声優というお仕事を知らない私でも声優部は作れますか?!

土井武志(ハビタ)

第1話 小さなハチドリ

「ボクはただ、自分にできることをしているだけだよ」

 スピーカーから流れた小さなハチドリの言葉が、雫の心を捉えて離さなかった。

 それはある春の日の昼休み、教室で母が作ってくれた弁当を食べている時だった。

 お母さんの玉子焼き、ちょっと甘くて最高! 

 そう思いながら、少し焦げ目のついた黄色いひと切れを口に放り込んだその時、雫の耳にそのセリフが飛び込んできたのだ。

「ボクはただ、自分にできることをしているだけだよ」

 あれ? 私、これ知ってる。

 そう思った雫の脳裏に、鮮やかにその情景が浮かんでくる。

 それは雫が小さい頃に大好きだった絵本の一節だ。

 どうして今まで忘れていたのだろう?

 あんなに大好きだったのに。

 雫は自分の前に座って、彼女同様に弁当をもぐついている友人に勢いよく問いかけた。

「ねぇ!あれって何?!」

 彼女の友人、凛は驚いたように一瞬身を引いた。

「あれって……どれ?」

「あれよ!今、教室のスピーカーから聞こえたあれ!」

 凛が黒板の上辺りに取り付けられたスピーカーを見上げる。

「ああ、毎日やってるでしょ? 放送部の校内放送」

 雫ががっと凛に詰め寄る。

「そうじゃなくて、今聞こえたでしょ?!ハチドリの言葉!」

「ハチドリ? ……ああ、オーディオ演劇のことかな?」

「オーディオ演劇?!」

「朗読って言えば、雫にも分かるよね?」

 凛は、よしとひとつうなづくと説明を始めた。

「先輩に聞いたんだけど、お昼の放送でたまにやる朗読、結構人気なんだって。今流れたの、多分それだと思う」

「朗読……誰がやってるの?」

「普段は演劇部の人とか、放送部の部員さんみたい」

 雫が首をかしげる。

「演劇部って、舞台とかでお芝居する部活じゃないの?」

 凛が肩をすくめた。

「私もそんなに詳しくないからなぁ。でも……」

「でも?」

「さっきの朗読についてなら、ちょっと小耳に挟んだことがあるんだぁ」

 雫がキョロキョロと、凛の耳を心配そうに見る。

「耳、はさんじゃったの? 大丈夫? 痛くない?」

「そういう意味じゃないって!」

 再び首をかしげる雫。

「だから、先輩から情報を聞いたってこと!」

「情報?」

「うん!今日の朗読は、特別にプロの声優さんがやってくれるんだって!さっきの、多分その人じゃないかな?」

「声優、さん?」

 凛が両手を腰に当て、少し得意げな笑顔を見せた。

「井上喜久子さんだよ!」

 雫にとってこの日の昼休みは、一生忘れることのない特別なものになる。なぜならこの日の出来事が、彼女の人生を大きく変えることになるのだから。


 その年は、春の訪れがほんの少し遅かった。

 温暖化のためか、年々季節の変化が早くなり、ここ最近では卒業の季節に桜が咲くことも多くなっている。だが、今年の入学式は桜が満開だ。

 都立武蔵原高等学校。

 東京都武蔵野市吉祥寺にある男女共学の普通高校だ。

 淡島雫は新入生である。

 特に目立つこともない、どこにでもいる普通の高校生だ。他人に自慢できる取り柄や、のめり込む趣味も無い。もちろん高校デビューなんて考えたこともない。そんな彼女は、もちろん帰宅部である。

「雫ぅ!今日も一緒にお弁当食べよ!」

 そう言いながら、自分の机を雫のそれに寄せて来る女生徒。

 雫と同じクラスの同級生、高千穂凛だ。

 たまたま雫と席が隣同士になったことで友人になった。だが彼女との出会いが、雫の人生をほんの少しだが変化させようとしていた。

 凛は、オタクだったのである。

 まさに雫とは正反対の人間だ。多趣味であり知識も豊富。全方向に張り巡らせたアンテナで、様々な情報をキャッチする。そんな彼女のことをクラスメイトたちは「ハカセ」と呼んでいた。もちろん尊敬の念もあるが、呆れの感情も含まれている。つまり、クラスの友人たちは「引いている」のだ。

 そんな凛が、雫に向かってドヤ顔で言い放ったのである。

「井上喜久子さんだよ!」

 どうしてドヤ顔?

 でも、凛が自慢げに言うってことは、きっとすごい人なんだろう。

「えっと……そうなんだ」

「ええーっ?! 雫、きっこさんのこと知らないの?!」

 恐る恐る小さくうなづく雫。

「きっこさんのことなら私みたいなオタクじゃなくても、みんな知ってるよ!」

 凛が教室を見渡し、皆に聞こえるように言う。

「ね!」

 多くの生徒たちが、うんうんと大きくうなづいている。

 丁度その時、朗読が終わってトークに入っていた校内放送からさっきのセリフと同じ声が聞こえた。

「井上喜久子、17歳です!」

 すると教室の生徒たち数人が立ち上がり、右手の平を振って同時に言ったのである。

「おい!おい!」

 そして返ってくる優しい返事。

「はいはい」

 その言葉を聞いた生徒たちは皆、安心したかのように再び腰を降ろした。

「ほらね!みんな知ってるでしょ?」

 凛が優しく微笑む。

「演劇の人?」

「声優さんだよ」

「声優、さん?」

 雫が首をかしげる。

「もしかして雫、声優って仕事、知らないの?」

「うん」

 そう答えた雫だったが、その心中には「声優」と言う言葉が大きく広がり始めていた。

「ボクはただ、自分にできることをしているだけだよ」

 さっき聞いたハチドリのセリフも、同時に大きく響いている。

 なぜかずっと忘れていたもの。

 自分にとって、とても大事だったものを蘇らせてくれた声。

 幼い頃に見た絵本の内容が、あたかも現実の出来事だったかのようにさえ感じさせてくれた声。

 雫が突然立ち上がる。

「私、会ってみたい!」

 そう言うと、そのまま教室を飛び出すように駆け出した。

 どんな人なんだろう?

 声優ってどんな仕事なんだろう?

 走る雫の胸中に、何か湧き上がるようなドキドキが広がっている。

「雫!ちょっと待ってよ!」

 凛も雫を追って走り出していた。

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