喫茶つむぎの見えないけど見えてる日常
石井はっ花
第1話 バイトをしなさい
「ただいまぁ」
玄関のドアを開けたひよりが、靴を脱ぎながら声をかけると――
「まあ、ひより!もう帰ってきたの? 部活は?」
キッチンから母のかず実が顔を出した。
「うぇ。母さんいたの?」
「“うぇ”ってなによ。今日は在宅だって言ってたでしょ」
ひよりは洗面所で手を洗い、そのままリビングに向かう。
「……そうだっけ」
「そうよ。それより、部活はどうしたの?」
ひよりは高校一年生。入学と同時にテニス部に入ったものの、性に合わなかった。
「あ。やめてきた」
「……“あ”じゃないのよ! どうするの、ウェアもラケットも新しく買ったばっかりじゃない。いくらかかったと思ってるの!」
「だってさ……」
部活には、部活ごとの“暗黙のルール”というものがある。
テニス部も例外ではなく、新入部員にはウェアとラケットの新調が強制。
なのに、それを使って練習すると、先輩から小言の嵐。
『ほんと、やってらんない。』
もともとミーハーな気持ちで入部したひよりは、当然、長続きするわけもなく――
初心者な上にやる気もないのに、空気ばっかり読めって空気。そりゃ、辞めるしかない。
「あんたはいつも、何を始めても続かないのよね!」
「そんなことないもん。……続いてるのだって、あるじゃん。ほら……」
「“ほら”って、出てこないじゃないの」
図星だった。
ひよりは、ぐぬぬ……と呻きながら、テーブルに突っ伏す。
「そうだわ。あんたが何も続かないのって、責任感がないからじゃない?」
「責任感?」
「そう。責任感。何でもタダで始められて、努力しなくても結果が出ると思ってるから、根気がないのよ」
そこまでまくし立てて、かず実はふと黙る。
顎に手を当て、少し考えるような仕草をした。
その瞬間、ひよりの背筋に悪寒が走った。
「……お母様? その考え、今すぐ中止していただけません?」
口調が変になるのも当然だ。
母が何か“いいこと”を思いついたときの地獄は、過去に何度も体験している。
「そうだわ! バイト、しなさい。高校、バイト禁止じゃないんでしょ?」
「い、一応は禁止されてないけど……」
正直、労働したら負けだと思っている。
「じゃあ決まり。しばらくお小遣いもストップします。あんた、早く見つけないと干からびるわよ!」
*
「……というわけでさぁ。なんか、いいバイトない?」
ひよりが机に突っ伏したままぼやくと、
紙パックのコーヒーをストローですすっていた神薙 雪凪(かんなぎ せつな)が、真面目な顔で答える。
「まぁ、普通に考えたら駅前のファストフードか、コンビニあたりが無難だと思うけど」
「だよねぇ……でもさ、駅前って、うちから通える手段がないのよ」
「……あー、あんたん家、山の方だもんね。バスも通ってないし」
「そうなのよぉ。学校までは徒歩15分くらいだからいいけど、駅前からだと帰宅に二時間コース。無理無理」
「うーん……。――あ、そうだ。今日の放課後ちょっと付き合ってよ。カフェ、見つけちゃった」
「ええ〜!? お小遣いが〜〜……」
「いいじゃん。そんな高い店じゃないし、しょうがないから今日は私が奢ってあげる」
「雪凪様〜! ありがたや〜ありがたや〜……」
「奢るって言っても、大層なもんは無理ですけどね?」
と、そこへ予鈴が鳴った。
授業が始まるらしい。
でも、ひよりの頭の中はすでに“そのカフェ”のことでいっぱいになっていた。
*
住宅街の真ん中。
誰も、こんな場所にカフェがあるなんて思わないだろう。
大きなガラス窓に、こげ茶色の木の屋根。
確かにカフェ然とはしている。しているが――
「……やってるの? ここ」
入口の上にある赤いビニールのオーニングは、ところどころ破れて垂れ下がっている。
その下に並べられたガーデニングの鉢植えは、すでに植物の命を失って久しい。
「えと、やってる……はず。先週、いとこが来たときは営業してたって聞いたけど……」
雪凪が歯切れ悪く答える。
でも、なんのスイッチが入ったのか――彼女はひよりの手をぐいと引っ張った。
「女は度胸!」
「いらっしゃいませ」
二人の声が、ドアを開ける音と同時に重なった。
カウンターの奥から、男性の声。
「……お二人様で、よろしいでしょうか」
ひよりと雪凪は顔を見合わせた。
(……今の、“間”は何?)
「えと、はい。二名です」
さすが雪凪。立ち直りが早い。
ひよりはまだ心臓がどきどきしている。
雪凪が先に店内へ足を踏み入れた。
カウンター席が、奥にふたつ、手前に五つ。
テーブル席――というか、ボックス席が三つ並ぶ、こぢんまりとした店内。
「カフェ、だよね……?」
どこか昭和レトロな雰囲気。
各テーブルには、手書きのメニューとボックスティッシュ。
それから、ひと輪だけ生けられた小さな花。
雪凪は、ボックス席の真ん中を選び、当然のようにそこを陣取る。
「早くおいでよ〜」
「あ、うん」
ひよりはまだ半信半疑のまま、ゆっくりと席に着いた。
ソファに体を預けると、不思議と少し、肩の力が抜けた。
「……お冷、お持ちしました」
静かに置かれたグラス。
男性の店員さんが、一礼して立ち去ろうとする――けれど。
(その“間”は何?)
聞いてみたい。でも、なんか怖くて聞けない。
「は?」
向かいの雪凪が、メニューを開いたまま声を上げた。
顔がちょうどメニューに隠れているが、驚きのニュアンスは全身から伝わってくる。
「なにこの値段。どんだけお財布に優しいのよ」
メニューをひよりが受け取ると――
「え、まじ?」
コーヒー一杯、300円。
カレーライス500円、ナポリタン450円、ケーキセット400円。
パフェでさえ、550円。
「で、でも、それって……ほんのちょびっとしかお皿に乗ってないとか、じゃないの?」
「だよねぇ、そりゃそうだよねぇ……」
「……はい。……お決まりに、なりましたか?」
まただ。この“間”。
二人は、もうその件には触れないことにした。
「あ、はい。ケーキセットください。ケーキは……?」
「……チーズケーキが二種類。バスクチーズケーキとスフレチーズケーキ。あとはチョコレートケーキですね」
「へぇ、いいですねぇ。私、チョコレートケーキで。コーヒー苦手なんで、紅茶にできます?」
「……はい。ダージリン、アッサム、アールグレイから選んでいただけます」
「じゃあ……アッサムでミルクティーお願いします。ひよりは?」
「私もケーキセットで。スフレチーズケーキとコーヒー。ミルクもください」
「……かしこまりました。ご注文は以上で、よろしいでしょうか」
「はい、以上です」
男性は静かにカウンターへ戻っていった。
「え……なんか、案外ちゃんとしてるくない?」
「ほんとに。意外なんだけど」
二人は顔を見合わせる。
数分後、話し込んでいた二人のもとに、ふわりとコーヒーの香りが漂ってきた。
その香りは、ひよりにとってどこか懐かしい。
母のかず実が無類のコーヒー好きだったせいで、自然と香りに敏感になっているのかもしれない。
とはいえ、コーヒーを飲めるようになったのは、つい最近の話。
それまでは――
(ただの苦い泥水だったなぁ……)
それなのに、この香りは優しかった。
入口のドアが開いて、カランと鈴の音が鳴った。
続けて、ドアの閉まる音。
誰かお客さんだろうか。
店内には、ひよりたち以外の客はいなかった。
(ちょっと居心地、悪かったんだよね……)
それにしては、男性店員の「いらっしゃいませ」の声が聞こえない。
なんだか不思議だ。
そう思っていると――その彼が、トレイを手にやってきた。
そこには、ケーキ二種類と、紅茶とコーヒー。
「……お待たせしました」
淡々とした声。
でも、運ばれてきたそれらはまるで別世界の食べ物のように美しかった。
薄茶色のチョコレートケーキには、繊細な模様のチョコレートソースがあしらわれていた。
紅茶はポットごと、ティーカバーまでかけられ、浅くて広いティーカップと共にサーブされる。ミルクもちゃんと別添え。
ひよりのコーヒーは、深めのカップにたっぷり七分目。
こちらもミルクが小さなピッチャーで添えられていた。
スフレチーズケーキは、見るからにしっとり。細かいスポンジの質感が、ひよりの食欲をそそる。
「……どうぞ、お召し上がりください」
「いただきます!」
二人は驚きと共に、無言で食べ始めた。
ひよりも雪凪も、口元に手を添えたまま、目を見開き――お互いの顔をじっと見つめる。
(……なにこれ、美味しすぎる)
言葉が出ない。
二人はそのまま、同じタイミングでそれぞれの飲み物に口をつけた。
紅茶。
コーヒー。
そして、ふたり同時に――息をのんだ。
『美味しすぎる!』
言葉が出ないから、悶えるしかない。
そのまま夢中で食べ進め、気づけばケーキも飲み物もすっかりなくなっていた。
最後に、お冷を一口ずつ。
二人はため息をついて、同時に声を上げた。
「なにこれ! 美味しすぎ!!」
「秒でなくなったんだけど!」
ふと顔を上げると、カウンターの中――店員の男性が、ニコリと微笑んでいた。
二人は、それぞれ空になった皿を前に、しばらく身悶えしていた。
あのクオリティで、この価格。
高校生のお小遣いでも、充分に賄える額だ。
ただし――夕食前のこの時間にケーキを二個も食べてしまったらという罪悪感は、かなり重い。
「……帰り、走って帰ればチャラになるかな……」
「そんな体力あったら、今頃別の部活入ってたでしょ」
自嘲混じりに笑い合う二人。
そのとき――
カウンター席の椅子のひとつが、カラリと音を立てて、ゆっくり回った。ように、見えた。
「……ねぇ、雪凪。今の見た?」
「え?なによ今のって。てか私、ほんとにもう一個食べたくなってきた。太るよねぇ。でも、今食べなかったらきっと後悔するし……」
ひよりの耳元に確かにその声は届いた。
『後悔は、しない方がいいわよ』
「だれっ!?」
ひよりは反射的に振り向いた――が、そこには誰もいない。
「……ちょ、変なこと言わないでよ。いるの私たちだけじゃん」
「そ、そうだよね。ごめんね、なんでもない」
カウンターの中。
男性の店員は、少し困ったような顔で、それでも微笑んでいた。
雪凪は、なおもケーキの誘惑と戦いながら、メニュー表とにらめっこしていたが――
バサッ。
急に、メニューが床に散らばった。
「もー、しっかりしてよ雪凪。私に言われるとか、ヤバいって」
「ごめんごめん〜」
ひよりはしゃがみ込んで、散らばったメニューを拾い集める。
すると、その中に一枚だけ、違う紙が挟まっていた。
「バイト募集中。みるみえない問わず募集」
「みるみえない……? 視力……じゃない、よね」
文面をじっと読んだ。
時間帯も悪くない。最低賃金もOK。場所も通いやすい。
そして、まかない! ってなんだろう。
なにかついてくるんだろうか。
まかないあり、だそう。ふーん。
(……なにそれ。ちょっと気になる)
ひよりはチラシを両手で持って立ち上がると、カウンターへ駆け寄った。
「すみません!このバイト、まだ募集してますか?」
男性店員は、ふっと真顔になった。
そして――ひよりの“後ろ”をじっと見つめた。
雪凪も、思わず立ち上がって、ひよりの背後を覗き込む。
(なにか、いる……?)
しかし、そこには誰もいない。
「……はい。探してました」
男性は、ふわっと笑みを浮かべると、ひよりの手を取って、軽く握手した。
「……合格です」
「え、えっ!?」
「……いつから、来れそうですか?」
あまりのスピード展開に、雪凪が爆笑する。
「なによそれ!早っ!……でも、なんかいいコンビになりそうじゃん」
雪凪が笑いながら、まだメニュー表をいじっている横で、ひよりはふと気になって口を開いた。
「そういえば……このカフェの名前って、なんていうんですか?」
カウンターの中で、男性は少しだけ驚いたように目を見開いた。
それから、ふっと笑って言う。
「……ここは、喫茶店です」
(え、なにそれ、答えになってない……?)
と、思ったその瞬間。
「……名前は、喫茶つむぎ といいます」
彼は、カウンターから一歩踏み出し、静かに頭を下げた。
「……ボクは、山本つむぎ。この店の店主です。ボクのことは……マスターと呼んでください」
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