第32話 エアコン戦争勃発
秋である。
だがここ数日の東京は、まるで季節の神がカレンダーの遅れに気づき、慌てて帳尻を合わせたかのような気温に襲われていた。何日か前までの汗ばむ日を嘲笑うかのように、冷たい北風が街を吹き抜けている。それは、秋の訪れを告げる涼やかな風ではない。いきなり肌を突き刺し、体の芯まで冷えきってしまうような、冬の気配そのものだ。
秋はいなかったのである。
あれほど待ち望んだ穏やかな日差しも、空を高く彩るうろこ雲も、金木犀の甘く切ない香りも、すべてが省略された。木々は、鮮やかな赤や黄色に染まる猶予さえ与えられず、いきなり吹く北風に、まだ緑の残る葉や枝を揺らされている。
“ピッ”
都立武蔵原高校アニメ研究会の部室に、リモコンの操作音が響いた。
「なんでこんなに急に寒くなるの?」
そう言いながら、雫が暖房のスイッチをオンにしたのである。
東京の都立高校では、エアコンの導入が進んでいる。普通教室では設置率100%を誇り、音楽室やパソコン室などの特別教室で九割以上、体育館や武道場、トレーニングルームなどでさえ、設置率六割を超えている。
雫たちの通う都立武蔵原高校では、2003年に行われた校舎の新築や改修により、教室だけでなく体育館その他、授業で使用する全ての部屋へのエアコンの設置が完了していた。
「雫、温度上げすぎ!」
そう言うと凛は雫からリモコンを取り上げ、教室の後方に設置されたエアコンに向ける。
“ピピッ”
「凛ちゃん、それじゃ寒いよぉ」
「雫が寒がりすぎるんだよ!」
「凛ちゃん、暑がりすぎ!」
この光景は、雫と凛の教室で、春の終わり頃からずっと繰り広げられてきた。
もちろんその頃は今とは逆で、冷房の設定温度だったのだが。
アニ研部長の姫奈が、パンパンと手を叩く。
「はいはい、エアコン戦争はもうそのぐらいにしなさい」
雫がすがるような目を姫奈に向ける。
「でも部長ぉ」
その時結芽が、雫と凛にニヤリとした笑顔を向けた。
やはり最近お気に入りの表情のようだ。
胸ポケットから顔を覗かせているぬいぐるみの口も、結芽同様にニヤリとしている。もちろん、結芽自身が右手でぐいっとトカゲの口角を上げているのだが。
「わたしにいいアイデアがある」
「結芽ちゃん、ホント!?」
「結芽! 早く聞かせて!」
雫と凛が、興味津々に結芽に詰め寄った。
「雫はもっと着て、凛は脱げばいい」
はあっと、同時にため息をつく雫と凛。
「教室の中なんだから、コートとか着たくないよぉ」
「私に脱げと言うのか!? 結芽のエッチ、スケッチ、ワンタッチ!」
雫が疑問の顔を凛に向けるのと同時に、麗華がいつも抱えている大きな本をめくり始める。
「凛ちゃん、今の何?」
だが答えたのは麗華だ。
「エッチ、スケッチ、ワンタッチは、昭和の時代、主に60年代から70年代頃に広まった、子供たちの言葉遊び。語感の面白さから、当時流行語にもなった。意味としては “ちょっとエッチなことを冗談めかして言うときの決まり文句”といったところ」
「ふへ〜」
雫から、感心したような不思議な声が漏れた。
「今となっては、その初出が何であるかハッキリとはしていないが、当時の漫画やバラエティー番組で多用された」
「8時だよ全員集合?」
そう聞いた雫に、凛が首をかしげる。
「うーん、よく覚えてないけど、お父さんのビデオで見た気がする」
「高千穂さんって、お父さんのビデオ、よく見てるんだね」
アニ研平部員の英樹である。
「うん、私がオタクになったのも、お父さんの影響だからね!」
「お父さんの?」
「そう! ウチにはお父さんが録画した昔のテレビのビデオテープが5000本ぐらいあるのだよ! しかもベータなのだ!」
その場の皆が驚きの声をあげた。
「5000本!?」
だが、同時に叫んだ雫だけは違っていた。
「ベータ!?」
再び麗華が巨大な本をめくる。
「ベータマックス、昔使われていたビデオデッキのことですわ。VHSよりもカセットが小さかったと書かれています」
雫が疑問に思うのも無理はない。彼女たちが生まれた頃には、すでにDVDやブルーレイディスクが主流になっており、家庭用ビデオデッキはほぼ消滅していた。
「よく分からないけど、DVDとか、ハードディスクレコーダーみたいなものでしょ?」
“ピッ”
そう言いながら雫は、こっそりとエアコンの設定温度を上げた。
「雫! 今温度上げたでしょ!?」
「てへぺろ」
雫がぺろりと舌を出した。
「あ! 雫、ちゃんと覚えたんだ!」
「うん、凛ちゃんだけじゃなくて、井上喜久子さんも言ってたから」
嬉しそうに笑顔になる雫。
「雫、本当にきっこさんのこと好きだよね。でも、ごまかされないよ!」
そう言うと凛は、雫からリモコンをもぎ取った。
“ピピッ”
姫奈が再び、パンパンと手を叩く。
「だから、エアコン戦争はもうそのぐらいにしなさいって!」
「でも部長ぉ」
悲しげな目を向ける雫を無視して、姫奈が皆を見渡した。
「今日みんなに集まってもらったのは、大切な報告があるからなの! いつまでも2人でジャレてないで、私の話を聞きなさい!」
「がってん承知の助!」
凛のその言葉に、再び本をめくろうとした麗華を姫奈が手を伸ばして制する。
「昭和のギャグはもういいから! これを見て!」
そう言った姫奈の手に、一冊のファイルが握られていた。
「部長、それ、なんすか?」
凛のその言葉に答えて、姫奈が満面の笑みを浮かべる。
「“ハチドリのひとしずく”の台本が完成したのよ!」
その瞬間、満面の笑みがその場の全員に広がっていた。
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