第3話

第十三章 父と娘の絆


里崎啓介の一人娘・美咲は、十四歳になっていた。

父親の異常な愛情を当然のものとして受け入れながら、普通の中学生として生活していた。


しかし、美咲は薄々感づいていた。

父親が何か「悪いこと」をしているのではないかと。


「美咲、商店街の霧には近づくな」

里崎は毎日のように娘に言い聞かせていた。

「あの辺りは...衛生的に問題がある」


「でもお父さん、友達がみんな霧で涼んでるのに...」


「絶対にダメだ!」

里崎の声が荒くなった。

自分が撒いた毒から、愛する娘を守らなければならない。


美咲は父親の異常な反応を見て、なんとなく理解した。

あの霧には、何か危険なものが含まれているのだろう。

そして、それは父親と関係がある。


だが、美咲は何も言わなかった。

父親を愛していたから。そして、父親が自分を守ろうとしていることも分かっていたから。


ある日の午後、里崎の携帯電話が鳴った。

「里崎先生でしょうか?」

聞き慣れない女性の声だった。


「はい、そうですが...」


「橋田恵子と申します」

その名前を聞いた瞬間、里崎の血が凍った。


「今すぐ、クリニックから商店街をご覧ください」


里崎は慌てて二階に駆け上がり、双眼鏡を手に取った。

商店街のミスト発生器の前に、見覚えのある制服姿が見えた。


美咲だった。


娘は女性カメラマンと談笑しながら、ポーズを取っていた。まるでモデルの撮影のようだった。


「お嬢様はとても美しいですね」

恵子の声が電話から聞こえた。

「このまま一時間は撮影の予定です」


里崎は愕然とした。

一時間も亜硝酸の霧に晒されれば、美咲の命が危険だった。


「やめろ!娘は関係ない!」


「私の夫も関係ありませんでした」

恵子の声が震えた。

「でも、あなたは彼を殺した」


第十四章 阿吽の呼吸


「何が望みだ?」

里崎は歯を食いしばって訊いた。


「自首してください。すべての罪を認めて」


里崎は考えた。

すべてが終われば、医師生命も社会的地位も失う。

だが、娘の命には代えられない。


その時、里崎はもう一台のスマホで、陳に連絡を取った。

「陳さん、緊急事態です。私の指示通りに動いてください」

と素早くLINEをした。


陳はそのメッセージで、すぐに理解した。


里崎は恵子に聞こえるように、警察への電話をかけた。

「水上警察署ですか?里崎と申します。殺人の件で自首したいのですが...」


電話の向こうで、男性の声が応答した。実は陳が偽装した声だった。

「どのような件でしょうか?」


「毒物による傷害致死の件です。私が犯人です。今から出頭します」


里崎は事件の概略を説明し、電話を切った。

そして恵子に向かって言った。


「橋田さん...本当に申し訳ありませんでした。ご主人を殺してしまいました」

彼の声は震えていた。


電話を切ると、里崎は双眼鏡で商店街を確認した。

美咲とカメラマンが霧から離れていくのが見えた。


恵子は里崎の自首を信じて引き下がった。


第十五章 最後の依頼


その夜、里崎は陳と密かに会っていた。


「陳さん、最後の依頼です」

里崎の目に、静かな決意が宿っていた。


「何でもおっしゃってください」


「橋田恵子、そして夜霧のバーテンダー井上、それから...私自身も」

里崎は陳の目を見つめた。

「すべて始末してください。ただし、恵子さんには苦痛を与えないように。夫を愛した女性として、せめて安らかに」


陳は黙って頷いた。


「美咲の将来のために、証拠は一切残してはいけません」


「分かりました」


里崎は封筒を陳に渡した。

「これは美咲の大学費用です。海外の大学に進学させてください。日本にいては、父親の罪に一生付きまとわれる」


その夜、恵子は自宅で読書をしていた。

陳は窓から静かに侵入し、恵子の後ろに立った。


「橋田さん」


恵子は振り返った。見知らぬ男性が立っていたが、なぜか恐怖は感じなかった。


「ご主人の仇は討たれました」陳は穏やかに言った。「もう苦しむことはありません」


陳は小さな注射器を取り出した。

「これは安楽死に使われる薬です。眠るように、痛みもなく」


恵子は微笑んだ。

「主人のところへ...行けるのですね」


「はい。きっと待っておられます」


恵子は目を閉じた。陳が薬を注射すると、彼女は夫の名前を呟きながら、静かに息を引き取った。


井上も同じく、誰にも気づかれることなく、安らかに姿を消した。


第十六章 記者への脅迫


翌日、里崎は吉村記者のもとを訪れた。


「突然すみません。里崎と申します」


吉村は警戒した。橋田から聞いていた名前だった。


「橋田さんの事件について、お話があります」

里崎は静かに言った。

「真犯人は、水上総合病院の伊集院部長です」


「何ですって?」


里崎は偽造した証拠資料を吉村に見せた。

「伊集院が私を脅迫し、毒物の投与を命じたのです。私は被害者です」


「そんな馬鹿な...」


「記事にしてください」里崎の目が鋭くなった。「そうしなければ、吉村さんの娘さんにも...不幸が降りかかるかもしれません」


吉村は震え上がった。

里崎は娘の通学路の写真まで持参していたのだ。


「分かりました...書きます」


「ありがとうございます。これで私の娘も、清らかな心のまま生きていけます」

「ずっと見張ってます」


第十七章 炎の中の終局


その夜、水上町に激しい雨が降っていた。


里崎は最後の準備を整えていた。

クリニックの各部屋に可燃性の液体を撒き、美咲には遠方の親戚の家に泊まるよう指示していた。


「お父さん、本当に大丈夫?」

美咲は不安そうに父親を見つめた。


「大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい」

里崎は娘の頭を優しく撫でた。

「お父さんは、お前のために生きてきたんだから」


美咲は涙を浮かべて頷いた。

彼女は全てを理解していた。父親がこれから死のうとしていることも。


「地獄の業火で焼かれるんだな」


夜中、里崎クリニックから炎が上がった。

近所の住民が駆けつけた時には、既に建物全体が燃え上がっていた。


消防署が到着した頃、不思議なことひ、里崎啓介の姿はどこにもなかった。


翌日の新聞には、「医療事故隠蔽事件の真犯人は病院部長」という記事が一面に掲載された。

記者名は吉村秀人。


記事は里崎を「脅迫された被害者医師」として描き、すべての罪を伊集院に着せるものだった。


第十八章 葬儀の毒杯


一週間後、里崎啓介の葬儀が静かに行われた。


美咲は喪服に身を包み、参列者に礼を尽くしていた。

彼女の表情には、深い悲しみと同時に、ある種の安堵も浮かんでいた。


父親の罪深い人生が、ようやく終わったのだ。


葬儀の最後、一人の中年男性が美咲に近づいてきた。

陳明華だった。


「お嬢様、お父様には大変お世話になりました」

陳は深々と頭を下げた。


「あなたは?」


「陳と申します。お父様の友人でした」


美咲は陳に茶を勧めた。

「父がお世話になりました」


陳は茶碗を手に取ったが、美咲が注いだ茶に気づいた。

微かに金属的な臭いがする。


「お嬢様...これは?」


美咲は静かに微笑んだ。

「亜硝酸ナトリウムです。」


陳の顔が青ざめた。


「お父さんは私に全部話してくれませんでした」

美咲の声は凪のように穏やかだった。

「あなたが恵子さんや井上さんを殺したこと、お父さんの命令で動いていたこと。最後のお父さんの自殺のことも」


「お嬢様...」


「でも、もう誰も死ななくていいんです」

美咲は陳の茶碗を見つめた。

「そう、これで最後です」


陳は茶碗を見つめ、ゆっくりと口に運んだ。

恩人の娘の言葉に、抗うことはできなかった。


数分後、陳は静かに意識を失った。


美咲は陳の脈拍を確認し、救急車を呼んだ。

致死量ギリギリの濃度に調整してあった。父親のノート通りに。


「もう、誰も殺さないでください」

美咲は意識を失った陳に向かって呟いた。


エピローグ 霧の向こう側


それから三年が過ぎた。


美咲は十七歳になり、海外の高校に留学していた。

陳は美咲の毒によって記憶の一部を失い、もう「便利屋」の仕事はしていなかった。


水上町の商店街から、ミスト発生器は撤去されていた。

伊集院部長は医師免許を剥奪され、医療界から追放された。


すべての真実は、炎とともに灰になった。

里崎啓介という医師の狂気も、彼が撒いた毒も、そして愛という名の歪んだ正義も。


美咲は時々、父親に手紙を書いた。

もちろん、届くことのない手紙を。


『お父さんへ

私は今、本当の医学を学んでいます。

人を救う医学を。人を傷つけない医学を。

お父さんが間違っていたこと、でも愛してくれていたことも、ちゃんと分かっています。

今度生まれ変わった時は、一緒に人を救いましょうね。

美咲』


美咲の手紙は、大西洋の風に吹かれて空に舞い上がっていく。

父親の愛と狂気を乗せて。


そして、誰も知らない真実を携えて。


水上町では今日も、普通の霧が立ち込めている。

毒のない、ただの水の霧が。

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亜硝酸の霧 奈良まさや @masaya7174

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