたと思えば……見ろよコレ、壁貫通して隣の配管まで見えてんじゃねぇか。朝イチでこんなもん見せられた俺の気持ち考えろよ」
「だって……目覚めた瞬間に暴れたんだもん」
「だもんじゃねぇよ。全然可愛くねぇんだよ」
レクスは額を押さえて深く息をついた。
「アンダーファイブよりお前のが怖ぇわ」
「……いや、でも。一応言うことは聞いてるし、成功といえば成功、みたいな?」
「全然成功じゃねぇだろ。起きるたびに家壊す仕様とかたまったもんじゃねぇよ」
「大丈夫! ちょっと調整すれば……うん。うまくいくよ……たぶん……」
「確証持ってこいよ」
そんな苛立っているレクスの隣で、暴れまわった張本人のゼヴィは、まるで他人事のように椅子の上でぼんやりしていた。
寝癖みたいに髪を跳ねさせ、欠けたギアの部分からは小さく蒸気が漏れている。
「なぁなぁ。これ、壊していいか? いいよな? いいだろ?」
「お前は黙ってろ」
レクスはうんざりした表情で立ち上がると、壁の穴を見ながらぼやいた。
「とりあえず、俺は依頼があるから出かけるけど、その間に直しとけよ」
「……うん」
私がそう言うと、レクスはため息をひとつついて、頭をかきながら私の横に立った。そして、左手で私の頭をぐしゃりと撫でる。
「……晩飯、用意して待ってろ。帰ったら一緒に食うぞ」
その言葉に思わず顔を上げると、レクスはもう視線を外していて、扉の方へ歩きながら片手を振っていた。
「壁は二度と壊すなよ」
「……うん、気をつける」
「気をつける、じゃねぇ。壊さねぇ、だ」
いつもの調子なのに、妙に優しい声だった。
「レクス、
「あぁ、それと……」
「その無理した一人称も、直しとけよ」
最後にそう言い残して、レクスは外へ出ていった。
壁の穴から、ラッドスパン特有の煤けた空気が流れ込む。その中に、ほんのわずかなぬくもりが残っていた。
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