第7話下の名前
あれから数日が経ち、俺と喜多川さんはリビングで歌番組を見ていた。
「いや~、正月休みって最高ね」
「そうですね」
俺は冷蔵庫から冷えた生ビールを取り出し、手元で少し光る缶を喜多川さんに差し出した。
「いや、今日は飲まない」
その言葉に一瞬手が止まる。
「え?」
「今日はこのまま起きて初詣に行くから」
いつもは帰宅したらお酒を飲んで眠るのに、そんな彼女が飲まないなんて――少し驚きとともに、思わず額に手を当ててしまった。
「なに?」
「いえ、熱でもあるのかと」
「ちょっと失礼すぎない?」
「いえいえ、異常ですから。今から病院に行きますか?」
「今日はやってないでしょ!!」
少し笑いながらも、彼女の真剣な表情に内心ほっとする自分がいた。
「これからベランダで初日の出を見て、それから初詣に行くんだから」
「なるほど」
「そこで甘酒飲んだりするから、今は我慢」
「結局飲むんじゃないですか」
「甘酒は子供でも飲めるからセーフ」
暴論だが、それまで我慢する彼女はなんだか偉いとも思えた。
「そろそろ結果出るよ」
目の前のテレビでは、赤組と白組が最終決戦を繰り広げている。年の最後を象徴する、特別な音楽番組だ。
「どっちが勝つかな?」
「今年は白組が豊作だから、白組が勝つんじゃないかな」
結果発表――白組がわずかに多くの票を獲得して勝利した瞬間、喜多川さんが小さくガッツポーズをした。
「やったー」
「普通逆じゃないですか?」
「何が?」
「白組って男でしょ」
「それは関係ないよ。私が決めたことだから」
彼女は変なところで気が強く、でも俺はいつもその強さに従ってしまう日常が心地よかった。
カウントダウンが始まる。
三、二、一――年が明けた瞬間、隣を見ると喜多川さんが小さくジャンプしていた。
「何してるんですか?」
「いやー、毎年年越しの時にジャンプしてるんだよ」
「子供か」
二人で笑い合った。今までなら笑い合うこともなかった、些細な瞬間の幸せが胸に染みる。
ベランダで初日の出を待つ時間、冷たい空気が頬を刺す。
「寒いね~」
「そうですね、初日の出を見るなんて初めてです」
「今まで見てこなかったの?」
「余裕がなかったので」
「そっか、じゃあ今年は良いことがありそうだね」
「なんでですか?」
「余裕が出てきたってこと」
「なんですかそれ」
「まあ、良いじゃない。良いことがあるって思いながら生活したほうが楽しいでしょ?」
「まあ、そうですけど」
彼女は煙草を吸いながら、白い肌をもこもこの部屋着で包み、吐く息が白く空気に溶けていく。段々と明るくなっていく空に、二人で静かに見入った。
「綺麗ですね」
「そうでしょ、だから見た方が良いの」
「はい」
初日の出を見終え、家を出る準備を始める。
「とりあえずスマホと財布を持って行けば大丈夫でしょ」
「そうですね、じゃあ行きますか」
「うん」
神社までの道のりはほんの十分ほど。
「やっぱりベランダより寒いわ」
「ですね」
喜多川さんの手が赤く染まっているのを見て、自然と自分の片手を伸ばす。
手を繋ぎ、彼女を自分のコートのポケットにそっと入れる。
「意外」
「何がですか?」
「輝が彼氏らしいことするの」
「彼氏ですから」
「顔真っ赤だよ」
「寒いんですよ」
少しだけ恥ずかしかったが、喜多川さんも顔を赤くしているのを見て、なんだか嬉しくなる。
神社に着くとお賽銭を投げ、手を合わせて神様に自己紹介をしてお願い事をする。
列を外れ、振り返って二人の顔を見る。
「長かったね、何お願いしたの?」
「まあ、色々」
「いっぱいお願い事したら叶わないよ~」
「そうなんですか?」
「うん」
「結構頼んじゃいましたよ」
「欲張りだね~」
「そう言う喜多川さんはなんてお願いしたんですか?」
「教えな~い」
「良いじゃないですか、一つくらい」
「じゃあ、神様にお願いしたことじゃなくて、輝に一つお願いしようかな」
「関係ないじゃないですか」
「いいじゃん、おめでたい日なんだから」
「じゃあ一つだけ」
「私のこと、下の名前で呼んで」
目を見開いたまま固まる俺。
「え?」
「駄目なの?知らないとか言わないよね?」
「柚葉」
「はい」
名前を呼んだだけで、二人の空気が一気に柔らかくなる。
「なんか違和感」
「名前呼んだだけでしょ。それに敬語もなしにしたいんだけど」
「一つだけですよ」
「分かってるって。それより甘酒もらいに行こ」
「はい」
初詣を終え、片手には甘酒、もう一つの手は二人で繋いで。
暖かくて、静かで、でも確かな幸せを胸に抱きながら歩く。
こういう時間が、これからもずっと続けばいいのに――そう思った。
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