第5話 帰還
昼食後、私は再び森に向かった。
昨夜ゼペット先生が妖精を埋めた場所に、小さな石を積み上げ墓標を作るためだ。
枯れ枝を数本拾い集めて組み合わせ、その上に何枚かの落ち葉をかぶせる。
やがて簡素な覆いができあがり、墓標の上に静かな影が落ちた。
「ごめんなさい」
そんな言葉では足りないだろうけど、そうしか言えなくて唇を噛んだ。
墓標の前にしばらく座っていると、体を縛っていた何かが静かにほどけていくように、ふっと体が軽くなった。
驚いて立ち上がろうとした瞬間、自分の手が透けているのに気づく。
「え……?」
指先から、じわじわと感覚が薄れていき、輪郭が見えなくなっていく。
――まさか、このまま消えちゃうの?
ピッ、ピッ、ピッ……
耳の奥で、聞き慣れた機械音がかすかにこだまする。
――ああ。きっと、元の世界に戻るんだ。
「つぐみ?」
私を追ってきたのか、森の奥からリナの声が響いた。慌てて振り返ると、彼女の姿がゆらめくようにぼやけていく。
「リナ!」
「どうしたの? なんだか薄くなって……」
「私、帰らなければいけないみたい」
「帰るって、どこに?」
リナが必死に駆け寄ってくる。その声がまだ届いているのかどうかも、もう確かめられない。
「わからない。でも……そんな気がする。いままで、本当にありがとう」
墓標の下から、光の粒子がふわりと立ち上がった。
そのきらめきは瞬く間に視界を満たし、世界を真白に塗りつぶしていく。
リナの声が遠ざかる。森の匂いも、風の感触も、すべてが淡く溶けていく。
そして――静寂。
ピッ、ピッ、ピッ……
心電図の音。
そのリズムは以前と違って、規則正しく感じる。
薄く目を開けると、真っ白な天井があった。
黄ばみもシミもない、清潔な白。
消毒液と薬品の匂い。機械のモニター音。
――ここは…集中治療室(ICU)?。
「つぐみ? つぐみ!」
母の声。表情は明るく輝いていた。
私の全てを抱きしめるような笑顔で、まっすぐに私を見つめている。
胸の奥から、何かがぶわっと広がった。抑えきれず、涙が溢れる。
「……ただいま」
声はかすれていた。いったいどれくらい眠っていたのだろう。
「おかえり……おかえりなさい」
母も涙を流しながら私を抱きしめた。
母の温もりに胸がいっぱいになって、私はそのまま、また、深い眠りに落ちていった。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ましたとき、いつもの黄色シミのある病室の天井が見えた。
窓の外は明るく、キャッキャと公園で走り回る子どもたちの声が聞こえてくる。
椅子に腰掛けていた母が、私の目が開くと嬉しそうに身を乗り出した。
「つぐみ…」
「……お母さん、わたし…」
母は私の手を包み込み、まるで小さな子供に話しかけるみたいに柔らかな口調で言った。
「移植が成功したのよ。心臓移植が…」
――移植?
全身に意識を巡らせる。
確かに、あの押しつぶされるような息苦しさがない。
森で走ったときほどの爽快感はないけれど、吸った分だけ、空気が体中を巡っていく。
「助かったのよ」
母はそう言って、私の手を強く握った。
「どうして? 私は十五番目だったはず……」
母の表情が少し曇る。
「事故があったの。夜行バスが大きな事故を起こして……」
言葉を探すように、母はゆっくり続けた。
「十歳の男の子が……ご家族がドナー登録をしていて。心臓のサイズが合うのがつぐみだけで、順番が早まったの」
十歳。
私が病気になった年と同じ。
刹那、異様に喉が乾いた。
生つばを飲み込むと、ぬるっとした嫌な感覚が喉の奥を落ちていく。
私の胸で鼓動しているのは、その子の心臓なのだ。
「その子は……」
「......亡くなったわ……」
ピッ、ピッ。
心電図の規則的な音だけが、静寂を破っていた。
――命は、いつも何かの犠牲の上に成り立っている。
ゼペット先生の言葉が、真っ白に塗りつぶされた意識の奥で静かに響いた。
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