望蜀 光武帝中興記

河野 行成

洛陽

洛陽 その1

 洛陽らくよう


 日が昇ると共に弓を引き槍を使った後、汗でれた服を着替えて、男は机に向う。今日、既に机にはすずりと筆を用意させている。棚に仕舞ったまだ新しい竹簡ちくかんを机の上に広げて、腰掛けを引き、書をながめる。竹簡を削る小刀を取り出すとその背で史料を小突こづく。小突かれた所に曰く「建武けんぶ三年三月――彭寵ほうちょうけい城をおとしいれ自らえん王と為す」。次にその巻物を進めて、再び小刀で叩いて曰く「十一月、また――反す」。男は別の巻物を広げて、小刀の背でなぞって知りたい所を探し見る。見つけるや、苦笑いして曰く「ここには十一月のことが三月よりも前に現れ、時期が合わぬ。これを誤りと見れば筋が通る。この一行の文、削りたきや」

 しかし、男は小刀を使うことなく、しばし目を閉じて熟考し、目を開くと筆をって、いつもの竹簡の宜陽ぎようの文字の次に二文字を付け足し、た夢想にふける。


 時は、建武三年春、赤眉せきびと云う最大勢力を下した皇帝劉秀りゅうしゅう、占める地は司隷しれいのほぼ東半分、へい州・州のほとんどとゆう州の上谷じょうこく郡・涿たく郡、州の殆ど、えん州の西半分となる。皇帝劉秀、高祖こうそびょうまつり、伝国でんこく玉璽ぎょくじを受ける儀式を行い、あらためて、かんの復興という御旗みはたを周囲に示す。これまで、自身・自陣営が生き残るために戦わざるを得なかった劉秀、遮二しゃに無二むに活路を開いてここにいたる。我は皇帝に為りたく無かった、しかし皇帝に為るしか無かった、これを天命と言うのか、ならばせめて皇帝に相応ふさわしいことを成そうと、嘆息たんそくし、覇者はしゃの道を歩んで行こうと決意する。天上に二日無く、天下に二帝無し、と皇帝劉玄りゅうげんに仕えた男は、その自らに課したかせに自らをとらわれる。

 皇帝劉玄が破れた後、西せい州の隗囂かいごうは表面上は劉秀に恭順きょうじゅんを示す。今、赤眉を倒した劉秀、その隗囂、そしてその向こうの公孫述こうそんじゅつ如何いかに扱おうかと考える。三輔さんぽ通暁つうぎょうしているのは前大司徒だいしと鄧禹とううで、隗囂を西州大将軍と為した。なれど、鄧禹の思う所、報じる所は既におさめていれば、実情を知る太中たちゅう大夫たいふ来歙らいきゅうを独り召す。

 劉秀曰く「今、西州はかず、公孫子陽しようは帝を称して、く道はへだたって遠し。諸将は関東につとめたれば、西州の方略を思うも、未だ任じる所を知らず。そこもとのはかりごと如何いかん

 来歙、自らいて曰く「臣かつて隗季孟きもうと劉聖公せいこうべる長安ちょうあんに遇うことあり。よって道理を聞き分ける人柄を知るなり。その人初めてつや、漢を以て名と為し、今、陛下は聖徳盛んにおこれり。これ、その心に沿わぬはずなし。臣願わくは威命いめいを奉ずることを得て、丹青たんせいの如き明らかな信義を見せて国を開けば、隗囂は必ず手をつかねて自ら帰せん。さすれば即ち公孫述おのずから亡ぶこととなって、はかるに及ばざるなり」

 劉秀、しかり、と来歙を隗囂の使いと為す。


 一方、その隗囂、天下は未だまとまらずと展望てんぼうすれば、自分をしゅうぶん王、西伯せいはくのような覇者はしゃなぞらえる。よって諸将と共にみずから立って王と為ることを議す。ところで隴西ろうせいには戦乱を避けて長安ちょうあん・三輔から流れ込んできた賢者や元の皇帝劉玄りゅうげんの配下に縁者がいる。彼らにすれば隗囂の所業は言語道断の思い上がりである。よって反発が生じる。

 かつて皇帝劉玄にりょうぼくに命じられた鄭興ていきょうも隗囂をいさめて曰く「『左氏さし春秋しゅんじゅう』に曰く、忠信の言をわざるを愚者と為し、調和の音を聴かざるを聾者ろうしゃと為すと。先頃諸将集まり会して、忠信の言をわざること無からんや。大将軍、おもねってさつせざること無からんや。昔、文王は徳を積んだ血筋を受け、これに加えるに叡智えいち聖徳せいとくを以てし、天下を三分しその二を保つもいんに服す。王が継いで即位するに及んで、八百の諸侯はからずも同じく会し、みな曰く、いんちゅう王を討つべしと。武王はいまだ天命を知らざるをもって、兵をかえして時を待ちたり。また高祖は征伐することに年を重ねたるも、はい公として軍をひきいたり。今、大将軍の麗徳れいとくは明らかなりといえども、世々代々のさいわい無く、威略いりゃくは振うと雖も未だに高祖こうそこう有らず。しかるにおよばざらぬ事をげ、明らかに禍根かこんを招こうと欲するは、不可ならざらんや。思うに大将軍これを察せよ」

 そこまで言われれば、隗囂ついに王をしょうせず。

 また隗囂、広く職位をもうけて、それによって自らを尊高そんこうにしようとすれば、鄭興再び諫めて曰く「それ中郎将ちゅうろうじょう、太中大夫、使持節しじせつの官は皆王者の器にして、人臣の制す所にあらざるなり。孔子曰く、王に非ざる者、器と名は人に貸すべからずと。王に非ざる者に、また借りるべからざるなり。実益無く、損名そんめい有って、上をとうとぶ意に非ざるなり」

 隗囂、遂には職位を正す。こうして隗囂、周囲の意見に従えば、すなわち使いを洛陽に通ぜしめ、自ら上書しよしみを開く。劉秀、元より隗囂の評判を来歙から聞いていれば、むくいるに殊更ことさら礼遇れいぐうを以て、語るには字を称し同等国の儀を用いる。これをやすんじすことすこぶる厚くする。隗囂、年号を建武に合わせ、また涼州の竇融とうゆう等従いてこよみを受け入れ臣従しんじゅうすれば、鄭興の諫めた所にも関らず、隗囂皆その将軍の印綬いんじゅを貸す。

 よう州・涼州が平伏しても、隗囂が展望したように猶お地方に立ち、劉秀にそむく群雄は多い。劉秀に反逆はんぎゃくした者にゆう漁陽ぎょよう県の彭寵ほうちょうけい州北部南陽なんよう郡の鄧奉とうほうが有る。天子を名乗ったりょう劉永りゅうえい虎牙こが大将軍蓋延こうえんに何度も破られたにもついえぬ。劉秀、皇帝を名乗る以上、劉永は討ち滅ぼすべしと意を決めていた。その東には今は名目上、劉秀にくだった張歩ちょうほが居る。また、嘗ての漢帝国の最東端、楽浪らくろう郡では土着豪族王調おうちょうが皇帝劉玄が破れたのを機に太守たいしゅ劉憲りゅうけんを殺し、自ら大将軍、楽浪太守と称した。南に目を向ければ、王莽の末、江賊こうぞく王州公おうしゅうこうを破った盧江ろこう太守の李憲りけん淮南わいなん王を称し、今年、遂に天子と称す。よって劉秀には必ず討つべき敵が増えたことになる。荊州なん黎丘れいきゅうに立った秦豊しんほう楚黎それい王と称し、漢軍はこれとほこを交える。南郡夷陵いりょうでは盗賊上がりの田戎でんじゅう陳義ちんぎがそれぞれ周成しゅうせい王・臨江りんこう王と称す。荊州の南部、所謂いわゆるこう州の太守はまだ劉秀に懐かぬ。江夏こうか太守侯登こうとう武陵ぶりょう太守王堂おうどう長沙ちょうさ太守韓福かんふく桂陽けいよう太守張隆ちょうりゅう零陵れいりょう太守田翕でんきゅう蒼梧そうご太守杜穆とぼく交趾こうし太守錫光せきこうが情勢を見守る。

 とりわけ、大小の群雄・寇賊が発生したのは、赤眉せきびが通り過ぎた三輔であった。多き者は一万余り、少なき者でも数千人の兵をようす。赤眉の逄安ほうあんの十余万の兵を破った故に名を挙げた梟雄きゅうゆう延岑えんしんは長安の南東藍田らんでんに拠り、王歆おうきんは長安と華陰かいんの間の下邽かけいに、芳丹ほうたんは長安の東の新豊しんほうに、蔣震しょうしんは長安と新豊の間の覇陵はりょうぶん帝陵に、張邯ちょうかんは長安に、公孫こうそんしゅは長安からすいを渡った長陵ちょうりょう高祖こうそ劉邦りゅうほうの墓陵に、楊周ようしゅうは長安の北西の谷口やこうに、汝章じょしょうは長安の西の槐里かいりに、任良じんりょうは槐里の南のに、駱延らくえんは槐里の南西のちゅうちつに、呂鮪りょい郡に近い陳倉ちんそうに、角閎かくこう扶風ふふうの西端のけんに、それぞれって、各々おのおの将軍と称す。劉秀は征西せいせい大将軍馮異ふういにそれらを討たせる。また鄧禹の偏将軍であった張宗ちょうそう京輔けいほ都尉といと為し、馮異にあずける。漢中かんちゅう・武都郡を得たしょくの群雄公孫述はこれまた長安を虎視こし眈々たんたんうかがう。長安の北、へい州の向こう朔方さくほうでも、動乱は生じていた。既に匈奴きょうど形振なりふり構わずかすめ取るこの地方、匈奴の皇帝とも言うべきどうこうじゃくてい単于ぜんう単于輿は漁陽の彭寵と結び、その諸族であるかんこつこう北地ほくち郡に、左南さなん将軍を雁門がんもん郡に、りつせき骨都侯をだい郡に、それぞれ常駐じょうちゅうさせ、斥候せっこう間者かんじゃを放ち郡県の動静を仔細しさいつかんでいた。その匈奴が漢の皇帝と推す安定あんてい盧芳ろほうと、五原ごげん郡に将として立った李興りきょう隋昱ずいいく田颯でんりつ石鮪せきい閔堪びんかんが緊張状態に入っていた。皇帝として五原郡に入ろうとする盧芳に、出自しゅつじさだかでない者に牛耳ぎゅうじられまいと郡守たちはあらがう。

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