第15話
※
それからのわたしたちは、暗くなる頃にはベッドに入り、早めに眠ってしまうようになりました。電気が止まったからというのもそうですが、母親が不在のために、夜が心細かったということが、やはり一番に大きかったのだと思います。初めのうちは、蝋燭を灯すなどして、ラジオを聴きながら夜を過ごしていたのですが、自然とそのようなサイクルへ変化してゆきました。ただ、そうなってもラジオだけは、日がな一日、眠っているときにも、つけっぱなしにしていました。母親から預かったというお金を使い、度々兄が乾電池を買ってきてくれたおかげで、電池に困るようなことは、一度もありませんでした。
わたしたちは、それまでと同じように、下の段のベッドを使い、二人で一緒に眠りました。兄は一人で眠りたかったようですが、わたしが絶対に嫌だと言い張り、駄々をこねたのです。寂しかったこともあるのですが、母親が帰ってきたときに、自分の眠る場所がないことを理由に悲しみ、そのまま二度と帰って来ないような気がしたために、上の段を、いつでも空けておきたかったからです。そしてそのとき、母親が帰ってきた音にいち早く気づくために、就寝中のラジオのボリュームは、いつも最小限度にまで絞っていました。いっそ消してしまえばいいのですが、これもわたしが駄々をこねて、決して許しませんでした。ラジオを長い間消していると、その間に、何かとても大事なものが、ついえてしまいそうな、得体の知れない、恐怖感を抱いていたのです。わたしにとって、当時のラジオ放送は、世界と自分を繋ぐ、緒のようなものだったと思います。兄は電池がもったいないとよくぼやいていましたが、それでも電池を交換するとき以外、スイッチを切ろうとしたことは、一度もありませんでした。結局は兄も、わたしと同じ気持ちだったのだと思います。そうしてその頃のわたしたちは、小さな音量でラジオ放送を聴きながら、毎晩日が落ちる頃には、眠りに就くようになっていたのでした。
不思議なことに、当時のわたしは、眠りたいだけ眠れるようになっていました。就寝が早いにもかかわらず、今まで通り、朝は遅くまで眠っていることができるのです。わたしほどではないですが、兄もまた、同じようなことを言っていました。今思うと、そのときのわたしたちは、一種の精神病にかかっていたのかもしれません。気になって一度、図書館で調べてみたですが、強い不安やストレスを感じたことにより、睡眠過多になってしまう精神病が、実際にあるらしいということです。そしてそれは、大人子供に関係なくかかる病気だということでした。病気と言うと、どうしても悪いイメージを抱いてしまいますが、たとえそうだったとしても、その頃のわたしたちにとっては、救いとなる症状でした。ときには悪夢にうなされることもありますが、眠っていれば、余計なことを考えずに済むからです。本当に病気だったのかどうかはもうわからないことですが、その頃のわたしたちは、幸か不幸か、眠りたいだけ眠れるようになっていたのです。そんな昏々と眠り続ける生活が、しばらくの間続きました。
そして約一ヵ月後、わたしたちは、養護施設へ送られることになりました。
当たり前の話なのですが、幼い子供だけの生活が、長く続くわけなどがありません。その上兄は、母親が置いていったお金で買ってきたという食料品や乾電池などのすべてを、スーパーやコンビニで、万引きをしてまかなっていたからです。その事実を鑑みると、むしろそんな生活が、約一ヶ月もの間、よく持ったものだと思います。当然そうなるべくして、ある日兄は、店員に捕まってしまい、そしてそのことがきっかけとなり、わたしたちは、警官と児童相談所の職員に保護されて、養護施設へ送られることになったのでした。
そのときの様子を多少ですが、今も憶えています。テレビの前の楕円形のスペースで、いつものようにラジオ放送を聴くともなく聴きながら、絵本を読んでいるときでした。ほどなく下校してきた兄の、アパートの廊下を歩く音が聞こえてきました。しかしどういうわけか、足音が一つではありません。ですがそのうちの一つは、確実に兄のものでした。そのときのわたしは、廊下を歩く足音で、誰が誰なのか、ほぼわかるようになっていましたし、兄のそれだけは、完全に聞き分けられるようになっていたので、間違いはありません。そうなると、もう一人の心当たりは、母親しかありません。わたしは狂喜しながら玄関まで走って行くと、いたずら心に任せるままに、兄が開ける直前にドアを開けました。しかし兄の隣りにいたのは、母親ではありませんでした。そこに立っていたのは、制服姿の、若い女性の警官でした。わたしはわけがわからずに、どういうことかを訊ねるように兄へと視線を移しました。兄はうつむいたまま、目を合わそうとしませんでした。わたしは、警官を見上げました。警官は何か苦いものでも噛んでいるような表情で、ゴミだらけの部屋を、じっと見ていました。かと思うと──実際にその通りだったのでしょう──たった今気が付いたような顔で足元のわたしを見下ろし、慌てたように膝を折って身をかがめ、わたしの頭上に、遠慮がちに手を置きながら、ぎこちなく微笑んで言ったのです。「もう大丈夫だからね」と。それから立ち上がり、背を向けて無線機らしきもので、誰かと話を始めました。わたしは警官の青い後ろ姿を眺めながら、一体何が大丈夫なんだろうと首を捻りました。
けれどももちろん、そのときのわたしは、兄が万引きをしていたことも、その女性が警官だったことも知りません。わたしがいろいろなことを認識するようになるのは、もっとずっとあとになってからのことです。そのときのわたしは、一体何が起こっているのか、まったくわからないままに、やがてやって来た二名の児童相談所の職員に、兄と共に施設まで連れてゆかれ、まったくわけがわからないままに、そこでの生活を始めました。わたしが家から出たのは、憶えている限り、そのときが初めてでした。そしてそれからのわたしは、ちょうど母胎より生まれ出た新生児がそうするように、ことある毎に、大声で泣き喚いていたのです。
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