やまこと帖〜山を登り始めたおっさんと、山に集う人たちの話〜

柿木次郎

【第一話】運送屋のおっさん、山へ行く

柿木次郎──東濃で生まれ育った、運送屋のおっさんや。

名付け親は絶対にウケを狙ったとしか思えん。

柿の品種に「次郎柿」てのがある。静岡生まれで、現在は愛知の豊橋が一番の産地。岐阜出身の自分……どうせなら、岐阜生まれの柿の代表種「富有柿」とか、高級干し柿の「蜂屋柿」にするべきやったんやないか?


──ま、名前なんかはどうでもええ。

元々、自然は好きや。人付き合いが苦手っちゅうこともあって、休日は田園や川沿いをママチャリでブラブラしとる。ヤバイおっさん?──自覚はないでもないけどな。ウチでゴロゴロしとるよりは、健康的な休日の過ごし方やと思っとる。


そんな自分がでかいザック背負って、山に登ることになるなんて、つい最近まで想像もしとらんかった。そもそも、山登りなんて縁もゆかりもなかった自分が、こんなことになったキッカケは──ある日の、上司からの軽い頼みからやった。


南木曽の運送会社で、毎日、松本や名古屋にスポーツ用品なんかの荷物を運んどる。

ある日、取引先の大手ショップが主催の「初心者登山ツアー」に、付き合いとして「会社の代表で参加してくれんか」と頼まれた。「代表」っちゅう響きはええけど、どうやら休日ヒマそうな自分が、貧乏くじ引かされたらしい。なんとも失礼な話や。自分にも、休日にはちゃんと予定が──いつも通り、ブラブラしてるだけか。

ツアーの参加者はみんな初心者で、軽いハイキング程度とのこと。会社から手当も出るみたいやし、まあ、バイトと思えばええか。


山登りに興味があったかって?──全然なかった。山登りなんてのは、リタイアした人が健康のためにやるもんやと思っとった。若い人がやるには、ちょっと泥臭くて地味すぎるやろ……と、完全に偏見まみれやった。

──とはいえ、実際に「山登り」てのがどんなもんか、まったくわからん。とりあえず、事前に様子くらい見とこか。次の休み、近場の里山に登ってみることにした。


すっかり太陽が高くなった昼前の登山道。ザックを下ろして、ひと息つく。

汚れてもええ作業服に、履き慣れた作業靴。背中には古びたナップサック。ペットボトルの水と菓子パンを突っ込んで、いざ出発──したのはええけど、登山口から十分も経たずに、すでに後悔しとった。

「……想像以上にキツいやないか」

自分にそうつぶやき、靴紐を締め直す。

息はすぐ上がるし、作業服はおっさん汁……汗でビチャビチャや。太腿がプルプル、膝もギシギシ。ナメとった──これはシャレにならん。

これを年配の人の趣味やと思っとった自分が、ちょっと恥ずかしなった。逆に、これをやる年配の人らって……すごすぎへんか?


体力的に限界が近くなった頃、小さなベンチを見つけて腰を下ろした。

チビチビと水を飲みながら、息を整える。少しすると、噴き出していた汗が落ち着いてきた。

周囲は木で囲まれ、町の喧騒はまったく聞こえん。聞こえるのは風の音、鳥の声、近くの沢の音だけ。上を見上げると、揺れる木の葉の間から、木漏れ日が降り注いでくる。

この町と完全に隔離された静かな世界──

「ええな……」

自分でも驚くくらい自然に、そんな言葉が漏れた。


結局、そこで引き返した。情けないけど、とにかくバテた。全身つゆだくや。登山口に着く頃には、もう産まれたての子鹿状態やった。

でも、なんやろな──今まで経験したことのない世界──これやったら、また来てもええかもしれん、なんて思ってしもた。


さて、来週はいよいよ本番の登山ツアー。どうやら参加者の中では、自分が一番若いらしい。年配の人たちに置いていかれんように……せめて恥をかかんように、ちゃんと気合い入れやんと。

その流れで、取引先の紹介を頼りに、装備をいくつかレンタルでそろえることになった。


この時点ではまだ、登山ってやつが──どえらい奥深い世界やなんて、まったく知らんかった。

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