第1話

 東京から奄美あまんに船で来た人なんて初めてやっが。ファミリーレストランのメニューを手に取りながら、そう言ってみよこ伯母さんはにっかりと笑った。ぼくはなんと答えればいいのかわからずに、はにかみながらアロハシャツの袖でこめかみの汗をぐっと拭った。

「どんぐらいかかったと?」

「確か、三十七時間です」

「ずいぶん揺れたんじゃなかけ?」

「今も揺れてます」

 真面目にそう答えると、伯母さんはつっとぼくを見て、今度はげはげはと笑い始めた。おいおいちょっと笑いすぎだろうと思いながらも、ぼくはまたはにかんでグラスの水を一口飲んだ。


 ぼくは生まれてからそれまでの三十年間、乗り物酔いはまったくしない体質だと思い込んでいたのだけど、船に乗っていたその二日間で、そうじゃないことを初めて知った。一日目の夜中から始まった予想以上に激しい揺れで、吐きこそしなかったものの、ひどい吐き気とめまいに悩まされ、そしてそれは船を降りてからも、しばらくの間治らなかった。


 愉しげにメニューをめくりながら伯母さんが訊ねる。「何頼むね?」

「じゃあ、アイスティーで」

「食べもんは」

「大丈夫です」

「おごるど?」

「ありがとうございます。でもまだ、ちょっと揺れてるみたいなんで……」

 あーそっかそっか。にかっと丈夫そうな歯を見せながらそう言うと、伯母さんはコールボタンを押さずにわざわざ手と声を上げて店員を呼び、コカ・コーラと白玉ぜんざいと、アイスティーを注文した。


 みよこ伯母さんは、いかにも南国に住んでますというような、色黒で、カラカラとよく笑う、背の低くて恰幅のいい、頬被りにした手拭いと着物がトレードマークの、一見豪快に見えるけど、実はやっぱり豪快な、七十代の未亡人だ。ぼくはその年の九月下旬の、あの数日間のことを思い出す度に、いつもまず初めに船の揺れと、伯母さんの笑顔とを思い出す。


「にしてもびっくいしたが。まさかこげんとこで、こげな時間にあんたと会うなんち」

 腕時計を盗み見ると、時刻はちょうど午前八時を回ったところだった。

「まとまった休みが取れたので、たまにはちょっと旅行でもしてみようかなと思いまして」

 伯母さんは目をぱちくりさせた。「一人でけ?」

 ぼくは水を一口飲んだ。「……いえ。今日これから、麻凪あさなを空港まで迎えに行くことになってるんです」

 言いながら、一体なぜそんなややこしいことになっているのか? などと詳しい理由を訊かれたら嫌だなあと思ったけれど、案の定遠慮なく伯母さんは訊ねてきた。

「へ? なんで一緒に来んかったと?」

「……一度どうしても、船旅がしてみたくて」

「麻凪さんはね」

「あいつは、船が苦手なもので……」

 船が苦手って、あんたこそじゃっがね! そう言ってまたげはげはと笑うおばさんだった。内心思わずむっとしてしまったけれど、伯母さんがあんまりおかしそうに笑うものだから、自分のことながら、つられて少しだけぼくも笑ってしまった。

 ひぃー、と言って笑いを締めくくったあとに、とこっでどんくらいね、こっちにおっとは、と伯母さんが言った。

「奄美は、四日間です」

「奄美は?」

「そのあと、沖縄に行く予定になってるんです」

 おきなわかあ、と天井を見上げながら、ほうけたように伯母さんは言った。「よかねえ」

「行ったことおありですか?」

「いっどだけな。与論島やっが」

「あ、でもいいじゃないですか」

 正確に言うと与論島は、ここ奄美大島と同じく鹿児島県だったけれど、それについては黙っておくことにした。

 あいや、と目と口を大きく開けながら伯母さんが言った。「そう言えば、かんびは元気け? ここんとこ、全然連絡取っちょらんたっけどよ」


 完備というのは、鹿児島県の本島で、中規模の神社を運営している伯母さんの弟で、ぼくの実の父親だ。


「ちょっとわからないですね。実はぼくも、ずっと連絡取ってないんで」

「まったくけ?」

「はい、ここ二年くらい」

「んーだもこら」

 とそこで若いウェイトレスがやって来て、お待たせしました、とつっけんどんに言いながら、トレイのグラスに手をかけた。伯母さんは背筋をしゃんと伸ばすと、両手をフルに使って、どっちがどっちの飲み物かを熱心に教え始めた。まだ軽い船酔いを感じながら、ぼくは黙ってその様子を眺めていた。見ようによってはそれは、熱血漢のコーチとやる気のない教え子に見えなくもない。無事に飲み物を置けたウェイトレスがやっぱりつっけんどんにその場を去ると、伯母さんはストローで一気に半分以上もコーラを飲んで、ぼくはいただきますと言ってから、ストローを使わずにストレートのままアイスティーを一口飲んだ。

 でふっ、と大きめのげっぷを一つしたあとで、予想外にも伯母さんはぽっと顔を赤らめながら、手の甲で口元を覆い隠した。

「もし時間があんなら、麻凪さんと店に食べに来んね。ごちそうすっで」

「いえ、あ、はい。ぜひお伺いします」

「場所は憶えちょっけ?」

「憶えてます。実は明日、麻凪と顔を出そうと思ってたんです」

 とっさに思い付いた嘘だったけれど、言わないよりはいいような気がしてそうぼくは言った。伯母さんは音がしそうなくらいににやりと笑ってみせただけで、一言も応えてはくれなかった。ぼくはその手のものはまったく信じてはいないのだけど、「姉弟きょうだいの中で一番霊感が強いのはみよ姉、嘘が通じひん」といういつかの父完備の言葉をふっと思い出しながら、目を伏せてまたアイスティーを一口飲んだ。


 そのときみよこ伯母さんは、奄美大島で鶏飯けいはん店を経営して生計を立てていた。その旅行を終え、十月の頭に東京へ戻ったのちに、ハガキを一枚と、その後の正月に年賀状を一枚やり取りしただけで、それ以降一度も連絡を取ってはいないのだけど、多分今でもやっていると思う。その店は一日に限定三十食しか作らない、知る人ぞ知る、名瀬市の外れにある、約十坪の小さな鶏飯店だ。

 鶏飯というのは、白いご飯の上に、茹でて細かく刻んだ鶏肉と、錦糸玉子、椎茸、たくあん、わけぎ、のり、島みかんの皮、パパイヤの漬物などの具を載せて、鶏ガラでだしをとった熱いつゆをたっぷりとかけて食べる、奄美大島の代表的な郷土料理だ。観光客に一番人気があって、もちろんうまい。伯母さんの店の鶏飯は、普通のものよりもだし汁がこってりとしていて、ご飯も玄米を少しだけ混ぜたものを、半分わざと焦がしているのが特徴なのだけれど、個人的にはその鶏飯が、他のどの店のものよりも一番うまいと思っている。

 ちなみになぜ一日限定三十食なのかというと、別にもったいぶっているわけではなくて、伯母さんはその年の六年前に、旦那さんに癌で先立たれてから、まったくの一人で店を切り盛りしているために、一日それくらいの数が限界だということだった。それに鶏飯だけじゃなく、日替わりの定食も毎日一つ出しているのだ。


 携帯の着信音が鳴った。それはルイアームストロングのホワット・ア・ワンダフル・ワールドの着メロだったから、一瞬自分のかと思ったけれど、どうやら伯母さんのもののようだった。ぼくの着メロはスティービーワンダーのステイ・ゴールドだったことを思い出した。ちょっごめんな。そうぼくに断ってから、伯母さんは電話に出て話し始めた。伯母さんのピンクゴールドのスマホには、ハローキティのストラップが付けられていた。黒豚の着ぐるみを着ているものと、ネットメロンを被って空き箱に入っている、鹿児島県と北海道それぞれの、ご当地キティちゃんだった。


 伯母さんが電話に出ている間、ぼくは飲み物をすすったり、腕をかいたり、改めて見た伯母さんの、ほとんど女子高生のようなアイテムセンスにぎょっとしながら時間をつぶした。さっきと同じつっけんどんなウェイトレスがやって来て、やっぱりどこまでもつっけんどんな動作で白玉ぜんざいと伝票を置いて行った。

「偶然ちゅうもんは重なるもんじゃ」

 スマホを手さげにしまいながら伯母さんが言った。

「はい?」

 電話やっが、とおかしそうに伯母さんは応える。「あんたの父ちゃんからやったが」

「完備ですか?」

「代わりたかったけ?」

「いえ、特には」

 でも一体なんだったんだろう? またぼくの心を見抜いたように伯母さんが言った。「歌の題名が思い出せんから、教えてくれんけやっちよ」

「え、たったそれだけのことで電話してきたんですか? こんな早くに?」

 くつくつと笑って伯母さんが頷く。「一年ぶりよ」

「ったく、どうしようもないですね……」

 いかにも呆れたように言ってみせたものの、過去にまったく同じ行動を取ったことがあったから、なんだか後ろめたい気分になってしまったぼくだった。


 けれど父完備からの突拍子もない電話のおかげで、そのときに抱えていた緊張がほぐれてくれたのは事実だった。ぼくはそのあとの伯母さんとの時間を、意外にもリラックスして過ごすことができた。船酔いもいつの間にかよくなっていた。席を立って会計を済ませたあとで、明日必ず店に寄ることを約束してから、みよこ伯母さんとぼくはファミリーレストランの前で左右に別れた。


 別れ際、ひょっと思い出してぼくは伯母さんに訊ねた。

「そう言えば、親父が知りたがってた曲名ってなんだったんですか?」

「人生いろいろ」と伯母さんは言った。

「ったく」とぼくは言った。

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