第一話
***
東京から、休憩を挟みつつ車で約四時間半。高速道路を降りて、商店と住宅が立ち並ぶ市街地を通り抜け、両脇に畑が広がる開けた道をしばらく進む。ほどなくして、川の左岸に旅館が立ち並んでいるのが見えてきた。背後に小高い山がそびえているためか、割合こぢんまりとした温泉街だ。僕はその端に位置する小さな旅館の予約を取っていた。旅館の脇の狭い駐車場に車を停め、助手席からボストンバッグを取り出す。かなり古い二階建ての旅館で、屋根は瓦葺き、外壁の木材は風雨にさらされて深みのある茶色をしている。惚れ惚れするような落ち着いた佇まいだ。午後六時過ぎ、チェックインをするのにちょうど良い時間に着いたことに独り満足しながら、僕は暖簾をくぐった。
少し重い硝子戸を閉め、上がり框でスリッパに履き替えて帳場に向かう。そこには紺の作務衣を着た初老の男性が座っていた。ただの従業員かと思っていたら、実はこの旅館の主人らしい。この旅館では他にご主人の妻である女将さんと、数名の従業員が働いているそうだ。このところ観光客が増えて、少々人手不足で困っていると冗談めかして言っていた。
チェックインの手続きを済ませると、ご主人が部屋まで案内してくれた。抑えられた照明の下、板張りの廊下を進む。天鵞絨の絨毯が敷かれた階段を上ったところにある二〇一号室。その入り口に着くと、ご主人は微笑みながらどうぞごゆるりとお過ごしくださいと言って、帳場のほうへ戻っていった。
僕が泊まる二〇一号室は十畳の和室に広縁と風呂、トイレが付いた部屋だ。午後の日差しが、広縁の向こうの大きい窓から差しこんでいる。早速荷解きをして、部屋に備えられていた浴衣に着替えた。少し苦戦しながら帯を結び終え、地下にある源泉かけ流しの大浴場に向かう。
大浴場へ向かう途中、卓球台を見つけて童心が疼いた。温泉といえば浴衣で卓球だ。久々にやってみたい。だけど対戦相手がいないんだよな、と思うと、広いスペー スに一台だけ置かれている卓球台がひどく寂しいものに感じられた。
気を取り直して向かった大浴場には幸い他に人の姿はなく、掛け流しのお湯の流れる音だけが聞こえた。壁は薄い青、床は濃い青のタイル張りで、黄みがかった照明をぼんやりと反射している。全身を洗い、なみなみとお湯をたたえた黒いタイル張りの浴槽に浸かる。ずいぶんと熱めだったが、少し経つと気にならなくなった。目を閉じて、ただ温かさに身を委ねる。体と脳と心に溜まった疲れが、ほどけて流れていくような気持ちがした。
大浴場から部屋に戻ってしばらくした頃、部屋のドアをノックする音に続いて、夕食の準備ができたと告げる声が聞こえた。ドアを開けると薄緑の着物を身に着けた女将さんが立っていて、僕はその案内に従って夕食が用意された小座敷に向かった。到着すると、女将さんは一通り食事について案内した後、ごゆっくりお過ごしくださいときれいに一礼して去っていった。小座敷は名前の通り小さい和室で、豪華な料理が載ったお膳が並べられていた。川に面した窓が開いていて、涼しい夜風が吹き込んでいる。個室で食べられるのは気楽で、嬉しいものだ。僕は座布団に座り、きれいに盛り付けられた刺身や湯気を立てる鍋料理、人参の飾り切りが添えられた煮物等々に舌鼓を打った。
すっかり満腹になったので、腹ごなしに温泉街を散策することにした。帳場でご主人に外出する旨を伝え部屋の鍵を預けると、下駄を貸してくれた。石畳を歩くとカランコロンと鳴って風流だそうだ。借りた下駄を履き、旅館の外に出る。
温泉街の路地は緩やかな上り坂で、旅館だけでなく食事処や土産物屋、射的の店、かき氷の店なども立ち並んでいる。僕と同じように浴衣と下駄を身に着けた観光客がちらほらと散策していた。特に行く当てもなく坂を上っていると、右手に卓球場を見つけた。中は少々薄暗く、卓球台が二つ並んでいる。無料で遊んでいいようで、友人同士だろうか、二人連れが真剣な様子で戦っていた。ラケットが振られ、カコンカコンカッ、と白い球が跳ねる。
そちらに気を取られながら歩いていたせいか、僕は左後ろにいた人にぶつかってしまった。咄嗟に謝りながら、振り返る。
そこにいたのは、
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