第14話 誘いの声
模擬任務から三日。教室は戦場と化していた。朝の光が差し込む机の上に、手紙の山が築かれている。金箔で装飾された家系派の豪華な便箋、質素だが真摯な一般派の封筒。どれも同じメッセージを叫んでいる――「俺たちの側につけ」と。その光景は、まるで俺という獲物を奪い合う獣たちの咆哮のようだった。
「長谷部を取り込めば勝利は確実だ」
「いや、彼こそ一般派の象徴だろう」
教室のあちこちから、俺を品定めする声が聞こえる。まるで商品を値踏みするような、その視線が肌に突き刺さった。俺は深呼吸をして、手紙を一枚ずつ丁寧に開封する。どれも美辞麗句に満ちていた。権力、地位、金、保護――あらゆる餌がぶら下げられている。
そして――俺は全ての手紙を、ゆっくりと、しかし確実にゴミ箱に投げ入れた。紙が落ちる音が、静まり返った教室に響く。
「おい、あれ佐久間家からの重要な書状だぞ」
「一般派の嘆願書も破り捨てるのか?」
ざわめきが広がる。誰もが信じられないという顔で俺を見ていた。俺は椅子から立ち上がり、振り返る。そして、教室全体に響き渡る声で宣言した。
「俺は誰の駒でもない。俺は俺だ」
その瞬間、教室が凍りついたように静まり返る。美琴が心配そうに俺の袖を掴む。狐式神の紅葉も、不安げに尻尾を巻いていた。
「尚……大丈夫?」
天音は珍しく感心したような表情を浮かべ、氷のような瞳に温かい光を宿していた。
「……見事な決断ね」
午後になると、状況はエスカレートした。上級生たちが次々と現れる。甘い蜜のような言葉と、鋭い棘のような脅し文句を交互に並べて。
「君の才能を活かせるのは我々だけだ」
眼鏡をかけた知的な上級生が、理論的に説得を試みる。
「後ろ盾なしに、この先生きていけると思うのか?」
筋骨隆々とした体育会系の先輩が、威圧的に迫る。俺は全ての話を黙って聞いた。相手の目を逸らさず、背筋を伸ばして。そして、どの誘いにも同じ答えを返す。
「考えておきます」
でも心の中では、もう答えは決まっていた。
(俺は俺の道を行く。誰にも、その道を決められはしない)
そして夕方――教室のドアが音もなく開き、一人の使者が現れた。
「長谷部尚」
凛とした声が教室に響く。生徒会の紋章を胸に付けた、上品な女生徒だった。
「会長がお呼びです」
教室が息を呑む。ついに本丸が動いた。早乙女が驚きの声を上げる。
「えー!? 会長直々にぃ!?」
佐久間が舌打ちをする。
「チッ、とうとう生徒会まで動き出しやがったか」
村井が眼鏡を光らせる。
「これは……勝負あったかもしれないな」
俺は静かに立ち上がり、使者に頷いた。
「わかりました。すぐに向かいます」
***
生徒会室への道のり。磨き抜かれた大理石の廊下が、夕陽を受けて黄金色に輝いている。壁に飾られた歴代会長の肖像画が、まるで俺を値踏みするように見下ろしていた。重い扉を開けると――そこは、まるで別世界だった。
天井まで届く本棚、古い呪符が額装された壁、そして巨大な窓から差し込む夕陽。その光を背にした白銀透華が、まるで神話の女神のように俺を見下ろしていた。
「来たわね、長谷部尚」
その声は、氷のように冷たく、それでいて蜜のように甘い。矛盾した魅力が、俺の心を揺さぶる。俺は背筋を伸ばし、まっすぐに彼女を見返す。緊張で心臓が早鐘を打っているが、決して屈服はしない。
「お呼びだと聞いて参りました」
透華が優雅に立ち上がる。まるで舞うように、ゆっくりと階段を降りてくる。一歩ごとに圧力が増し、空気が重くなっていく。でも俺は、一歩も引かない。
「昨日の模擬任務、見事だったわ」
彼女が俺の前で立ち止まる。瑠璃色の瞳が、俺の全てを見透かすように輝いていた。
「混乱を立て直し、全員を生還させた。並の指揮官にはできない芸当よ」
「ありがとうございます。でも、それは俺一人の力じゃありません」
透華の完璧に整えられた眉が、わずかに動く。予想外の返答だったのか、それとも――
「謙虚ね。でも事実として、あなたがいなければ全滅していた」
「それでも、仲間がいなければ俺も何もできませんでした」
透華は俺の周りをゆっくりと回る。まるで獲物を品定めする美しい捕食者のように。彼女が動くたび、甘い香水の香りが鼻をくすぐった。
「派閥からの圧力、感じているでしょう?」
彼女の指先が、俺の肩をかすめる。
「はい。でも、どちらにも属するつもりはありません」
きっぱりと言い切る。透華の瞳に、興味という名の炎が宿る。
「なぜ?」
彼女が俺の正面に回り込む。その瞳が、まっすぐに俺を射抜いた。
「どちらも君に有利な条件を提示しているはず。権力、金、保護……人が欲しがるもの全てを」
俺は少し考えてから、心の底からの言葉を紡ぐ。
「俺が欲しいのは、仲間と一緒に戦える場所です」
深呼吸して、続ける。
「派閥の道具になることじゃありません」
透華が動きを止める。その瞳が、初めて真剣に俺を見つめる。まるで、初めて俺という人間を認識したかのように。
「……面白い答えね」
そして彼女は、まるで爆弾のような提案を投下した。
「なら、生徒会はどう?」
彼女の声が、部屋に響く。
「来年、小等部の生徒会に入りなさい」
俺は驚かない。なぜか、そんな気がしていた。これこそが、彼女の本命だったのだろう。
「生徒会、ですか」
「そう。派閥を超えて活動できる唯一の場所。あなたの理想に最も近いはず」
透華は窓際に移動する。夕日が白銀の髪を黄金色に染め、まるで天使の後光のように輝かせた。
「あなたの能力は特異よ。システムを見抜き、最適解を導く。混沌を秩序に変える」
振り返り、その瞳に情熱を宿して俺に詰め寄る。
「それは生徒会に必要な才能。いいえ、この学園の未来に必要な力よ」
彼女の手が、俺の顎をそっと掴む。冷たい指先が、俺の肌に触れる。でも俺は逃げない。
「私の下で働きなさい。本当の力を身につけられる」
彼女の顔が近づく。吐息が俺の耳元をくすぐる。
「私の"弟"として、もっと面白いものを見せてちょうだい」
その瞬間――俺は静かに、しかし確実に彼女の手を外した。
「それは光栄なお申し出ですが――俺は、まだその資格がないと思います」
一歩下がり、透華の目をまっすぐ見据えて、はっきりと宣言する。透華の表情が一変する。驚愕、そして理解できないという困惑が、その美しい顔に浮かんだ。
「資格がない?」
彼女の声に、初めて動揺が混じる。
「何を言っているの? あなたは十分に――」
「いいえ」
俺は首を横に振る。
「今の俺は、仲間に支えられてようやく立っている状態です。美琴がいて、天音がいて、みんながいるから戦える」
俺は拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込むほど強く。
「生徒会に入るなら、誰にも頼らず自分の力で入りたい」
窓から差し込む夕陽が、俺たちを包む。
「そうでなければ、意味がありません」
透華が黙る。長い、長い沈黙。まるで時間が止まったかのような静寂が、生徒会室を支配した。そして俺は、心の底からの言葉を口にした。
「俺は――誰も歩いたことのない道を作る。それが俺の生き方だ」
透華の瞳を見据えて、最後の宣言をした。その瞬間、透華の表情が劇的に変化した。驚愕から理解へ。理解から感動へ。そして――心からの笑顔へ。
「……なるほど」
彼女は小さく、しかし心から笑った。初めて見る、仮面を外した素顔の笑顔だった。
「あなたという人間を、完全に見誤っていたわ」
透華は俺の前に立つ。今度は上から見下ろすのではなく、対等な位置で。
「私は、あなたを利用しようとしていた。優秀な駒として、便利な道具として」
彼女の瞳に、後悔の色が浮かぶ。
「でも違った。あなたは駒じゃない。自分の道を切り開く、真の王者よ」
俺は慌てる。
「そんな、俺なんて――」
「いいえ」
透華は首を横に振る。
「あなたこそが正しい。自分の意志で立つ者だけが、本当の力を持つ」
彼女は俺の肩に両手を置く。その瞳に、今度は姉のような温かさが宿っていた。
「あなたはそれを理解している。だからこそ、私の申し出を断った」
透華は一歩下がり、深く頷く。
「期待してるわよ、長谷部尚。いつか必ず、自分の力でここに戻ってきなさい。その時は、対等な仲間として迎えるわ」
そして、最後に微笑む。
***
生徒会室を出ると、廊下で美琴と天音が心配そうに待っていた。夕陽が二人を照らし、まるで守護天使のように見える。
「尚!」
美琴が駆け寄ってくる。紅葉も心配そうに俺の周りを回った。
「どうだった? 大丈夫だった?」
「生徒会に誘われた」
天音が眉を上げる。
「やはりね。それで?」
「断った」
二人が同時に目を丸くする。
「ええええ!?」
美琴が信じられないという顔をする。
「なんで!? すごいチャンスだったのに!」
俺は微笑む。夕陽を受けて、心が温かくなるのを感じながら。
「まだ早いと思ったから」
歩き始める。三人並んで。
「もっと強くなってから、自分の意志で入りたい」
美琴の目に涙が浮かぶ。
「尚……」
天音も珍しく感情を表に出す。その氷のような瞳に、確かな温もりが宿っていた。
「……立派な判断ね。あなたらしいわ」
三人で歩き続ける。夕暮れの廊下を、影を長く伸ばしながら。
「でも、いつかは入るの?」と美琴が聞く。
「ああ。でも、その時は――」
俺は立ち止まり、力強く宣言した。
「派閥の常識も、生徒会の常識も――俺が全部ぶっ壊す。そして、誰も見たことのない新しい世界を作ってやる」
美琴が満面の笑みを浮かべる。
「一緒に頑張ろうね! 約束だよ!」
天音も静かに頷く。
「その日まで、私たちも成長するわ。負けないわよ」
胸の奥に炎が燃える。熱く、激しく、消えることのない炎が。これが俺の選んだ道だ。誰かに決められた道じゃない。誰かのために用意された道でもない。仲間と一緒に歩む、俺だけの道。
窓の外で、結界塔が青い光を放っていた。まるで、俺たちの決意を祝福するように。常識なんて関係ない。俺たちは、俺たちの道を行く。そして、いつか必ず――この学園の歴史を変えてやる。
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