第四話
夢じゃなかった。紫苑さんは確かに居たんだ。そうでなければ、射的が苦手な僕がこんな景品を持っているはずがない。
あひる入りのレジ袋を持って、射的の店に行ってみる。あひるや人形、たくさんのおもちゃが昨日見たのと同じように並んでいる。昼間の店は閑散としていて、おじいさんが退屈そうに座っていた。きっと来ていないと言われるんだろうなと薄々感じながら、おじいさんに聞いてみる。
「僕、昨日このお店に来ましたか?」
おじいさんは訝しげな顔をした。
「来とらんと思うけんど」
やっぱりか。
「紫苑さんっていうすごくきれいな人も一緒だったんですけど」
「いやあ、来とらんね」
お礼を言って、射的の店を出る。
車に戻りながら、そういえば朝通知音で目を覚ましたんだったと思い出して、スマホを取り出す。そういえばこの温泉街に着いてから、今思えば不自然なくらいスマホが鳴らなかった。普段は休みの日も会社の連絡や、SNSの通知が来るのに。見ると、昨日の午後五時半頃より後の通知が、先ほどまとめて来たようだった。電波が悪かったのだろうか。でも、今は通信状況を示す棒が四本とも立っていて、圏外という感じではない。
そこでふと思い出したのは、昔読んだ小説だった。あまり詳しくは覚えていないけれど、主人公が元の世界とそっくりな「並行世界」に飛ばされて、元の世界に戻ろうと奮闘する話だったように思う。もしかしたら、僕はその小説の中の出来事と同じようなことを経験したのかもしれない。つまり、昨日の夜、この温泉街に着いたあたりから実は「並行世界」に行っていて、今日の朝、元の世界に戻ってきたということだ。信じがたいけれど、そうだとすればこれまでのことに説明がつく。
例えそうだとしても、違う世界にいるとかそんなことは関係なく、僕はどうにかしてもう一度紫苑さんに会いたい。もう、紫苑さんと知り合う前の僕には戻れそうもないのだ。
そうだ。ずっとこの温泉街にいれば、この世界でもいつか紫苑さんがやってくるかもしれない。正直、忙しいうえにモチベーションもなくて今の仕事を辞めたいとは思っていたから、旅館で働くのもありじゃないだろうか。この世界でもそうだとは限らないけれど、人手不足だとご主人が言っていたし。けれど、せっかく苦しい就職活動を耐え抜いて得た収入のいい仕事を手放すのには躊躇いがある。都会にいれば何でもすぐに手に入るし、旅館で働くよりは確実に豊かで安定した生活を送れるだろう。翻って、この街は一番近いコンビニまで車で十数分かかるような場所にある。この環境で過ごすことに、都会の生活に染まってしまった僕は耐えられるのだろうか。
頭の中で始まった激しい闘いに翻弄されながら、僕は旅館の前を何度も往復した。僕の中の冷静な部分と感情的な部分の攻防は一進一退というのがふさわしいもので、頭を掻きむしって叫び、走り回りたくなるほどだった。
けれど、気が付くと僕は旅館の硝子戸に手を掛けていた。
……やっぱり、僕は、この温泉街で働きたい。
紫苑さんに会いたい、というのはもちろん一番の理由だ。けれど、それだけではない。ほんのわずかな時間を過ごしただけでも、僕は好きになってしまっていたのだ。
この街の醸し出す、切なくなるほどうつくしく、幻想的な風情を。
一度深呼吸をして、硝子戸を開ける。帳場にいたご主人に頭を下げ、頼み込む。
「先ほどはおかしな質問ばかりしてすみませんでした。……本当に唐突ですが、ここで働かせてもらえませんか?」
ご主人はものすごく驚いて冗談ではないかと何度も確認してきたが、新しい働き手を得る機会には抗えなかったようで、最後には根負けして受け入れてくれた。
それからの日々は怒涛のように過ぎていった。一か月半後から住み込みで働く契約をしたので、東京に帰ってからの日々は、会社に退職届を出し、アパートの解約手続きをし、引っ越し業者を探し、荷物の整理をし、役所に転出届を出し、とやることだらけだった。
引っ越しを終えた後も、早く旅館の戦力になるために覚えることが山のようにあり、毎日が目まぐるしく過ぎていった。
一年が過ぎると、ようやく余裕が出てきた。前の仕事とは違って、この仕事は直接お客様に接する分、大変なことが多い。けれど、代わりにお客様の喜ぶ顔も直接見ることができるから、やりがいは大きかった。
休みの度に見て回ったので、この街にも随分詳しくなった。とはいえ、紫苑さんがどこに連れて行ってくれるつもりだったのかは、今となっては分からない。他にも、紫苑さんともっと話したかったことはたくさんある。
だから、せめてもう一度、ほんの少しでもいいから、紫苑さんに会いたい。
けれど、季節がもう一回りしても、紫苑さんは来なかった。
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