第15話風邪
三月の始め、俺は風邪をひいて、自宅のベッドでじっと横になっていた。
朝、体が異常に重く感じて熱を測ると、体温計は三十九度を示していた。
その瞬間、やっと自分の体調の異常に気付いた。風邪をひいたのは久しぶりで、正直二十五歳にもなってこんな状態になるとは思いもしなかった。
すぐに会社へ連絡すると、部長からは「こっちはどうにかするから、体を大事に。復活したら出社して」と言われた。
さらに有給も溜まっているので使えと確認したところ、八日あるから二日くらい休めと教えてくれた。平日に休みができるのは嬉しいが、体がこんなにだるいと安堵よりもため息が出る。
柚葉さんに連絡しようか迷ったが、心配させたくないという思いが勝ち、結局連絡はしなかった。
病院に行くとインフルエンザと診断され、むしろ連絡しなくて良かったと胸をなでおろす。
薬局で薬をもらい、コンビニでゼリーやおにぎり、必要なものを買い揃えて家に戻った。昼はゼリーとおにぎりを口に運び、薬を飲んで再び眠りについた。
次に目を覚ましたのは、インターホンの音でだった。
体のだるさは少し薄れたが、まだ完全ではない。
重い体を引きずって玄関まで行くと、外には柚葉さんが立っていた。
「ちょっと大丈夫、輝!!」
「大丈夫です」
「見るからに大丈夫じゃないから、ほらベッド行くよ」
そう言われ、ふらふらになりながらもベッドに横たわる。
「なんで何も連絡しないのよ」
「心配かけると思って」
「当たり前でしょ。心配しないわけないでしょ」
柚葉さんの目が、少し潤んでいるのを俺は見逃さなかった。
「馬鹿ね。一日連絡つかなくて余計に心配したよ。で、風邪?」
「はい」
「じゃあ熱測って」
「はい」
枕元の体温計で測ると、三十八度まで下がっていた。
「ちょっと下がってる」
「三十九度から三十八度です」
「そう、よかった。今から買い物行って来るから、何が欲しい?」
「甘いもの食べたいです」
「分かった」
そう言って、柚葉さんは俺の部屋を出て行った。
久しぶりに風邪をひいた感覚に、学生の頃の記憶が蘇る。
小学生の頃、母は眠るまでずっと手を握っていてくれたっけ。高校生までは看病してくれた母の姿が思い浮かぶ。
その安心感を思い出しながら、再び眠りについた。
次に目を覚ますと、一時間ほど経っていた。
右手の温かさに気付き、そちらを見ると柚葉さんが手を握ったまま寝ている。
おでこには冷えピタが貼られており、薬の効果もあって体はだいぶ楽になっていた。
「柚葉さ〜ん」
気持ちよさそうに寝ている姿を見て悪いと思いながら体を揺する。
「あ、起きた?」
「はい」
視線を下げると握られていた手をそっと離してくれる。
「ごめん」
「いえ」
少し気まずい空気が漂うが、柚葉さんはすぐに口を開いた。
「ご飯作ったけど、食べられる?」
「はい、だいぶ楽になったし食欲も出てきました」
「そう、お粥作ったしフルーツも買って来たから、食べられるなら食べて」
俺は両手を合わせ、「いただきます」と言いながらお粥を口に運ぶ。
「食べさせなくていい?」と、にやにやしながら言う柚葉さんに、俺は笑いながら答える。
「このくらい、自分でできます」
「そう、さっきは随分とうなされてたから」
「そうなんですか?」
「うん、悪い夢でも見てたんじゃない?」
「覚えてないです」
手を握ってくれた理由を察し、言葉にはしなかった。
「風邪ひいたの、大学生の時以来でしたよ」
「そう、私は小学校の時だけだったわ」
「そうなんですか?」
「うん、親も共働きで、迷惑かけられないって思ってたからなるべく風邪ひかないようにしてた」
「良い子だったんですね」
「親にとってはね。でも子供の頃は寂しかったよ」
「そうですよね」
「まあ、風邪引いた時は誰だって心が弱くなるからね」
その夜、傍に人がいてくれる心強さを改めて実感する。
「じゃあ、着替えとか色々持ってくるね」
「はい?」
「今日は泊まるから」
「え、悪いですか?」
「いや、風邪移るかもしれないから、今日は帰ってください」
「なに、私がいると都合が悪いとか?」
「そうじゃなくて」
「なになに、エロ本でも届くのかい?」
「そんなにじゃないですよ、もし風邪移ったら明日会社行けないでしょ?」
「大丈夫よ、私が風邪ひくのは小学生の時以来だって言ったでしょ?」
「でも……」
「いいから」
柚葉さんはそのまま荷物を持って戻ってきてしまい、最終的には同じベッドで寝ることになった。
小言を言い合いながらも、結局俺が勝てるはずもなく、同じベッドで夜を過ごす。
そして次の日、俺は全開で動けたが、当然のように風邪は柚葉さんに移っていったのだった
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