夷陵

 夷陵いりょう


 建武四年春、正月二日甲申こうしん、皇帝劉秀りゅうしゅう、今年も年始に大赦たいしゃを行う。また公卿くぎょう大夫たいふ、博士を南宮なんぐう雲台うんだいまみえさせる。するは尚書令しょうしょれい韓歆かんきんの上奏、『費氏ひしえき』『左氏さし春秋しゅんじゅう』の為に博士を立てることである。

 博士の范升はんしょう、皇帝劉秀に口火を切れと命じられて曰く「『左氏』は孔子を祖とせぬ丘明きゅうめいの書なり、師弟が相伝あいつたえたる物にあらず、先代の皇帝たちも意を寄せざる所であれば、立つるを得ること無し」

 韓歆並びに太中たちゅう大夫たいふ許淑きょしゅくは反論し、討論は続き正午になって、劉秀、議をむ。一端退しりぞいた范升、奏上して皇帝劉秀にさとしめようとする。

 劉秀、決めかねる故、留保するもこの論争は後日また続く。『左氏春秋』を伝え、博士を立てようと欲した郎中ろうちゅう陳元ちんげんが、范升が劉秀に示した司馬遷しばせんが『左氏』を引いて孔子の言を誤りし所について異を覚え、上疏じょうそし、それは小事であり、事あるごとに先代と言う范升の論に、ならばしょう盤庚ばんこういんの地にうつれず、しゅう公は洛邑らくゆうに遷れず、陛下は山東に遷れずと言う。

 劉秀、仕方無しと、建博士の議を再開する。范升と陳元、弁難し合い、上奏すること十数度、英断はもっぱら皇帝劉秀にあれば、『左氏春秋』の学を立て、太常たいじょうは博士として四人を選び、陳元を第一とすも、論争したばかりと、劉秀は第二位の司隷しれい従事じゅうじ李封りほうを博士に用いる。されど博士を立てた後も『左氏』論争は続く。


 ゆうぼく朱浮しゅふの奏上はますます緊迫きんぱくする。朱浮は劉秀が安逸あんいつむさぼり北辺をかえりみず、故に万民は心落ち着かず、これでどうして河南かなん河内かない河東かとう州を後世に伝えられましょうかと、叱咤しったするが如く、劉秀の親征しんせいうながす。劉秀、これにこたえるみことのりを送る。かつ赤眉せきび跋扈ばっこするも、こくが無ければ東進すると予測して応じれば、赤眉は帰降した。彭寵ほうちょう張豊ちょうほうはかるに、必ずしも勢いがあるわけではなく、内に反する者がある。今、軍資は未だ満たず、故に次の麦の収穫を待つのみ、と親征の算段を行っていることを伝える。実際、劉秀は安逸を貪っている訳でも、学問の派閥闘争に入れ込んでいる訳でもなかった。大赦を行うといっても、嘗ての賊を許して自軍の兵として取り入れ、田畑を耕作させて穀を得て、そこで彭寵を討とうとするものであった。そして既に能臣である尚書令郭伋かくきゅうを中山太守と為して送り込んでいた。更に拠点を河内郡かい県とし、その視察のために御幸みゆきする。


 その頃、けい南郡なんぐん黎丘れいきゅうの南西の夷陵に立って兵をようする田戎でんじゅうは、自らの進退をはかる。時を同じくして立った陳義ちんぎは、史書がよしを明らかにせぬものの既に消え、楚黎それい王を称する秦豊しんほうは黎丘にて、漢の皇帝劉秀りゅうしゅう麾下きか征南せいなん大将軍岑彭しんほうに囲まれる。秦豊の次は我なりと田戎、大兵いたるまでに降ろうと考える。

 然るにその妻の兄辛臣しんしんは、田戎のために地図を描いて曰く「ゆう州に漁陽ぎょよう郡彭寵、じょ州に琅邪ろうや張歩ちょうほ東海とうかい董憲とうけんえき巴蜀はしょく公孫述こうそんじゅつ。今、四方の豪傑は各々郡国に拠り、洛陽らくようが得し所は、てのひらの如きのみ。よろいを放さずもってその変をうかがうにかず」

 しかし田戎返して曰く「大王秦豊の強きを以てすら、なお征南将軍に囲まれる所と為る。いわんわれをや。降ると決せり」

 田戎、辛臣を留めて夷陵を守らしめ、自らは兵をひきいて江水こうすいを降り、また沔水べんすいさかのぼって黎丘に止まり、期日を定めて当に降ろうと出立しゅったつする。これに対して、身の安全をおもんぱかったは辛臣である。田戎が降ろうとするのを我がいさめたと知られば如何いかになろう。今間道かんどうを抜ければ、河を使って回り道する田戎より先に降れる。辛臣、そう考え至れば、田戎の珍宝を盗んで、当陽とうよう宜城ぎじょうと陸路を走って先に岑彭に至る。

 降った辛臣、岑彭に曰く「つつしんで田戎が降るをかん」

 その田戎が後から着こうとすれば、辛臣は岑彭の陣よりげきを出して曰く「岑将軍、既に我を五千戸侯に封ずべしと奏じ、心をうつろにしてあいたん。願わくは急ぎ来たれ、前謀にこだわること無し」

 田戎、留守を任せた者が何故先に降って侯に封じられるのだと疑っている所に、辛臣が宝と良馬を盗んだと郡の次官の檄が至った。田戎、益々ますます吾を売ったかと疑う。期日となり、田戎、亀の甲羅を火に当ててぼくす。甲羅は横に真二つに割けた。これは如何なる意味かと卜者に尋ねれば、卜者、亀卜はひびを見て占えば、完全に割けるは占いとはなりませぬと言う。吉凶何れかと言えば、卜者は凶でございましょうと答える。田戎は悩んだ末に、岑彭に降らず、返って秦豊に附く。秦豊は延岑えんしん・田戎が自らにいたことに喜び、それぞれに娘をめあわせる。


 男は史書を眺め眇めて、独言して曰く「こちらの史書の云う通りとすれば、この梟雄きょうゆうが追われたのは五月四日甲申こうしん以降のこと。一つの史書だけみれば数日、或いは一月に思える闘いも、決して短くは無かったということだ」

 二度三度同じ所を読んで曰く「それにしても奇妙なり、何故、北辺の太守がここにいる」

 されど男は、それ以上拘泥こうでいしても得る事は無いと、その木簡もっかんを巻くと別の木簡を広げる。更に地図を広げる。

 男は木簡から地図の上に目をり、済陰さいいん郡を見て曰く「史書に楚丘そきゅうとあるが、済陰はりょうの域であれば、地図の上に示されるように梁丘りょうきゅうごうが正しき」


 二月、延岑がえんの南西、せき県の南、順陽じゅんよう辺りをこうせば、右将軍鄧禹とうう復漢ふっかん将軍鄧曄とうよう輔漢ほかん将軍于匡うきょうを率いて、延岑をとうに破る。この時、延岑の護軍ごぐんとう仲況ちゅうきょうは順陽の南、いん県に拠り、嘗ての国師こくし劉歆りゅうきんの兄の孫、劉龔りゅうきょうはその首魁しゅかいと為っていた。

 南陽なんよう郡にだい郡太守蘇竟そきょうがたまさか至った。蘇竟嘗てその劉歆と共に図書としょ校定こうていつかさどっていたので、劉龔・鄧仲況を知っていた。よって、書を送って諫める。

 書は、つつがきやと始まり、智の到りし者の進退の故事を引く。今、君は一時の方便として権勢に節を屈してえん叔牙しゅくがに臣事し、覚悟して静かに徳を養うと聞くが、先世の幾人かとてこれに勝ろうか。君は陰県に在り、この地には賢士多し。わずかの間に図書人事にはかって利害得失を見れば明らかであろう。君子の道を考えれば、どうして反逆者の名を守ることあろう、と。書は更に、緯書いしょに現れた火徳の劉氏の正統性と王莽おうもうがそれに敗れた今をき、五星は常道を失い天文の錯乱は地に映り、東海郡の董憲はまどいて降らず、漁陽郡の彭寵は逆乱して兵を擁すが、天文が指し示すよう、董憲・彭寵はわざわいを受け、全ては聖帝に応じるきざしなり、と言う。白虹びゃくこうは秦豊の方に向き、流星は延叔牙の方を向き、何れにも破滅の兆しがおとずれた。延叔牙は武当ぶとう県に兵を発しようと言うものの、実は禍を避けようとするものなり。善悪の分、去就きょしゅうの決、さっせざるべからず。最後に書は、再び故事を引き、如何なる行動が身を保ち名を保つかと述べる。劉龔・鄧仲況、書を受けて降った。

 鄧禹は、鄧曄・于匡を率いて、嘗て延岑が劉嘉りゅうかを破るために兵を発した武当県で、再度兵を発しようとした延岑を破る。延岑は漢中に奔り、余党はことごとく降る。

 えん州では虎牙こが大将軍蓋延こうえん県にて蘇茂そぼ周建しゅうけんを撃って東進すれば、隣接する東海郡から救援に出た董憲とりゅうの下に戦い、且つこれをみな破る。騎都尉馬武ばぶ、総大将蓋延の別働として本軍の北の済陰郡を撃ち、成武せいぶ県、梁丘郷を降す。劉秀、功に応じて馬武を捕虜ほりょ将軍と為す。

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