荒妙の犬
結城光流
荒妙の衣
いつもこうだ。
男はため息をつく。
どうしたわけか、いろいろとおかしなことが起きて、請け負った仕事がなかなか進まない。
積んでおいた資材が崩れたり、壊れたり、怪我人が出たり。
どんなに気を付けても、まるで隙を探られて小さな穴をあけられるように、何かが起こるのだ。
いつもいつもなんなんだろうなぁと渋面で唸っていたら、半纏の裾をちょいちょいと引かれた。
年端もいかない子供だ。そのままくいっと引っ張られて、あらがわずされるままになっていると、村はずれに行きついた。
「ねぇおじちゃん、これ、直せる?」
木を組んで作られた小さな祠だった。何か大きくて重いものが落ちてきたかぶつかったか、屋根が欠け穴が開き、壁にひびが入って傾き、扉の格子戸も割れてはずれかけている。
「ん? ああ、お安い御用だ」
気軽に応じて端材を集め、祠の正面にしゃがんで手を合わせ、ぱんぱんと叩く。
「失礼しやす」
はずれかけた格子戸に手をのばした。
◇ ◇ ◇
「ほら、これはお前だろう?」
銀色ににじむ不思議な月明かりの夜、気づけば大きな池のほとりの古い屋敷のそばにいた。
池に張り出した簀子にたたずむ青年が、水面をさして目を細める。
月影に照らされた水面に、小さな祠の割れた屋根を手早く修繕する男が映っている。
年の頃は三十手前。着古して色あせた半纏に腹掛け、股引きに革足袋。
傍らに使い込んだ道具箱。
興味深げな顔で手元を覗き込んでくる子供に、危ないからちょっと離れてなと言い含めている。
「んんんんんんん?」
男は池のへりに両手をついて水面を覗き込んだ。
確かに、自分だ。
透きとおった水がゆらりと揺れて、映っていたものがゆがんで消える。
男はそろそろと青年を見上げた。
きなり色の上衣と下衣は、幼い時分に寺で見せてもらった古い絵巻物に描かれていた神がまとっていたものに似ている。
月と同じ色の光をぼんやりと放つ丈の長い衣を肩にかけた青年は、うっすら光る黒髪を背に流している。
池の周りを囲むように深い森が広がり、大きな屋敷はだいぶ古いのかあちこち壊れかけている。
森の奥から細い遠吠えが響いた。
それに応えるように、あちこちから遠吠えが生じる。
まるで声を合わせて歌っているようだなと男は思った。
「……来てもらったのは、ほかでもない」
「はい?」
突然降ってきた言葉に男は思わず眉根を寄せる。
青年は背後に視線をめぐらせた。
男がその視線を追ってくると信じている様子で、仕方なく体の向きを変える。
「あちこち傷んでいるだろう。我が家の屋根を直したように、ここも修繕してはくれまいか」
「我が家」
「いかにも」
男は半眼になった。
村の子供に頼まれて修繕したのは壊れかけた祠だ。
あれが我が家ということは。
「……」
男は半眼のまま口をきゅっと結んだ。口に出さないほうがいいことは、この世にままある。
男の様子を見た青年は満足げに目を細める。
遠吠えがする。
道具箱を抱えて恐々と辺りを見回す男に、青年は気にするなと告げた。
「あれは、ここを守るものたちだ。門が壊れてしまって動けないので、仕方なく森を駆け回っている」
「門…」
男の脳裏にあの祠が浮かぶ。
「門、は……どうなってるんです?」
「勘がいいな」
嬉しそうな青年に案内されて進むと、外側から硬いものが突きこまれたように、内側に大きくへこんだ門があった。
「うわぁ……」
「材料は、あれでいいか」
見れば、白木の木材がたくさん積んである。太い丸太から削り出したのか、大きさも厚みも申し分ないそれは、月の光を浴びてぼうっと光っていた。
また遠吠えがした。黒い影がちらっと見えて、すぐ物陰に消える。
男はふっと息を呑む。
その様子に気づいた青年が口を開く。
「あれらは見張りだ。気にしなくていい」
何を見張っているのか気になったが、確かめるのは危ういと思ってやめた。
「へぇ、そうなんですか」
男は腹をくくった。
門扉と、屋敷のあちこちの傷んだ箇所を修繕する。
おそらく、それをしないともとの場所には帰れない。
「手足となるものが必要か?」
「そうですねぇ。二、三人いてくれると助かりまさぁ」
「わかった」
青年が懐から白札を出して、何やら呟いてふっと息をかけ、放る。
すると、男の前に若者が三人現れた。
「この者の手足となって動くように」
青年に命じられた若者たちはこくりと頷き、男に向き直る。
「ええと、それじゃぁ材木を……」
人手があったおかげで門扉と屋敷の修繕は驚くほど速く終わった。
ちょっと手を入れただけなのに、屋敷全体が生まれ変わったように見える。
「ああ、これはいい」
青年は満足げに微笑むと、手をひらりと払った。
若者たちがぱっと消えて薄汚れた白札がはらりと舞い、池に落ちて溶けていく。
「さて、何か礼をせねばな」
青年が顎に手を当てて思案する。
男は道具箱を抱えて口を閉じてている。自分から何かを乞うことはしない。
「……よし。まずはこれだ」
肩にかけていた衣をふっと投げよこす。持っていた道具箱にかかった衣からは、清々しい木の香りがした。
ほのかな白銀の光を放つそれは、よく見ると織り目のあらい、
「あれらもあげよう」
青年がついと視線を向けた先に、黒い影がいくつか現れる。
男は瞬きをした
「…おおかみ?」
青年は何も言わずに笑っている。
「ええと、狼は、怖がられちまうんで……」
「案ずるな。それと、名をやろう」
いやさすがに狼を連れて帰るのはちょっと、と言いたいのを堪えて別の言葉を口にする。
「名、ですか」
青年は頷いて、男の手にある衣を一瞥する。
「荒妙」
「あらたえ」
呟いた瞬間、衣が男の手にすうっと吸い込まれるように消える。
「お前は犬を養うといい。あれらの形代となる」
一息おいて、青年は静かに付け加える。
「悪しきもの禍つものを退けて、お前の血を継ぐ者たちをずっと守るだろう」
男は瞬きをした。
自分の周りでは、いつも妙なことが起こる。父親も、兄弟たちも同じだという。
あれはやはり気のせいではなかったのか。
「なんで、俺の周りで……?」
思わず問うと、青年は首を傾けた。
「うまそうだから、かな」
「うぇっ」
うめく男に青年は楽しげに言った。
「子々孫々、荒妙の血と犬が守る。それが、我が家と門を直してくれたお前への礼だ」
◇ ◇ ◇
「おじちゃん」
呼ばれて男は目を開けた。
すっかりきれいになった祠の前で手を合わせたところだった。
新しくあつらえた格子戸の奥に、狼の描かれた木札が見える。
村の子供が彼方を指さした。
「あの犬、ずっとおじちゃんを見てるよ。おじちゃんの犬?」
やせた白い犬がじっと見つめてくる。
白い毛並みがほんの少し白銀に光ったように見えた。
「……まぁ、そうだな。きっとあれは、俺んちの犬だ」
道具箱を持って立ち上がる男のもとに、あの荒妙の衣と同じ色の毛並みの犬が、ゆっくりと近付いてきた。
荒妙の犬 結城光流 @yukimitsuru
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