第一章 3

梅雨になった。

 雨が降っている間は、花壇の水やりにいかなくていいことになった。しかし、温室の花木に肥料をやらなくてはならないので結局手間は同じだ。

「あんたたち、最近付き合ってんの」

 朋美に言われて、真葛はちょっと照れた顔になった。

「え、うん。まあね」

「ふうん」

 じろじろと見つめられて、恥ずかしくなって慌てて食べる手を早めた。

「ま、いいんじゃないの。幸せそうだし」

「うん。楽しい」

「真葛ちゃーん、今日俺ん家来る?」

 話していると、安東が後ろからやってきた。

「行ってもいいけど、泊まれないよ。メラいるし」

「そんなつれないこと言わないでよー」

「だーめ」

「ちぇー」

「授業終わったらここで待ってて」

「オッケー」

 安東の背中を見送って、朋美は真葛を振り返った。

「うまくいってんじゃん」

「そうだね。彼ん家行って、私がごはん作って、一緒にゲームして、アニメ観て、帰るっていうのがいつものパターンかな」

「それだけ?」

「そうだけど」

「どっか行ったり、しないの」

「まだそういうことはしてない」

「初めはいいかもしれないけどさあ、続かないよ、それだと」

 朋美は肘をついて、なにかを言いたげである。

「今のとこ大丈夫」

「あっそう」

 あちらのテーブルで、藤木と青田が食事をしている。相変わらず、話しているのは青田だけのようである。藤木君みたいのと一緒にいて、なにが楽しいんだろ。なんもしゃべんないし。笑わないし。

「あ、鐘鳴った」

「行こ」

 真葛はトレイを持って立ち上がり、朋美と共に食堂を後にした。

 その時には、藤木のことなどもう頭のなかにはなかった。

 毎週末、真葛は安東の家で時間を過ごした。

 昼過ぎに彼の家へ行き、買ってきた食事を食べる。そこで、安東は真葛を抱く。疲れ果てて眠ったあと、夕方になって夕飯を作る。夜になって真葛は帰る。

 そんな繰り返しだった。

 三か月もすると、一緒にどこか行きたいと思うようになった。たまには映画とか、買い物とか行きたい。おうちデート以外のこと、したい。

「ねえ」

「んー」

 昼食を食べながら、真葛は横でゲームをする彼に言った。

「来週、映画行かない」

「映画ー?」

「うん。観たいのがあるの。一緒に行こうよ。この前のアニメの、別の主人公のやつ」

「俺はいいや」

「なんで? きっと面白いよ」

「いいよいいよ」

 画面から目を離さずに、安東は言う。失敗か。

「それよりさあ」

 携帯を置いて、彼は真葛の服を脱がしてきた。真葛はため息をついた。

「もっといいことしようよ」

「もー」

 そうして抱き合って、疲れて、眠ってしまう。

 なんの疑問も、抱かなかった。

 最初に違和感を感じたのは、なにがきっかけだったか。

「ねえ、もっとかわいい服着なよ」

 安東はある日そんなことを言った。

「え?」

「もっとかわいいの、着てよ」

 服を着ようとしていた真葛は振り返った。

「なにそれ」

「俺、そういう服好きじゃない」

「だからなに?」

「彼女っていうのは彼氏の言うことを聞くもんだよ」

 そんなの、聞いたことない。

 絶句していると、安東はさらに言った。

「髪もさあ、茶色くして、アイドルみたいに肩まで切ってさあ」

 真葛の髪は、腰まである。それを、流行りのなんとか坂系の芸能人みたいに肩までの長さにして茶色く染めろと言っているのだ。

「やだよそんなの。ひとによって似合う似合わないってあるんだよそういうの」

「えーそうかなあ。絶対似合うと思うけど」

「死んでもいや」

 腹が立って、その日はそれで帰った。安東は謝りもせずに、いつものように『今日も来てくれてありがとう。大好きだよ』とハートの絵文字つきのメッセージを送ってきた。

 次の週大学で顔を合わせると、彼はなにもなかったかのように笑顔で言った。

「土曜日、うち来る?」

 それでなんとなくごまかされた気になって、真葛はうん、と言ってしまう。その週は安東はもうなにも言わなかった。

「真葛ちゃん家、行きたい」

「いいけど、うち猫いるよ」

「いいね猫。メラちゃんでしょ」

 あまりにも安東の家に行きっぱなしなので、今度は安東が訪ねてくることになった。真葛の家は駅から歩いて五分で、コンビニも側にある。それを見て、

「お、いいなあ。こんなの、俺の田舎にはなかったからなあ」

「学校の帰りとか、寄らなかった? おなか空いたりして、なんか食べたりしなかったの」

「いや、自転車で片道一時間とかだったから。そんなのないない」

 よほどの田舎だったのだろう。

 真葛の住む部屋に着くや、安東は歓声を上げてなかに入り、ベッドに飛び込んでいった。

「でけーベッド。広い」

 十畳のリビングに、六畳の台所。脱衣所のない浴室に、洗面所。確かに、あの六畳一間のアパートからすれば広いだろう。

「ごはんなに食べたい? 買い出し行ってくる」

 安東が食べたいものを聞いて、駅前のスーパーまで行った。帰宅すると、安東はメラと向かい合って遊んでいた。

「いいでござるよーメラ次郎」

 食卓の支度をして食事を作っている間も、彼はずっとメラと遊んでいたようである。

 こたつに並んで座って、食べ始めた時のことだ。

 彼が器を持たずに、皿に口をつけて食べることに気がついた。犬食いだ。

「――」

 それに、音を立てて食べる。ずずずず、味噌汁をすする音が響く。

「ちょっと」

「え?」

「お皿、持って食べて」

「なんで」

「行儀悪いから。持って」

「いやいいじゃん別に」

「よくない。ちゃんと持って。ほら」

 と、持たせても、次の時にはもう皿を置いてそれに口をつける。ずずずず。音が響く。

 耐えられなかった。

「お皿持ってってば」

「だって、熱いじゃん。持てないよ」

「じゃあほら、ここに紙ナプキンあるでしょ。これあげるから、これで持てば熱くないから、これで持ってよ」

「いいじゃんそんなのどうでも」

「よくないって言ってるでしょ」

 彼の家ではテーブルがないから、畳の上に皿を置いていた。だから、そんなことには気がつかなかった。

 盲点だった。

「俺、今日ここに泊まってくね」

 真葛は不機嫌なまま、それにはなにもこたえずに皿を洗った。安東はそれに気づかずに、いつものように彼女を抱いた。

 日曜になったら家に帰るかと思ったら、月曜日の授業は三時間目からなので月曜日までいると言われて、真葛はげんなりした。

 ここは私の家だ。あなたにはあなたの家がある。いくら居心地がいいからといって、いつまでも長居しないで。

 その一言が言えなかった。

「たまにはさあ、ピンクとか着てよ」

 安東は言った。

「ピンク着るとさあ、かわいいと思うんだ」

「ピンクねえ……」

 真葛は正直、好きな色ではない。嫌いではないが、好んで着る色でもない。自分はもっと寒色系の、緑とか青の方が好きだ。それを言うと、

「そういうのはさあ、差し色とかだよ」

 という言葉が返ってくる。何様のつもり? と言いたくなる。そこで、箪笥をひっくり返して一枚しかないピンクののシャツに、ピンクのスカートを着て安東の家に行った。

「ほら、ピンクだよ」

 お望みの色だから、喜んでくれるだろう――と思いきや、彼の反応はいまいちだった。

「ああ、まあ、まあ」

 なんで? なんでなんにも言ってくれないの? あなたが着てほしいって言った色を着たのに、なんでなにも言わないの? 

 帰り道、彼が真葛を駅まで送る道の途中でいちご狩りのポスターが貼られていた。

「あ、いちご狩りだって」

 真葛は立ち止まってそれに見入った。

「行かない? これ。いちご、食べに」

「うん、まあ」

 言葉を濁して、安東は歩き出してしまった。その背中を見て、真葛はもう、とため息をついた。またはぐらかされた。

 家に着いた頃に、『今日も来てくれてありがとう。大好きだよ』とハートの絵文字つきのメッセージが来た。

 なにもほんとにいちご狩りに行きたいわけじゃない。私はあなたとどこかに行きたいのよ。それがその辺のデパートだっていいの。デートがしたいの。

 梅雨が明けて、夏休みになった。

 部室に行くと、小野が言った。

「一年生は帰省があるだろうから、花壇の水やりは俺がやっておく。心置きなく帰るように」

「きゃーっ部長さすがです。頼りにしてます」

 真葛はメラを連れて、実家に帰った。実家には猫が二匹いる。知らない場所の知らない猫に怯えて、真葛の部屋のクローゼットに入ったきり、出てこなかった。

「メラちゃん、出てこない? おやつあるよ」

 真葛は辛抱強くクローゼットの外から呼びかけ続けたが、黒猫が出てくることはなかった。彼女は扉を開けっ放しにして、部屋に水とえさとトイレを置いておいた。メラは時々表に出てきて、えさを食べているようだった。

 トイレを使った形跡がないので不思議に思っていたら、実家の猫たちと同じ階下にあるトイレを使っているところを、真葛は偶然見てしまった。そこで二階のトイレは思い切って撤去して、一階のトイレを使ってもらうことにした。

「うーんごはん作んなくていいっていいなー実家さいこー」

「ちゃんと自炊してるの?」

「してるしてる。買うと高いから」

「あなたにいい話があるのよ」

「いい話って?」

「これよ」

 寝転がる真葛に、母は封筒から写真を取り出した。一人の男性が、そこに写っていた。

「お見合いの、お相手よ」

「――」

 言葉を失くしていると、母はなおも言った。

「お相手はあなたが大学を卒業してからの結婚でもいいっておっしゃってくれてるの。いい話なのよ」

「お母さん」

 真葛は言った。

「私、彼氏がいるのよ」

「結婚するわけじゃないんでしょう。それとこれとは別よ。ね、会うだけでいいのよ」

「……」

 怒りで二の句が継げなかった。

 どんなに逆らいたくとも、自分は学生である。親に学費を出してもらっている以上は、行かないわけにはいかない。

 胃に穴が開くのではないかと思うくらい嫌な思いを噛み殺して、真葛は見合いの当日に臨んだ。

 相手は、二十五歳の弁護士だという。へえ、二十五歳ね。もうすぐ十九歳になる大学生とお見合いすることに、なんの疑問も沸かないんかい。ロリコンか。

 しかし相手は弁護士なだけあってなかなかの話上手で、真葛は機嫌が悪いのも忘れて彼と話した。そのうち、今度動物園に行きましょう、という話題になり、

「お昼、どうしましょうね」

 と真葛が言うと、相手は、

「そうですね……真葛さんのお弁当が食べたいなあ」

 と言った。

 は? と言い返しそうになり、それで一気に熱が冷めた。動物園に行く気はなくなり、その相手ともそれきりになった。

「どうだったの?」

 母にその日の具合を聞かれたが、真葛は首を振ってこたえただけだった。

 その晩、朋美にメッセージして愚痴った。

 『親に見合いさせられた。最悪。その相手、真葛さんのお弁当が食べたいなんて言うの』

 『ふつうにキモい。彼氏でもないのに手作りの弁当なんて作るかよ』

 それで思い出した。安東になんて言おうかな。言ったら、怒るかな。でも、黙ってたらなんか嘘つくみたいでやだな。

「……」

 ちょっと考えて、こうメッセージした。

 『親に無理矢理お見合いさせられたけど、断った。お義理だったから』

 しばらくして返事がきた。

 『おつかれー。ま、余裕ってかんじ?』

 それだけ? もっと他に、言うことないの?

 ため息をついて、横になる。もうなにも考えたくない。

 クローゼットから物音がして、メラが出てきた。

「あら、出てきたの。おやつあるよ」

 起き上がって近寄ると、黒猫は足元にすり寄ってきた。

 ああ、それにしても今年の夏は暑いな。屋上の花壇、どうなったかな。部長に任せっきりで申し訳ないな。

 疲れがどっと押し寄せて、眠気が襲ってきた。だめだ。寝よう。

 ベッドに横になって、電気を消した。


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