私だけのお客さん
あまねりこ
私だけのお客さん
朝5時、私の耳元でアラームが鳴った。
「うぅ……」
手探りでアラームを止めると、また静けさが戻ってくる。
今日も、いつもの朝だった。
タオルと洗顔クリームを手に取り、私はぬるま湯を顔に当てた。何度か水をつけるうちに、水はどんどん温かくなっていく。それと同時に、眠気も徐々に引いていくのがわかった。
化粧水と、奮発して買った少し高めの美容液に、乳液で肌を整える。私はメイクよりも保湿をする時間の方がなんとなく好きだ。
ふと、鏡の中の自分と目が合った。寝不足気味の目元が、なんだか寂しそうに見えた。
時刻は5時半を過ぎていた。私は慌ててメイクを始める。あっという間に一時間が過ぎ、Tシャツにジーンズ、パーカーを羽織り、私は家を飛び出した。駅にはすでにスーツ姿の大人たちが、何人も列を作って並んでいた。その列に混ざるように、私も電車に乗り込む。
こうして私は毎週土曜日の朝、電車に揺られながらバイト先へと向かうのだ。
「おはようございます」
「おはよう」
バイト先に着くと、主婦の山本さんが開店準備を始めようとしているところだった。バイト用の制服に着替え、私も急いで準備に取りかかる。
8時になり、店の開店時間が訪れた。ゆるやかな朝の光が店内に差し込んでいる。
私は、この時間が好きだった。コーヒーの香りと、まだ静かな空気。一日の始まりを、ほんのり甘く感じさせてくれる。
すると、ドアの鈴が鳴った。私は顔を上げる。
「いらっしゃいま――」
言葉が止まった。止まってしまった。
「…………ユイ?」
「おはよう」
何も変わらない笑顔で私の前に立っている。
でもそこには、いるはずのない人だ……。
「……なんで?」
「会いたくなったから」
ユイはいつものように笑った。まるで、昨日も会っていたかのように。
「カフェラテください」
ユイの声は確かに届いているのに、何かが少しズレているようだった。
暖かかった店内の空気が、少し冷えた気がした。
「……はい。サイズは?」
マニュアル通りの言葉が、喉の奥からゆっくりと出てくる。それでも私の手は震えていた。
「ありがと」
「こちらこそ……来てくれて、ありがとう」
ユイは、にっこりと笑ってカップを受け取る。
その指が一瞬、私の手に触れたような気がした。
でもすぐに、すっと消えた--。
「またね」
「……うん、またね」
ドアの鈴が、静かに鳴った。
ユイの背中が、光の中に溶けていく。
「お客さん、来たの?」
山本さんが奥から顔を覗かせる。
「はい……私だけのお客さんでした」
カウンターの上に残るカフェラテ。
そこにいたのは、たしかにユイだった。ユイは私の――元カノだ。
二年前、事故で突然いなくなった人。
それでも私の中では、いつも「昨日別れたばかり」みたいに生きていた。
ユイは、私だけのお客さん。
私にしか見えない、私だけの大切なお客さん。
あの朝に残されたままの、愛しの亡霊。
でも時間は止まらない。
そんな中、カフェラテだけが小さな温かさを残していた。
私だけのお客さん あまねりこ @amane_riko54
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます