第27話

 ※


「ほら三太、竺じいが来たよー」

 台所で料理をしていた姉さんがそう言うと、縁側に立って外を眺めていた、ベースボールシャツに半ズボンといういでたちの、三太君がぼくを振り返った。てんなちゃんの姿はどこにも見えなかった。

 おす、とぼくは声をかけた。けれど三太君は何も答えないまま、ちらりとこっちを見ただけだった。どうやらまだしゃべれるようにはなっていないようだ。ということは、やっぱり昨日のことは、夢だったのだろうか? いろいろと確かめてみたいことはあったけれど、そこはかとない無力感によって、行動に移すことができそうにない。おかずの皿を持ってこっちへやって来た姉さんに、仕事って? と訊ねるのだけがやっとだった。

「庭に出て、『あいつ』捕まえてくれない?」

「あいつ?」

 とことこと三太君がやって来て、ぼくのシャツの裾を掴んでゆらゆらと揺らした。振り向いて見下ろすと、口元に力を入れた顔でこっちをじっと見上げている。

「庭に、何かいるの?」

 三太君は深々と頷いた。よく見ると肩に黄緑色の小さな虫かごをぶら下げている。

「もしかして、虫?」

 また三太君が深々と頷いた。

「竺、あんたその手のもん大丈夫よね?」

「まあ、大丈夫かな」

 今ならたとえどんなに気味の悪い生き物でも、きっと手掴みできるに違いない。ぼくには恐怖というものが、なんだかもうよくわからなくなっていた。

 ぼくは三太君から虫かごを受け取ると肩に掛け、縁側の石段に置いてあった色褪せたつっかけを履いて庭に降りた。

 あらかじめ木の前に立ててあった脚立を上って見てみると、幹の裂け目からじっとりと染み出している金色の樹液を、数種類の昆虫が取り囲んで吸っていた。蛾とカナブンとクワガタだった。そしてその周りを数匹の蟻が忙しげに歩き回っている。蛾とカナブンは見慣れた種類のものだったけれど、よく見ると、クワガタは背中に縦線の入っている、見たことのない種類のものだった。蛍光ペンの筆先のような四角い舌を突き出して、懸命に樹液を吸っている。一瞬どれを捕まえればいいのかわからなくなってしまったけれど、すぐにそんな自分を鼻で笑いつつ、クワガタの背中へと指先を伸ばす──とそのとき、樹液の中に閉じ込められた、一匹の小さな羽虫の姿が目に留まった。なんと言う名の虫かはわからなかったけど、それは一見蚊のようでいて、確実に蚊とは種類の異なる羽虫だった。全体は黒っぽい灰色で、小さな身体に対して翅の割合が普通よりもいくらか長く、それでいて全ての羽虫の公約数的な、なんとなく古い時代に生息しているような羽虫だった。そしてそれはほぼ完璧な姿のままで、翅をほんの少しだけ広げた状態のまま逆さまになって、金色の樹液の中にしっかりと閉じ込められていた。遥か遠い異国の地で詠まれた一遍の詩というイメージが意識の片隅を過って消えた。ぼくはクワガタを手に持っていることを忘れたままに、その羽虫の姿にしばらくの間見入っていた。

「捕まえた?」

 いつの間にか庭に出てきていた姉さんの声でふと我に返って下を見ると、三太君が心配そうな顔つきでこっちを見上げていた。ぼくはクワガタをかごに入れ、しっかりと蓋を閉めた。「大丈夫、今、降りるから」

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