第三章 3



 真葛は藤木の部屋から職場に通った。仕事の帰りには、藤木と待ち合わせして一緒に帰宅した。どうしても自宅に戻って必要なものが要る場合は、藤木と共に行った。

 不便で、ストレスの溜まる生活だった。

 警察はなにも言ってこない。

「藤木君」

 真葛はある日、彼に言った。

「私、引っ越ししようと思う。いつまでもここにいさせてもらうわけにはいかないし」

「そうか。そうだな」

 二人で不動産屋の掲示を見たり、実際に部屋を見に行ったりした。

 だが、今住んでいる部屋と比べると、どうしても見劣りしてしまう。なかなかいい部屋には巡り合えなかった。

「そういえば明日、会社の健康診断なの。女性はオプションで女性特有の病気とかも検診してもらえるんだって」

「そういうの、オプションなのか」

「うん、うちの会社は親切だからただだけど、有料のとこもあるんだよ。女性はそういうの、自分でケアしていかなくちゃいけないの」

「大変なんだな」

 男性である自分には、見えていない世界だ。今回のことといい、女という生き物はいったいどれだけ不自由を強いられて生きているのだろうとふと疑問に思った。

 その日の晩、いつものように駅の改札で待ち合わせをしていると、真葛はうかない顔をしてやってきた。

「よう、おかえり」

「……」

「どうした。暗い顔して」

「今日、健康診断だったでしょ」

「ああ、そうだな」

「子宮頸がんの検査をしている時に、エコーをやったの。そしたらね」

「うん」

「左の卵巣が、腫れてるって」

「――え?」

「腫瘍かもしれないって」

「――」

「詳しいことは、MRIで再検査してくださいって」

「それ、いつ行くんだ」

「来週の木曜日、予約してきた」

「そうか。早い方がいいからな」

 部屋に着いて食事をしていても、真葛はどこか気もそぞろといった感じで、鬱々としていた。大丈夫かな。藤木は傍で見ていて不安になった。

 翌週真葛は大学病院に行って検査に行き、その次の週に結果を受け取ってきた。

 結果は、卵巣腫瘍ということだった。

「だから、休職して入院しなくちゃいけないの。手術するから」

 真葛は精一杯明るくいようと努めているようである。

「その間メラちゃんとイオのお世話、お願いしてもいい?」

「お前は、だいじょぶなのか」

「へーきへーき」

 忙しく鞄に荷物を詰める真葛の手を止めて、藤木はその肩を掴んだ。

「本当か」

 じっと目を見る。

「……」

「ほんとのこと言え」

 そう言うと、真葛の瞳からぶわっと涙が溢れた。

「だ、だいじょぶ、じゃ、ない」

 そして彼女は、藤木の胸で泣き出した。

「そうか。そうだよな」

 真葛が泣いている間、藤木は黙ってその背中を抱いていた。なんと言ってやればいいか、わからない。

 しばらくして真葛がようやく泣き止むと、

「落ち着いたか」

「うん」

「ほら鼻水拭け」

「うう」

「まずは、お前の身体が大事だ。それから、家探し。一つずつ、片づけていこう」

 千葉の実家から、両親が心配してやってきた。

「卵巣の腫瘍だなんて、大丈夫なの?」

 母はしきりに心配した。

「摘出なんてして、子供が産めなくなったらどうするの」

 その言い方に、むっとした。

「なによ、じゃあ摘出しないで、私がどうなってもいいっていうわけ」

「そんなことは言ってないわよ。ただね、卵巣が片方ないだなんてお見合い相手に知られたら、なにを言われるかわかったもんじゃないわ。五体満足じゃないと、お嫁の貰い手がないのよ」

「ばっかじゃないの。卵巣は五体のうちに入らないわよ。そんなんで結婚できないなら、いっそ結婚なんかしない方がましだわよ」

「まあまあ、卵巣が片方ないからと言って、妊娠が困難だというわけじゃないんだ。そう目くじらを立てるものじゃない」

 父が間に入って、なんとか仲裁してその場は収まった。父が医者でよかった、真葛は胸をなでおろす。母と一緒になって父まで同じようなことを言うようだったら、ただでさえ体調が悪いのに益々具合が悪くなっただろう。

 執刀医と両親を交えて話をすることになって、色々と質問をされた。

「今どきは腹腔鏡下手術ですが、順番待ちでして、しばしお待ちいただくことになっています。ピルは服用されていますかな」

「はい。しています」

 と言うと、隣で母が息を飲んだ。

「では、すぐに服用を中止してください。血栓ができる恐れがありますので、時間を置いて手術する必要があります。それまで手術はできません」

 父が質問した。

「どれくらいの間ですかな」

「ピルですので、一か月は空けませんと」

「その間に、病気が進行するようなことは」

「お若いので、その可能性はあるかと思われます」

 ですが一か月のことなのでそう深刻にとらえることはないと言い含められ、診察室を出た。母は腹立たしそうに言った。

「ビルだなんて。いつからそんな淫らなことをするようになったの」

 真葛はきっと目を吊り上げて、母に怒鳴り返した。

「ピルのなにがいけないのよ。生理痛がひどくて飲んでるだけよ。ピルが避妊用だなんて思ってるのは、理解が足りない一部の馬鹿だけよ」

「そうだよお母さん。今どきそんなことを言う女性がいるだなんて驚きだ。もうちょっと勉強しないと、時代に置いていかれるよ」

「だってあなた」

 真葛は言い合う両親を置いて、足早にそこを立ち去った。同じ空気を吸いたくなかった。

 手術をしないのになら、入院はもっと後ということになる。だが休職しているので、仕事はしなくていい。それが救いだった。

 こんな時に仕事など、とてもしていられるものではない。

 頭のなかがぐちゃぐちゃで、なにも考えられなかった。

 藤木の家に戻って部屋のなかをうろうろとしていると、意味もなく涙が出てきた。

 なんで。なんでこんな目に遭わなくちゃいけないの。なんで。

 メラが足元にすり寄ってきて、にゃう、と鳴いた。

 ひとしきり泣いてしまうと落ち着いて、すっきりした。あ、そうだ。涙拭くタオル要るな。どこにあるかな。あ、あっちの家だ。

 真葛はちょっと考えた。三時だ。もうすぐ夕方である。三時半には自分の家に着くだろう。真葛につきまとう人物は夜にしか行動していないと警察は言っていた。

 だいじょぶでしょ。

 そう思って、出かけていった。

 家に到着したのは、三時十五分だった。

 真冬のことだから、部屋が凍るように寒かった。久しぶりになかに入って、色々と入り用なものを持って鞄に詰めた。

 そして、表に出た。

 冬だから、もう薄暗い。両手に息を吹きかけながら歩いていると、いきなり後ろから誰かに羽交い絞めにされた。

 混乱して暴れると今度は押し倒してきたので、なんとかして逃げようと這いつくばった。

 そこで、指の先にごみ置き場のネットが触れて、そこにネットを留めておくための大きな石が置いてあることに気づいた。

 両足を押さえられて、動けない。

 真葛は力を振り絞って、その石を握りしめた。そして振り返って、その石を振り下ろした。

 にぶい音がして、誰かが呻く声がした。そして、気がつくと自分の足元に男が倒れていた。

 真葛は息をぜいぜいといわせながら、携帯を取り出して警察を呼んだ。

 男とは別々に近くの警察署に連れて行かれて、女性の警察官が話を聞いてくれた。そこで、その女性警察官は人目を憚るように扉の方を振り向くと、そっと声を忍ばせて言った。

「いい、強姦されそうになったから抵抗したなんて言っちゃだめよ。あなたの罪が重くなるだけだから。お金を取られると思った、殺されると思ったからって言うのよ。いいわね」

 不思議そうにそのひとのことを見ていると、扉が開いて男性の警察官が入ってきた。

「落ち着かれましたかな。あの男は以前からあなたのことをつけまわしていたそうですが、今日のことについては合意があったと言っています。あなたの方から誘ってきたと。本当ですかな」

「違います」

 真葛は身を乗り出した」

「強か……」

 こほ、と、後ろで小さくあの女性警察官が咳き込んだ。

「……強盗されそうになって。殺されるかと思って、怖くて抵抗しました」

「わかりました。ストーカー行為のこともありますし、あなたの証言の方が信憑性があるとされるでしょう。誰か、身内の方が来られていますかな」

「そういえば、彼氏さんが見えていますよ」

 後ろから、女性警察官が声をかけた。

「では、帰っていいですよ」

 部屋を出て受付に行くと、藤木がやきもきしながら待っていた。

「藤木君」

「立原」

 藤木は真葛の側まで駆け寄ると、

「だいじょぶか。怪我ないか」

「うん。平気。ちょっとこすっただけ」

「そうか。じゃあ帰ろう」

 と真葛の手を取ってタクシー乗り場まで歩き出した。

 家に着くと、彼は真葛に風呂に入るよう勧めた。

「手冷たいぞ。まずはあったまって、落ち着けよ。そしたら、少しはほっとするだろ」

 真葛は家から持ってきた入浴剤を入れて、たっぷり三十分近くも入浴していた。

 自分につきまとっていた男が捕まった、それだけでも心が休まった。

 風呂から上がって髪を乾かすと、確かにほっとした。

「手術の予定、いつになるって?」

「順番、やっと空いたの。三週間後、二月の七日だって」

「ピルで手術が遅れるとは思ってもみなかったな」

「飲み始める時から、言われてたの。血栓ができる恐れがありますから、そのことを留意して服用してくださいって。でもあなたは若いから、その心配はまずないでしょうって」

「手術が終わったら、引っ越しだな」

 真葛は藤木を見上げた。

「え?」

「あの男に住んでるとこ知られてるし、危ないだろ」

「でも、捕まったし」

「どうせ執行猶予で出てくるよ。そしたら、またやる」

「……」

 今の部屋、好きだったのに。私、悪くないのに。

 唇を噛む。

「大丈夫だよ」

 藤木は真葛の肩に手を回した。

「きっと大丈夫」


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