第35話
三太君と姉さんを乗せた救急車が行ってしまったあと、荷物をまとめて車に積んでいるときに、自分たちに何かできることはないか、と遠巻きに見ていた若者たちがやって来て、声をかけてくれた。ありがとう、でももう大丈夫だから。ぼくが言うと、彼らはほっとした様子で戻って行った。その気遣いを、ぼくはとても嬉しいと思った。
そのあとでビールの酔いを醒ますために、ペットボトル入りのジュースを二本飲んでから、シャワーを浴びた。体を拭いているときに、そうだと思い出して、三太君のニューヨークヤンキースのキャップを捜したけれど、残念ながら、どこにも見つけることはできなかった。
一時間ほどして、もう運転できなくもないと思ったけれど、ちゃんとお酒が抜ける時間だけ、休んでゆくことにした。ぼくは優衣の一件以来、飲酒運転だけは絶対に回避しようと、自分のアルコール処理能力を把握するようになっていた。さっき飲んだ量を鑑みると、あと二時間休んでいけば間違いはない。
二頭の鯨のような雲は、今では二枚の翼のような形状に変わっていた。
透明な波が、規則正しく寄せては返っていた。
トビラ島ではなく、アポロチョコレートのような砂山もまだしっかりと立っている。
揺らめいて見える水平線に沿うようにして、南下してゆく船の姿が、小さく見えた。
さっき聞こえたような気がした、優衣の声のことを考えながら砂浜に腰を下ろし、それらの風景をぼんやりとぼくは眺めている。
海から吹いてきた風がそっと頬をなでた。
両手を枕にすると、砂の上に仰向けになった。
そうして寝転んでいると、ついさっき起こった出来事が、なんだかすべて、嘘だったように思えた。それどころか東京での暮らしも、仕事も、何もかもが、遠い幻のように思えてくる。どこへ行ってもいいんだ、とぼくは思った。今すぐにでも死ねるんだ。決して悲しみに囚われた衝動からではなく、ごくごくシンプルにそう思った。おれは自由なんだ、と。
ふいに、生まれたばかりの優衣と、麻凪の顔が目の前に浮かんで消えた。
誰か女性の、くすりと笑う声が聞こえた気もした。
それは優衣や麻凪の声にも、南子姉さんの声にも、みよこ伯母さんや、二人の女神のような、もしくは時の支配者のそれのようにも聞こえる、不思議な声だった。
その声の主に想いをめぐらせながら、いつしかぼくは、束の間の眠りへと落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます