第18話 塔の警鐘

「おはよ、尚。今日の小テスト、助け舟いる?」


「船は沈む前に修理する派だ」


「——つまり、いるのね」


 美琴が笑い、隼人が窓を開ける。朝の風がノートをめくり、沙耶が慌てて押さえた。


「あ、結界標識の針が一ミリずれてます」


「誤差一ミリは許容範囲」


「でも気持ち悪い」


「了解。監査lint:偏差—微。パッチ当てる」


 俺はチョークで黒板の角に小さな符を描く。天音が半目で見る。


「授業前にやること?」


「やらないと落ち着かない」


「真面目の使い方、間違ってる」


 ぱち、と空気が澄む音。針がぴたりと中心に戻った。


「はーい優等生たち、朝から何の儀式?」担任が入ってきて、教室がざわつく。


 その瞬間、校内ネットのモニタに“Ω”の一文字が一瞬だけ走った。


「今の見た?」


「見た。仕様外ログ。——放課後、確認に行こう」


 放課後の探索は空振りに終わった。異能者といえども初等部四年生に出来ることは限られている。俺はもどかしさを感じている。


 その夜、学園全域に低く響く音が走った。


 ゴォォォォン――。


 重く、腹の底にまで震えを残す警鐘。まるで巨大な鐘を地獄の底で鳴らしているような、不吉な響き。窓ガラスが激しく震え、机の上のペンが転がり落ちた。本棚の本が雪崩を起こし、壁にかけた時計が止まる。これは、今までとは次元が違う。


 結界塔が赤黒く輝き、血を吸った宝石のように不気味に脈動している。まるで巨大な心臓が苦しみながら鼓動しているみたいだ。赤い光が空を裂き、黒い影が渦を巻く。塔全体が、空に向かって悲鳴を上げているようだった。


 俺は窓に駆け寄る。ガラスに手をつくと、振動が直接伝わってきた。まるで塔の苦痛が、俺の体に流れ込んでくるような感覚。


(……これは完全に別次元の脅威だ)


 胸の奥に冷たいものが走る。本能が警告を発している。逃げろ、と。でも、逃げられない。ここが俺たちの戦場だから。頭の中で、警告のコードが赤く点滅する。


【警告:結界圧力臨界値突破。システムクラッシュまで残り時間不明。全生徒警戒態勢移行推奨】


 スマホが震える。美琴からメッセージが届く。


『尚、大丈夫? すごい音だったね。紅葉も怯えてる。怖い』


 すぐに返信する。


『大丈夫。明日、みんなで集まろう』


 天音からも連絡が来る。


『異常事態ね。結界塔のパターンを解析したけど、今までにない波形。明日は最大級の警戒が必要』


 二人も感じている。これから起きる、何か大きな変化を。嵐の前の、不気味な静けさを。


***


 翌朝、小等部の教室はざわめきに包まれていた。みんな寝不足の顔をしている。目の下にクマを作り、あくびを噛み殺している。昨夜の警鐘で、誰もまともに眠れなかったのだろう。不安が、教室の空気を重くしている。


「昨日の警鐘、聞いたか? 窓ガラスが割れるかと思った」


 早乙女が震え声で言う。いつもの明るさが影を潜めている。


「結界が割れるんじゃないかって、先生たち走り回ってたぞ。皆月先生も血相変えてた」


 木下が付け加える。普段のムードメーカーも、今日は顔が青い。


「また実戦訓練になるのか……? 今度は、本当に死ぬかもしれない」


 村井の言葉に、教室の空気が凍る。死という言葉が、重くのしかかる。不安と恐怖が渦巻く中、派閥の囁きがすぐに再燃する。まるで恐怖から逃れるために、何かにすがろうとするみたいに。


「こういう時こそ、家系の力が必要だ!」


 佐久間が声を張り上げる。でも、その声には明らかな震えがある。虚勢を張っているのが、誰の目にも明らかだった。


「伝統と実績がものを言う! 代々受け継がれた術式なら、どんな妖異にも対抗できる!」


「バカ言うな!」


 村井も負けじと叫ぶ。眼鏡が曇るほど、興奮している。


「尚がいなきゃ前の任務だって失敗してた! 新しい視点が必要なんだ! 古い考えじゃ、新しい脅威には対抗できない!」


 声が飛び交い、教室が戦場と化す。机を叩く音、怒鳴り声、すすり泣く声。恐怖が、みんなを狂わせている。そして、視線が俺に集まる。期待、不安、依存。みんな、誰かにすがりたがっている。誰かに、答えを求めている。


 俺は深く息を吸った。そして、静かにノートを閉じ、立ち上がった。椅子が床を擦る音が、妙に大きく響く。


「……俺は派閥のために戦うつもりはない」


 教室がざわつく。困惑と失望の声が上がる。でも、俺は続ける。


「仲間を守るために戦う」


 一歩前に出る。朝の光が、俺の影を長く伸ばした。


「家系も一般も関係ない。この教室にいる全員が、俺の仲間だ」


 一瞬、教室が静まり返った。まるで時間が止まったような静寂。そして――


 美琴が勢いよく立ち上がる。狐式神の紅葉も、主人に呼応して尻尾を振った。


「そうだよ! みんな仲間じゃん! なんで争ってるの?」


 彼女の声には、怒りと悲しみが混じっている。


「妖異は派閥なんて見てくれない! みんな平等に襲ってくる! だったら、みんなで協力するしかないじゃん!」


 天音も優雅に立ち上がる。氷のように冷たい笑みを浮かべるが、その瞳には確かな温かさがある。


「そうこなくちゃ。ようやく、本質が見えてきたわね」


 彼女が教室を見回す。


「恐怖に負けて分裂するか、団結して立ち向かうか。答えは明白でしょう?」


 隼人も椅子から立ち上がる。拳を握りしめて、力強く宣言する。


「……俺も、長谷部に同意だ」


 深く頭を下げる。


「派閥なんてくだらない。命の前では、血筋も伝統も意味がない」


 沙耶も震えながら、でも勇気を振り絞って手を挙げる。


「私も……みんなで協力すれば、きっと大丈夫」


 涙を拭いながら続ける。


「一人じゃ怖いけど、みんなとなら戦える」


 一人、また一人と。賛同の声が上がっていく。佐久間も、村井も、結城も、早乙女も。みんなが立ち上がる。俺は拳を高く掲げて叫んだ。


「――派閥の壁なんて、今すぐ全部ぶっ壊す! 俺たちは一つだ!」


 教室が爆発的な拍手に包まれた。歓声が上がり、誰かが泣いている。恐怖が、希望に変わった瞬間だった。派閥の壁が、確実に崩れている。いや、もう崩れた。


***


 同じ頃、高等部の生徒会室。薄暗い部屋に、モニターの青白い光だけが浮かび上がる。壁一面に設置された画面には、結界塔の詳細なデータが流れている。赤と黒の不規則なパターンが、まるで悪夢の中の光景みたいだ。


 白銀透華と柊司が、その不吉な映像を前に向かい合っていた。二人の表情は、普段の余裕を失っている。


「小規模派遣では抑えきれないわね」


 透華の声は冷静だが、瞳には鋭い光が宿っている。指先で画面をなぞりながら、パターンを解析する。


「これは囁きの拡大。いえ、もはや叫びと言うべきかしら」


 画面の波形が、急激に振幅を増していく。


「放置すれば、塔そのものが裂ける。そうなれば――」


 司が眼鏡を押し上げる。レンズが光を反射して、表情が読めない。


「最悪の場合、結界全体が崩壊する可能性も?」


「その通りよ」


 透華が振り返る。その顔に、決意が浮かんでいた。


「だから、手を打つ必要がある。通常の手段では間に合わない」


「……まさか、小等部を動員するおつもりですか?」


 司の声に、驚きと懸念が混じる。


「そうよ。特に――」


 透華が一枚の資料を取り出す。そこには、俺の写真と戦績が記されていた。


「長谷部尚を次の部隊に組み込む」


「副会長! 彼はまだ小等部三年です。いくらなんでも早すぎる」


 司が珍しく声を荒げる。


「この任務は、中等部でも危険なレベルです」


「だからこそ試す価値がある」


 透華は窓に向かって歩く。結界塔の不吉な光が、彼女の銀髪を赤く染める。


「――あの子は秩序を拾える。混沌の中から、最適解を見つけ出せる」


 振り返り、司を見据える。


「それは、これからの戦いに必要な才能よ」


 司は長い沈黙の後、渋々頷いた。肩を落として、諦めたようにため息をつく。


「副会長がそこまで言うなら……。ただし、護衛は付けさせてください。精鋭を」


「もちろん」


 透華が意味深に微笑む。


「それに、私も同行するわ」


「副会長自ら!?」


 司が目を見開く。


「それは危険すぎます! もし何かあれば――」


「心配無用よ」


 透華の瞳に、妖艶な光が宿る。


「弟候補が本物かどうか、この目で確かめたいしね」


 そして、窓の外を見つめて呟いた。唇に、挑戦的な笑みを浮かべて。


「――常識なんて、全部ひっくり返してもらいましょう」


***


 夜。自室で札に筆を走らせていた俺は、ふと手を止めた。新しい術式の改良が、どうしてもうまくいかない。仲間全員を守るための防御式。理論上は可能なはずなのに、どこかで計算が狂っている。額に汗が滲み、手が震える。


 窓の外、結界塔が再び低く鳴る。


 ゴォォォォォン――。


 今度は地面まで震わせるほどに。部屋全体が振動し、本棚の本が雪崩のように落ちる。コップの水が波打ち、床にこぼれた。電気が一瞬消えて、また点く。塔の光は夜空を真っ二つに裂き、まるで世界の終わりを告げているかのようだった。赤と黒の光が、不規則に明滅する。その度に、空気が震える。


(次は本物だ。今までの妖異とは、規模が違う。もしかしたら、学園始まって以来の脅威かもしれない)


 震える手を、ぎゅっと握りしめる。爪が手のひらに食い込むけど、痛みが俺を現実に繋ぎ止める。深呼吸をして、札に新しいコードを書き込む。今度は、理論じゃなく、想いを込めて。


【守護関数:仲間が存在する限り、全力で守る。派閥の壁を壊す。希望を繋ぐ。絶対に諦めない。その先に、勝利がある】


 幼稚なコードかもしれない。プログラムとしては、穴だらけかもしれない。でも、これが俺の決意だ。俺の全てだ。胸の奥で熱が膨らむ。それは恐怖をも呑み込む、決意の火だった。美琴の笑顔、天音の信頼、隼人の友情、沙耶の勇気。みんなの顔が浮かぶ。


 明日、何が起きても、俺は仲間を守る。派閥なんて関係ない。みんなを守る。それが、俺の選んだ道だから。結界塔が、また鳴った。でも今度は、まるで賛同するような、優しい音色で。まるで、俺たちの決意を祝福しているみたいに。


「嵐が来る。でも――」


 俺は札を握りしめて立ち上がった。窓の外を見据えて、力強く宣言する。


「――俺たちなら、派閥の壁も、古い常識も、全部壊して見せる」


 その決意が、夜の静寂に響いた。明日、本当の戦いが始まる。


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