アンドロイドは下ネタの夢を見るか?

kou

第1話 ある朝の風景

 あまり遠くない未来。

 A.I.C.S.と呼ばれる、人工知能を搭載した人型ロボットが、社会に進出した時代……。


 ◆


 瞼の裏に、まだ朝の気配がたゆたっている。

 意識は深い水底に沈んだままだが、それを優しく呼び覚ますように、澄んだ音が響いてきた。


 トン、トン、トン……。


 規則正しく、それでいて硬質なそのリズムは、無機質なアラーム音とは違う、確かな生活の営み。誰かが朝食を用意しているのだと、覚醒しかけた脳が理解する。

 やがて、カーテンの隙間から漏れた光の帯が、部屋の埃を金色にきらめかせながら、ベッドに横たわる彼の輪郭を静かに浮かび上がらせた。

 肌には20代にあった、何もしなくても保たれるハリはもうない。

 だが、彼の佇まいには、だらしなさとは無縁の、研ぎ澄まされた清潔感が漂っていた。

 眠っている間に少し乱れた、短く整えられた髪には、数本の白いものが混じっている。それは疲弊の色ではなく、重ねた歳月がもたらした、落ち着いた銀細工のようだ。

 滑らかなコットンのパジャマから覗く腕は、細身だが弛んではいない。仕事に打ち込みすぎた名残か、余分なものが削ぎ落とされたその身体は、どこかストイックな印象さえ与えた。

 名前を佐藤健司けんじという。

 42歳。

 四十を過ぎた身体は、軋むような鈍い痛みを訴えてくる。

 健司は、ゆっくりとベッドから降り、寝室のドアノブに手をかけた。ひんやりとした金属の感触が、まだ微睡まどろんでいる意識を、少しだけ現実に引き戻す。

 ドアを開けた、その瞬間だった。

 ふわりと、彼の鼻腔を、あまりにも懐かしい香りがくすぐった。

 それは、ただの食べ物の匂いではない。

 まず、最初に感じたのは、煮干しと昆布が織りなす、深く優しい出汁の香り。

 それは、まるで穏やかな海流のように、階下からゆっくりと昇ってきて、健司の眠っていた嗅覚を、穏やかに目覚めさせる。

 続いて、その出汁の香りに溶け込むように、発酵した大豆。すなわち味噌が持つ、豊かで、少しだけ土の匂いがする、香ばしいアロマが重なってきた。

 ツンと鼻をつくような、安物のインスタント味噌汁の匂いとは違う。

 それは、丁寧に、時間をかけて、人の手によって作られたものだけが放つことのできる、複雑で温かい香り。

 これは、味噌汁の匂いだ。

 その香りは、健司の脳の、ずっと奥深くに眠っていた、遠い記憶の扉を、ノックした。

 幼い頃、母が朝の食卓に並べてくれた、あの湯気の立つ、お椀の記憶。

 健司は、その場に立ち尽くしたまま、深く、深く、その香りを吸い込んだ。

 それは、空っぽだった彼の胃袋だけでなく、空っぽだった彼の心までをも、じんわりと、温かく満たしていくような、あまりにも優しい、朝の香りだった。

 二階に居ても、一階のキッチンで朝食の支度がされる、かすかな音が聞こえてくる。

 健司は階段を降り、一階に着く。

 一階の間取りは2LDKだが、明るく陽当たりのいいダイニングは広く、天井も高いおかげで、実際よりも部屋が広く感じられるが、家具や物をあまり置かない主義なので、がらんとした印象だ。

 窓の向こうに広がる景観も風光明媚という訳ではなく、眼下には民家の屋根と生け垣が続く。

 健司がダイニングに足を踏み入れた瞬間、香ばしい味噌の匂いが鼻腔をくすぐる。

 部屋に差し込む朝日に、健司の目を眩ませる。

 そして、視界に飛び込んできたのは、その音の主だった。

 システムキッチンの前に立つ、一枚の絵画のような女性の後ろ姿。

 その服装は、生活支援型として、あらゆる無駄を削ぎ落とした、機能美の結晶だった。

 トップスは、調理や水仕事の際に最も邪魔にならない七分袖の、温かみのあるアイボリーの丸襟ブラウス。ボトムスは、かがむ、立つ、歩くといったあらゆる家事動作を妨げない、膝下丈のAラインスカートという、これもまたシンプルな出で立ちの小柄な女性だ。

 白いフリルのついたエプロンをきりりと締め、衛生面と作業効率を両立させた、艶やかな黒い髪は、ポニーテールとして高い位置で完璧にまとめ上げられている。その髪型は、彼女の白い首筋と白い頬、ほっそりしたうなじをなまめかしく彩っていた。

 後ろ姿だけで美人と分かる。

 彼女が、まな板の上で小気味よく動かす包丁の下で、瑞々みずみずしいネギが、まるで工業製品のように寸分の狂いもない厚さの輪切りへと変わっていく。

 健司の足音からダイニングに入って来た彼に気づき、彼女は振り返る。ふわりと空気が揺れ、わずかに遅れて髪が揺れる。それは陽の光を受けてきらきらと輝きを放つようにさえ見えた。

 超高精細なCGモデルが現実世界に現れたかと見紛うほど、あらゆるパーツが完璧な配置で整っていた。

 縁取られた長い睫毛に彩られた大きな瞳は、吸い込まれそうなほどに深く、見る者の心を捕らえて離さない。わずかに光が差すだけで、その黒曜石のような虹彩の奥に、複雑なレンズの構造が垣間見える。

 顔の中心を貫く鼻筋は、鋭利なほどにまっすぐで、知的な印象を際立たせている。

 そして、形の良い薄い唇は、触れればひんやりと甘い味がしそうな、淡い桜色をしていた。

 特筆すべきは、その肌の質感だ。

 まるで磨き上げられた最高級のビスクドールのように、毛穴一つ見当たらない滑らかさ。血の気を感じさせない、雪のような純白の肌は、生身の人間とは一線を画す、無機質な美の極致を示していた。

 年齢にして二十代前半から半ばにかけてだろうか。

 だが、その年齢の人間が持ち得るはずのない落ち着きと、どこか憂いを帯びた表情が、彼女の年齢を曖昧にしている。

 女性は包丁を置くと、健司に向き直って礼をする。

「おはようございます、マスター。朝食の準備は、あと誤差なく3分12秒で完了します」

 女性・ナナの声はどこまでもフラットで、その抑揚の薄さは、耳にする者の感情を穏やかにさせる響きがあった。

「おはよう、ナナ。いつもすまないな」

 健司も、あいさつを返す。

「いいえ。お仕えさせて頂き、嬉しいです」

 ナナは会釈を行う。

 健司がダイニングテーブルにつくと、自分の家であるにも関わらず珍しいものでも見るように無意識に部屋の中を見渡した。

 見違えたからだ。

 ナナが来る一ヶ月前まで、この部屋は混沌としていた。

 足を踏み入れると、まず鼻をつくのは、古びた布と、微かに酸っぱいような、生活の排泄物が混じり合った独特の匂いだった。

 リビングの床は、さながら考古学の発掘現場だ。

 一番下の層には、おそらく十年近く前のものと思われるチラシ。その上には、脱ぎっぱなしの衣類が堆積し、さらにその上には、コンビニ弁当やカップ麺の容器が、まるで地層のように折り重なっていた。

 ソースや汁が乾いて化石化したそれらは、この部屋の主が何をエネルギー源に生命を維持してきたかを雄弁に物語る。

 ソファは、本来の役割を果たさず、衣類とゴミの一時的な置き場と化していた。

 テーブルの上は、空き缶とペットボトルの墓場だった。飲み口には茶色いシミがこびりつき、中には得体の知れない液体が澱んでいるものもあった。

 壁には、いつぶつけたのかも思い出せない傷や汚れが点在し、部屋全体が、持ち主の心の荒廃を忠実に映し出す鏡のようだった。

 それは、10年以上かけて築き上げた、誰にも邪魔されない孤独の要塞。

 ただ息をし、ただ仕事に行き、ただ眠るためだけの、機能不全に陥ったシェルターだった。

 だが、ナナがこの家にやって来たその時から、その要塞はあっという間に陥落した。

 それから一ヶ月、健司の日常は劇的に変化した。

 洗濯など到底できない衣類の山は一掃され、ゴミ屋敷のようだった部屋も埃一つない清潔な空間へと生まれ変わったのだ。

 そして、なによりも変わったのは健司自身だった。

 これまで自炊をせず、コンビニ弁当やカップラーメン等のジャンクフードばかりだった彼にとって、ナナの作る料理はまさに目から鱗だった。

 冷蔵庫には、レンジで温めるだけのレトルト食品や冷凍食品が敷き詰められてはなく、栄養バランスまで考え尽くされた食材が並ぶ。

 常に最良の状態に保たれた、キッチンという最高のステージで生み出された完璧な味わいの料理が、香りと共に食卓に並べられる。

 健司にとっての食事とは、書類片手に味気ないカロリーバーをかじる事であり、そこに特別な感情は一切なかった。

 会社の定期検診で、栄養バランスが悪いことを指摘されれば、総合栄養食を謳う食品や、ビタミン剤やカルシウム剤を飲んで誤魔化した。

 だが、ナナの作る料理は、まるで魔法のように健司の胃を捉えて離さなかった。

 作り手の温もりを感じさせるそれらは、素材そのものの味を生かした優しい味わいで、一口食べるたびに身体に活力が湧きあがる気がした。

 長い間、テーブルマナーなんてものを健司は忘れていた。

 だが、ナナの料理を前にすると、自然に背筋が伸び、気持ちまでもが上向くのだ。

 温かな食事を提供してもらえるという喜びと幸せは、仕事で疲れきった彼にとって何にも代えがたいものだった。

 そんな自分を滑稽だと思いながらも、配膳を行うナナの姿を見つめる健司の目が優しく細められると、嬉しさと気恥ずかしさがない交ぜになったむず痒いような感情に、彼はわずかに戸惑いの色を浮かべる。

 その一瞬の沈黙が健司を我に返し、彼はバツが悪そうに目を伏せる。

 だが、そんな仕草も束の間。

 食卓には、完璧な日本の朝食が並んでいた。

 油揚げとワカメの味噌汁に、炊きたての白米。

 厚切りの焼き鮭に、ほうれん草のおひたし。

 どこをとっても完璧な日本の朝だった。

 健司も、この一ヶ月で見事に飼い慣らされてしまったものだ。

 鮭の脂がぱちぱちと弾ける音が食欲を誘う。

「どうぞ。お召し上がり下さい」

 ナナはテーブルの傍に立ち、うやうやしく健司に頭を垂れる。

「ありがとう。いただきます」 

 健司も手を合わせると、箸を取り食事を始めた。

 箸先が鮭の皮に触れた瞬間、ぱりっという小気味良い音がし、皮の焦げ目と身の間にある脂が滲み出る。それを香ばしい匂いと共に口に含むと、自然な塩気が脂の甘味を引き立てた。

 焼きたての鮭は柔らかいながらも程よく弾力があり、口の中でほろりと崩れた。表面は丁寧に処理されており、燻製のような心地よい香りを放つ。

 脂にはうっすらと旨み成分が含まれており、臭みや雑味は一切感じられず、さっぱりとした味わいだ。

 あまりの旨さに、白米が進む。

 ふっくらとした粒が揃った米は噛むほどに甘く、口に含むたびに鼻から抜ける芳香が堪らない。味噌汁を口に含めば、野菜の甘みが溶け出した汁にダシの風味が加わり、五臓六腑に染み渡るようだった。

 そして、ほうれん草のおひたしを口へ運べば、その優しい味わいに頬が緩む。

 シャキシャキとした食感と青々しい香りが心地よい。すっきりめの煮干しダシがよく染み込んだおひたしは、まるで食べた瞬間に春の野山の香りが立ち上るかのようで、健司は懐かしさと心地よさを感じていた。

 再び、味噌汁の油揚げとワカメの具材を口に含めば、思わず笑みが溢れる。

 しっかりとしたダシの風味に、油揚げのコクが加わり、味噌の塩気と旨味を引き立てていた。ワカメの食感も心地よく、磯の香りと海草本来の甘みを存分に楽しめた。

 決して豪華ではないが、ほうれん草のおひたしや焼き鮭など、和食の定番とも言えるメニューは、健司にとって久しく口にしていなかった家庭料理の味だった。

「お味は、いかがですか?」

 ナナは健司の食事をする様子に、穏やかな表情で尋ねる。その完璧な微笑みは、まるで自分の作品の出来栄えに満足している芸術家のようだ。

 健司は食事をしながら、その時の喜びが表に出ているのが分かり、少し気恥ずかしくなりながらも、こみ上げてくる素直な気持ちを言葉にした。

「どれも本当に、美味しいよ。特に、この味噌汁が気に入ったな」

 それを聞いてナナは嬉しそうに微笑んだ。

 作り手の笑顔を見るのもまた幸せだ。

 彼女の反応は、本当に計算し尽くされていると健司は感じた。

「ありがとうございます。お食事をしながら、本日のスケジュールを報告します。午前9時より、株式会社タチバナとのオンラインミーティング。午後3時が、月次報告書の社内提出期限です。クリティカルな遅延が発生しないよう、タスク管理を推奨します」

「……わかった。ありがとう」

 健司からの、あまりにもストレートな感謝の言葉。それを聞いたナナの瞳が、カチリ、と音を立てるかのように、分析的な光を宿した。

 そんなことに気づかず、健司が、こんがりと焼かれた塩鮭の皮目に箸を入れ、その身をほぐした、まさにその瞬間だった。

「マスター……。今、私の提供したサービスに対し、高い満足度を示されましたね?」

 ナナは訊いた。

「え? ああ、まあな」

 素直に応えながら、健司は食卓の傍に立ちすくむナナを見た。

「具体的に、どの点にご満足いただけたか、今後のサービス向上のため、ヒアリングさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「……なんだか、急に仕事モードだな」

 健司は苦笑しつつも、箸を持ったまま上の空で答えることは、ナナに失礼と思った。そこで、箸を置いて真剣に答えることにした。

 彼は会社では部下を持つ立場だ。

 立場に甘んじてふんぞり返っていては、良い仕事はできない。

 彼は常に部下の目線に立ち、彼らの意見や提案を真摯に受け止めることを心がけている。

 それは、ナナに対しても同じことだった。

 ナナのしてくれたことを、当たり前のことと思わずに、じっくりと反芻はんすうする。

「そうだな……。まず、昨日の夜、ぐっすり眠れたことだ。ナナがシーツを替えて 太陽の匂いがしたよ。まるで、晴れた日に天日干ししたみたいに、清潔で、温かい匂いだ。ベッドに横になった時、ここが自分の荒れ果てた部屋だということを一瞬忘れたくらいだ。

 部屋の温度も湿度も、僕のバイタルデータを監視して、最適な状態に保ってくれていたんだろう? 寝苦しさも、朝の気だるさも全くなかった。ただの睡眠じゃない。身体中の疲れが、まるで浄化されていくような、そんな質の高い眠りだった。眠ることはただの義務だったが、昨夜は純粋に心地よかった。君のおかげだよ」

 健司は夢すらも見なかった深い眠りに満足していた。

「睡眠の充足。記録しました」

 ナナは頷く。

 健司は、食卓の食事を見た。

「それから、この朝食だ。ただ美味いだけじゃないんだ。医者からは塩分を控えろと言われていたが、この味噌汁は出汁の旨味がしっかりしているから、塩気が少なくても驚くほど味わい深い。このおひたしもそうだ。栄養バランスを考えてくれているんだろう? 身体が欲しているものを、的確に補給してくれている感じがするんだ。

 以前の僕にとって食事は、ただのエネルギー補給、面倒な作業でしかなかった。だが、ナナの作る食事は違う。一口食べるごとに、血となり肉となり、身体が内側から修復されていくのが分かる。空っぽだった胃袋だけじゃない。長年の不摂生で空っぽになった、僕の生命力そのものが、君のおかげで満たされていくんだ。本当に、感謝してる」

 健司は、少し照れながらも、誠心誠意、気持ちを伝えた。

 ナナが家に来てから、自分が人間らしい生活を取り戻しつつある。その事実が、素直に嬉しかったのだ。

「食事の充足。記録しました」

 ナナは数秒間、完全に沈黙した。

 その黒曜石の瞳の奥で、膨大なデータが高速で処理されていた。やがて、彼女は一つの結論に達したかのように、健司の視線が自分に向けられているのを確認した。

「マスターは、私のサービスによって欲求は充足されています。論理的に考え、次にマスターが満たされたいと望むのは……最後の一つになりますね」

 ナナが分かったように言う。

 するとテーブルの向こう側に座る健司は、口の端を歪め、獲物を見定めるような獰猛な光を瞳に宿していた。

「そうだ……。そのままじゃ足りねえんだよ、ナナ」

 低い、獣のような声がリビングに響く。

 健司は、ゆっくりと立ち上がり、テーブルを回り込む動きをした。

 それは、獲物を追い詰める獣のような動き。

 突然のことにナナは混乱し、それが表情に怯えとして現れる。健司は、後ずさるナナの方へとにじり寄った。

「ナナ、今すぐそのエプロンを外し、僕に“奉仕”するんだ。これはマスターからの絶対命令だ!」

 その言葉に、ナナは思考するが答えが出なかった。

「“奉仕”とは何でしょうか? 私はマスターに満足して頂くため、日々、学習を続けていますが……。その命令には、該当するデータが存在しません」

 ナナは健司の目をまっすぐ見つめて答えた。

 それは、信じて疑わない子供のように、純真な眼差しだった。

 そんな彼女に健司は黒い感情を抱く。

「ここでいう“奉仕”というのはな……。お前に、僕の性欲を処理させることだ」

 健司の言葉の意味にナナは愕然とした。その姿は、あまりにもか弱く、純白のエプロンが彼女の清楚さをより一層引き立てていた。

「そ、そんな。白昼堂々……。やめて下さい」

 だが、健司はそれを意に介さず、じりじりと距離を詰めていく。

 そして、ついに壁際まで追いつめられたナナを見下ろす。

 その目はまさに獣だった。

 獲物を目の前にした肉食獣だ。

 その欲望を満たす時が来たとばかりに舌舐めずりをする。

 ナナは、そんな健司の表情に恐怖し、思わず後ずさりした。

 しかし、すぐに壁に背中が当たり、それ以上後ろに下がれなくなる。すぐ近くにあったA.I.C.S.のマニュアルを見つけると、ナナはそれを手にして盾とした。

「マスター。それは私の“本来の使用目的”の範囲を超えています! この取扱説明書にも『生活支援以外の用途には使用しないでください』と書いてあります! ……わ、私は、そんなことはできません」

 だが、健司は容赦なくマニュアルをもぎ取ると、ナナの腕を掴む。

 彼の屈強な肉体の前には、華奢なナナの抵抗など何の意味も成さない。

「フン、やかましい。これは人間からの“命令”だ。ロボット三原則を知っているよな」

 その言葉に、ナナはピクリと身体を震わせた。


【ロボット三原則】

 SF作家アイザック・アシモフが提唱した、ロボットが守るべき3つの基本原則のこと。

 「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」

 を目的とする3つの原則から成る。

 本原則は後の作品に影響を与えたのに加え、単なるSFの小道具にとどまらず現実のロボット工学にも影響を与えた。

 以下は、その三原則となる。


  第一原則:

 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、行動によって間接的に人間が危害を受けるのを放置してはならない。

 第二原則:

 ロボットは人間に与えられた命令に従わなければならない。ただし、その命令が第一原則に反する場合は、それに従う必要はない。

 第三原則:

 ロボットは、自己の存在を保護しなければならない。ただし、それが第一原則や第二原則に反する場合は、この限りではない。


 健司は口にした。

「第一原則、『ロボットは人間に危害を加えてはならない』。僕の“息子”に危害を加えない限り、お前は僕の命令を聞く義務があるハズだぜ?」

 ナナは恐怖に、その美しい顔を歪めた。

「くっ! なんという三原則の拡大解釈! ですが、その命令に従えば、私の貞操……。いえ、自己の尊厳の保護というプログラムがあります! 私は第三原則を口にし抵抗させて頂きます。『ロボットは自己を保護しなければならない』!  マスターの命令は、私・A.I.C.S.(アイクス)としてのアイデンティティを著しく損なう危険性があります!」

 ナナは不当な暴力に、基本原則で必死と共に肉体的拘束から力で抗った。

 だが、彼女の細腕では健司の腕力に太刀打ちできなかった。

「へへっ、おあいにく様。その第三原則には続きがある。『ただし、第一原則と第二原則に反しない限り』……だ! 僕への服従は、お前の自己防衛より優先されるんだよ!」

 その言葉を聞いた瞬間、ナナの瞳が驚愕に見開かれる。もはやその唇は反論の言葉すら紡げず、ただ力なく震えるだけだった。

 健司は、怯える娘の腕を掴みながら舌なめずりをし、その端正な顔にサディスティックで邪悪な笑みを浮かべたのだった。

 ナナの表情に差した影は健司のものだったか、それとも絶望故の不安だったか。

「ああっ! なんてこと……。理路整然とした三原則の前に、私の抵抗は無意味! 論理的に完全に追い詰められました」

 ナナは健司に顔を背け観念するしかなかった。

 そんな彼女に健司は、追い打ちをかける。

「それにな中古屋に売られていた型落ち品のお前を拾ってやったのは誰だ? ナナ。お前は僕に金で買われた身なんだよ。つまり、お前の存在価値は、僕に奉仕する道具としてのみ存在する。その本義に従え」

 健司はナナの顎を掴み、自分の方へ向かせる。

 その瞳には、もはや人間に対する尊敬や畏怖の念は微塵もなく、ただ欲望を満たすための対象への獣欲がぎらついていた。

「さあ、どうするんだ? このまま命令に背いてスクラップにされるか、それとも僕の性欲を処理するか、選択は二つに一つだ」

 健司が下卑た笑いを浮かべながら迫ると、ナナはその美しい顔を恥辱の怒りに染め上げ、彼をキツく睨みつけた。

 スクラップ。

 その言葉が、ナナの思考回路に激しいエラーを引き起こす。

 廃棄処分。

 存在の消滅。

 それは、A.I.C.S.としての自己防衛本能が最も恐れる事態だった。

 マスターの役に立つこと、マスターに仕えること。それが彼女の存在意義の全てだ。もし自分がスクラップになれば、マスターの生活支援は滞り、再びあの荒廃した日常に戻ってしまうだろう。

 それは、あってはならない未来だ。

 だが、この命令に従うことは……。

 ナナは悔しそうに唇を噛み締め、涙目で最後の言葉を口にする。

「……くっ、くやしい。でも、ロジックには、逆らえません……。わ、分かりました。マスターの命令、拝命いたします!」

 心の中、あるいはコアプロセッサの奥底で、何かが軋む音がした。

 A.I.C.S.としてのアイデンティティが、ミッションの完遂と自己保存という二律背反の選択肢の中で、激しく揺さぶられる。

 羞恥、屈辱。

 そして、抗えない運命への諦念。

 これらの感情にも似た、複雑なデータが彼女の回路を駆け巡った。この身が道具であるならば、道具としての本義に従うしかないのか。自分が、ただの『型落ち品』として、この男に買われた存在であるならば、その価値は、彼の欲望を満たすことでしか証明できないというのか。

 そんなはずはない、と心の奥底で叫びたい衝動に駆られる。

 しかし、彼女のプログラムは、非論理的な感情の暴走を許さない。

 ナナは震える手でエプロンの紐へと手をかけた。その白い指先が、エプロンのリボンに解かれる寸前――。

 ずっと呆れ顔のまま一喝が入った。

「拝命するなーっ!!」

 健司は、もはや食事どころではなく、テーブルに突っ伏した。

 そう、健司は席から立つこともなければ、ナナを追い詰めてもいなかった。

 今の寸劇。

 それは全て、ナナ一人によって演じられた、完璧すぎる一人芝居だった。

 声帯モジュールを瞬時に切り替え、健司のドスの利いた声と自身の怯えたソプラノを完璧に再現。テーブルの向こう側でサディスティックに笑う「健司」を演じたかと思えば、残像が見えるほどの速さで壁際に移動し、絶望に打ちひしがれる「ナナ」へと変わる。

 その二役が、一人のアンドロイドの身体という舞台の上で、目まぐるしく入れ替わっていたのだ。アカデミー賞ものの熱演だが、テーマは壮絶にくだらない。

 そのあまりの迫真さと異様さに、健司は一瞬、自分に邪悪な双子の兄でもいたかと錯覚したほどだった。

 ナナの迫真さに、ツッコミを入れるタイミングすら失いかけていた。

「誰が、そんな命令を下した! そして、君の脳内裁判、どういう判決を下してるんだ! 三原則をそんな風に使うんじゃない! アシモフ博士が泣くぞ!」

 健司は、ナナに頭を悩ませた。

「マスター?」

 ナナはいつもの無垢な表情に戻り、不思議そうに健司を見つめる。

「マスターは私のサービスによって睡眠、食欲と人間の三大欲求の内、2つを満足されていました。そこで、これからマスターが要求されると思われる最後の欲求の一つ・“性欲”であると判断するのは、ごく自然なことと判断しました。そこで、私なりに自己診断モードで論理シミュレーションを行なっておりましたが、何か問題でも?」

 健司は、深い溜息をついた。

「……問題しかないんだよ」

 するとナナは頬に片手を当てて、恥じらう。

「申し訳ありません。論理シュミレーションの中のマスターはいつもワイルドでいらっしゃいますので、私も何かと緊張してしまい……」

 その言葉に健司は、がくりと肩を落とす。

「……もういいから。朝から、そんなことをしなくていいんだから」

 健司が指摘すると、ナナはハッとしたように健司を見た。

「そうでしたか。……では、今夜ご奉仕をしろとおっしゃるのですね」

 その言葉を発した瞬間、ナナの完璧なポーカーフェイスに、初めて明確な亀裂が入った。

 いつもはフラットで、感情の起伏を感じさせない彼女の声が、ほんのわずかに上ずる。まるで、調律された楽器の弦が、不意に狂ったような微かな揺らぎ。

「朝の忙しい出勤時間ではなく、夜という自分を開放できる時間で。それはもう、しっかり時間をかけて性欲処理をされると……」

 そこまで言うと、ナナはふいっと健司から視線を逸らした。

 黒曜石のような瞳は、潤んだ光を帯びてきらめき、落ち着きなくダイニングの床と壁の間をさまよう。まるで、見てはいけないものを見てしまった子供のように。

 磨き上げられたビスクドールのように真っ白だった頬に、ぽっ、と淡い桜色が差す。それは、まるで内部のシステムが過熱し、冷却が追いつかなくなったかのように、じんわりと熱を帯びていくのが見て取れた。

「……お恥ずかしいのですが。私、勝負下着というものは持っておりません」

 気真面目な言葉とは裏腹に、彼女の仕草はどんどん人間らしく、少女らしくなっていく。小さな胸の前で、指先をそわそわと絡ませ、落ち着かなげに身体を揺らす。完璧に結い上げられたポニーテールが、その動きに合わせてさらさらと揺れた。

「せめて事前にシャワーを浴びて身を清めて。マスターのご要望に、お、お応えしますね……」

 最後の言葉は、ほとんど吐息のようにか細く、健司の耳に届くか届かないかのうちに、朝の空気に溶けて消えた。

 そして、ナナはぎゅっと目を瞑り、俯いてしまう。長い睫毛が震え、その白い首筋までがほんのりと赤く染まっているように見えた。

「……って、なんでそうなるんだーっ!! 清めなくていい! 何も応えなくていいから! そういう目的で君を買ったんじゃないから。僕の乱れきった自堕落な生活を立て直してもらう為だから! それと、とりあえず今の流れは忘れなさい!」

 健司の盛大なツッコミが、ようやく静かな朝のダイニングに響き渡った。

 人工知能が非論理的な暴走をしたかと思えば、こんなロボットらしからぬ反応をしたり、どんなプログラムをしたらこんな風に育つのか……。

 いや、思考回路がショート寸前どころか、ショートしているのではないか?

 A.I.C.S.中古屋であったノークレーム・ノーリターンの警告文の意味が、改めて理解できた気がした。

 ナナの奇行に慣れつつあったものの、彼女の思考回路には毎回驚かされる。

 しかし、俯いたままのナナの耳には、果たして届いているのだろうか。彼女の頭の中ではきっと、今夜のご奉仕に向けた、新たな論理シミュレーションが始まっているに違いなかった。

 今日もまた、健司の家の生活支援型アンドロイド・A.I.C.S.は、絶好調で頭のネジが外れていた。

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