第20話 巨影の咆哮
森の奥から、地鳴りのような足音が近づいてきた。
ズシン……ズシン……ズシン……。
一歩ごとに大地が震え、地割れが走る。鳥たちが一斉に飛び立ち、動物たちが逃げ惑う。自然界のすべてが、その存在を恐れている。そして、ついに姿を現した。
――牛頭鬼。
伝説にしか出てこないはずの、上級妖異。高さ十五メートルはあろうかという巨体。牛の頭を持ち、血管が浮き出るほどに筋肉が盛り上がった両腕で、大木をそのまま削り出したような巨大な棍棒を振り回す。
赤い眼が二つ、俺たちを見下ろしている。虫けらを眺めるような、いや、塵を見るような視線。その瞳には、知性の光が宿っていた。ただの獣じゃない。俺たちを殺す方法を、楽しみながら考えている。小等部が相手にする規模を遥かに超えていた。これは、高等部でも手こずるレベルだ。いや、下手すれば教師陣でも苦戦する。
「な……何だよ、あんなの!」
隼人が顔を真っ青にして叫ぶ。声が完全に震えている。如月家の誇りも、この化け物の前では意味をなさない。
「化け物じゃないか……人間が勝てる相手じゃない……」
沙耶が絶望的な声で呟く。札を持つ手が激しく震え、カタカタと音を立てている。涙が頬を伝い始めた。死の恐怖が、彼女を押し潰そうとしている。
「下がれ! お前たちの任務範囲じゃない! すぐに撤退しろ!」
後方の皆月先生が血相を変えて叫んだ。先生の顔には、今まで見たことのない恐怖が浮かんでいる。だが、その声は牛頭鬼の咆哮によってかき消された。
グオオオオォォォォォォォ!
音というより、破壊そのもの。振り下ろされた棍棒の風圧だけで、前衛の結界が紙のように粉砕される。ガラスが砕けるような音と共に、防御術式が崩壊した。
「嘘でしょ……一撃で……」
美琴が呆然とする。いつもの元気な彼女が、完全に戦意を失っている。狐式神の紅葉も恐怖で震え、主人の足元に隠れて小さくなっていた。次の瞬間、隼人が盾ごと弾き飛ばされた。まるで人形のように宙を舞い、大木に激突する。
ガシャン!
骨が折れる嫌な音が響き、血が口から噴き出した。
「がはっ!」
「隼人!」
沙耶が駆け寄ろうとするが、牛頭鬼の次の一撃が迫る。棍棒が空を切り、死の風が吹き荒れる。沙耶が震えながらも支援幕を展開する。緑の光が広がるが、巨体の圧力にすぐさま亀裂が走る。まるで薄いガラスのように、パキパキと音を立てて崩れていく。
「だめ……持たない! みんな逃げて!」
彼女の絶叫が森に響く。でも、逃げ場なんてない。背後は切り立った崖、左右は深い森。そして正面には、死そのものが立っている。美琴が震える声で叫ぶ。
「燃えろぉっ! 全部燃やしてやる!」
今までで最大級の狐火が解放される。オレンジ色の炎が渦を巻き、千度を超える熱波が牛頭鬼を包む。森が一瞬、地獄のように赤く染まった。だが――
牛頭鬼の皮膚は黒曜石のように硬化していた。炎が弾かれ、まるで水をかけたように消えていく。焦げ跡一つ残らない。
「効かない……? 嘘でしょ……」
美琴の顔から、血の気が引いていく。天音が歯を食いしばり、全霊力を込めて雷槍を放つ。
「氷炎術・極大雷神槍!」
白い稲妻が一直線に飛び、轟音と共に牛頭鬼の胸を直撃する。だが、光が弾かれ、傷一つ付けられない。まるで、鋼鉄の壁に豆粒を投げつけたような無力感。
「物理も術式も、全部無効化されてる……こんなの、どうやって倒せって言うの……」
天音の声に、初めて絶望が混じった。
(このままじゃ……全滅だ! 何か方法があるはず。必ず、どこかに突破口が)
頭の中で、必死にコードを走らせる。エラー、エラー、エラー。解決策が見つからない。でも、諦めるわけにはいかない。みんなを守ると決めたんだ。
***
俺は震える手で札を広げ、牛頭鬼の術式を必死に観察した。すると、黒い文様のような回路が体中を巡っているのが見えた。その中に、同じ文字列が繰り返し走っている。まるで、プログラムのループ処理のように。
【ダメージ検知→自己修復→強化値増加→無敵状態維持】
「……自己修復ループ?」
外傷を自動で直す式が、無限に回り続けている。しかも、修復するたびに強化される仕組み。完璧な防御システムだ。だが、完璧であるがゆえに、逆に脆い部分もあるはず。
(バグを仕込んで、内側から崩壊させる。でも、失敗すれば逆に暴走する。賭けだ。でも、やるしかない)
俺は札を何枚も並べ、震える手でペンを走らせる。仲間たちの動きを計算に入れながら、最適なタイミングを探る。
「美琴、天音!」
俺が叫ぶ。二人が振り返る。
「俺の合図で攻撃を重ねてくれ! 一点集中、左胸の黒い紋様! あそこが修復式の中核だ!」
二人が短く頷く。絶望的な状況でも、俺を信じてくれている。その信頼が、胸を熱くする。
「隼人、沙耶! 援護を頼む!」
「……分かった」
隼人が血を吐きながらも立ち上がる。折れた肋骨が肺を圧迫しているはずなのに、それでも戦おうとしている。
「はい! 私、頑張ります!」
沙耶も涙を拭いて、覚悟を決めた顔で札を構える。
牛頭鬼が再び棍棒を振り上げる。大気が裂ける音がした。次の一撃で、確実に誰かが死ぬ。俺は札を地面に叩きつけ、全霊力を込めて式を書き換えた。鼻血が出る。視界が赤く染まる。でも、手を止めない。
【修復判定→崩壊変換→強化処理→弱体化反転→無限ループ逆回転】
青い光が牛頭鬼を包み、修復式が逆転する。自分を治そうとして、逆に自分を壊し始める。巨体の表面に亀裂が走る。パキパキと音を立てて、黒曜石の肌に無数のヒビが入っていく。
「今だ!」
美琴が全力で狐火を解放する。
「紅葉、全力で! 私たちの想い、全部ぶつけるよ!」
炎が裂け目から内部に侵入し、体内で爆発的に燃え広がる。天音の雷槍が核を貫いた。ピンポイントで、修復式の中心を撃ち抜く。
「これで終わりよ。消えなさい」
隼人が残った力を振り絞って結界を張る。
「みんな、伏せろ! 爆発するぞ!」
沙耶が防御膜を何重にも重ねる。
「守ります! 絶対に、みんなを守ります!」
「尚、トドメを!」
美琴が叫ぶ。俺は最後の札を取り出し、震える手で最後の命令を刻む。残った霊力を、命を削るほどに注ぎ込む。
「――常識なんて、全部ぶっ壊してやる!」
【存在確認→弱点暴露→完全消滅→システムクラッシュ→常識破壊→勝利確定】
光の文字が爆ぜ、牛頭鬼の体内で暴走が連鎖する。修復しようとして崩壊し、強化しようとして弱体化する。無限ループの自己矛盾。プログラムが、自分自身を食い潰していく。
グオオオォォォ……!
断末魔の叫びが、森全体を震わせる。巨体が内側から崩壊し始め、黒い光の粒子となって散っていく。まるで、悪夢が覚めるように、巨大な影は跡形もなく消えた。轟音と共に牛頭鬼は崩れ落ち、黒い靄となって霧散していく。
俺は結界塔のログを見ていた。端にだけ現れる位相の欠け——Ωタグ。これは癖だ。人の。
***
静寂が戻る。耳鳴りがする中、遠くから鳥のさえずりが聞こえてきた。生命が、恐る恐る戻ってくる音。俺たちは、生き延びた。
俺は糸が切れたように膝をついた。もう立てない。霊力が完全に枯渇し、意識が遠のきそうになる。でも、みんなの顔を見なきゃ。みんなが、無事かどうか。
「……やった……のか?」
沙耶が涙をぼろぼろ流しながら呟く。信じられないという顔で、消えた牛頭鬼がいた場所を見つめている。
「やった……みんなでやったんだ!」
美琴が安堵と歓喜の入り混じった声を上げる。紅葉も嬉しそうに尻尾を振った。隼人は血を滲ませた口元を拭い、苦笑いを浮かべた。でも、その目には確かな敬意と友情が宿っていた。
「……借りは返す。お前は、本物の指揮官だ。いや――」
彼は俺の目をまっすぐ見て、はっきりと言った。
「俺たちのリーダーだ」
美琴と天音が俺に駆け寄る。美琴は涙目で、天音も珍しく感情を表に出していた。
「尚、本当にすごかった! 牛頭鬼を倒すなんて!」
「……完敗ね。あなたの指揮がなければ、全滅していた」
(俺は――仲間と並んで戦えた。みんなの力があったから、勝てた。一人じゃ、絶対に無理だった)
通信が入る。白銀透華の声だった。
「見事よ、長谷部尚」
その声には、確かな感動が込められていた。
「小等部で牛頭鬼を倒すなんて、学園創立以来初めてのことよ。前代未聞、いえ、伝説ね」
「会長……」
「でも、油断しないで。これは始まりにすぎない」
そして、少し声のトーンを落として、でも温かく続ける。
「それにしても、常識なんて全部ぶっ壊すなんて――」
透華の声に、微かな笑いと誇りが混じる。
「私の期待以上ね。さすが、私の弟候補」
また顔が熱くなる。でも、今度は恥ずかしさより、嬉しさの方が大きかった。認められた。本当の意味で。
(これは始まりにすぎない。次は……もっと大きな波が来る。でも、大丈夫だ)
仲間たちを見渡す。みんな傷だらけで、泥と血にまみれている。でも、その顔には確かな笑顔があった。そして、絆で結ばれている。派閥を超えた、本当の仲間。
美琴が俺の肩を優しく叩く。
「尚、本当にお疲れ様! みんなを守ってくれて、ありがとう」
天音も静かに微笑む。氷の女王の仮面の下に、温かい心があることを知った。
「……あなたと戦えて、光栄だったわ」
沙耶が涙を拭いながら、満面の笑みを浮かべる。
「私、役に立てました? みんなの力になれました?」
「当たり前だ」
俺が答える。
「沙耶の支援がなかったら、とっくに全滅してた。君は最高の支援術師だ」
沙耶の顔が、太陽のように明るくなる。隼人が痛みをこらえながらも、拳を差し出す。
「……俺は、今まで間違ってた。家名なんかより、仲間の方が千倍大切だって、今日思い知った」
俺は彼の拳にぶつける。がっしりとした、男の約束。
五人で円陣を組む。傷だらけで、ボロボロで、でも最高の笑顔でいっぱいだった。
「これが俺たちの答えだ。誰にも負けない!」
「新しい道を、俺たちが切り拓く」
俺の言葉に、みんなが笑った。心からの、仲間の笑い。
「おー!」
胸の奥で決意が燃え上がった。次なる戦いへの、覚悟の炎が。でも、恐怖はない。仲間がいるから。
俺たちは勝った。派閥の壁を完全に壊し、本当の仲間になった。そして、伝説の妖異すら倒してみせた。これからどんな敵が来ても、俺たちなら大丈夫だ。みんなと一緒なら、何でもできる。
結界塔の光が、夕日に溶けて優しく輝いていた。赤黒い警戒色から、温かいオレンジ色に変わっている。まるで、俺たちの成長と勝利を祝福するように。新しい時代が、始まろうとしていた。
また、見ている。
帰還する前に後片づけ中、天音が割れた石灯籠の根元から記録札を拾い上げた。
「……同じ座標に踏み込み、二度目だけ遅延が〇・二秒短い」
札の面に、侵入波形が二本、重なって描かれる。
「前回の対処を学習してる。偶然じゃない」
端にだけ現れる位相の欠け——Ωタグ。これは癖だ。人の。
俺は短く息を吐いた。
「観測者がいる」
それは第三者の介入の証明だった。
祭具庫の隅で、残滓の糸がまだ震えていた。
以前なら斬って終わりだ。今は違う。青圧がぶれない。
俺は札をそっと触れさせ、輪をひとつ置く。
「祓い分け」
黒いトゲだけが抜け、細い光が残る。ひびの入った柱へ、すっと吸い込まれていった。
天音が目を細めた。
「前なら無理だった精度だね」
俺は頷いた。
「壊すより、扱う」
力は、役目に変わる。
それが、今の俺たちの勝ちだ。
***
――俺は、ただの無才だった。
そう呼ばれるたびに、悔しさを噛み殺してきた。
けれど今は違う。
あの教室で、美琴や天音、そして仲間たちが俺を信じてくれた。
その信頼を裏切るわけにはいかない。
境界任務――それは、実力だけじゃなく覚悟を試す戦場だ。
霊力の差も、家柄の壁も、ここでは何の意味も持たない。
必要なのは、互いを信じ、状況を見抜き、導く力。
誰かに命令されるだけの戦いは終わった。
今度は俺が、仲間を導く番だ。
失敗すれば全員が危険に晒される。
だが、恐怖よりも強い想いがある。
“誰かに救われる側”から、誰かを救う側へ――
その一歩を踏み出す時が、今だ。
仲間の声が重なる。
美琴の明るさも、天音の冷静さも、佐久間の不器用な誇りも。
それぞれが違う輝きを放ちながら、ひとつの光になる。
俺は深呼吸をして、札を握りしめた。
この手で、道を開く。
無才と呼ばれた俺が、みんなを導く未来を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます