第一章 嵐の前の食卓
第1話 女神との出会い
初めて“女神”に会った日、空はばかみたいに青かった。
配達用の自転車を押しながら、私はレンガ通りをすいっと抜けていく。
花壇はよく手入れされ、角の掲示板には〈灰銀注意〉の黄色い張り紙。誰もが慣れきって、目を向ける人もいない。
街全体に漂う金属の匂い――どこか鉄が擦れるような臭気は、この世界に住む以上あたりまえの空気だ。
「おはようございまーす、シェルちゃん今日も元気だねぇ」
「おじさんも元気そう。昼から酔わないでね」
「はは、ほどほどにな」
道端の古道具屋のおじさんが手を振る。手元の瓶から漂う酒気に呆れつつも、私は笑って軽口を返した。
これがこの街の日常。
誰もが少しずつ壊れかけながら、それでも今日を積み重ねている。
四丁目の裏路地へ差し掛かると、世界の音がふっと途切れた。陽射しが届かず、石畳には水たまり。風の通りも悪い。
どこかでネズミが空き瓶を転がす音がして――そこに、うずくまる小さな影があった。
ぼろ布みたいなフード。骨のように細い手首。膝を抱えて、呼吸は浅く弱い。
見てはいけないものを見てしまったように、胸が詰まる。だが次の瞬間、路地の口を塞ぐように声が響いた。
「……通行の邪魔だよ」
酔いの残った二人組の男。肩で風を切るように歩いてきて、彼女の足元を靴先でつつく。
「ここ、俺らのたまり場なんだわ。わかる?」
嘲りが混じった声。細い肩がびくんと揺れる。
私は自転車を壁に立てかけ、二人の前にすっと入った。
「ここは誰のものでもない。通して」
「は? なんだお前」
「配達人。通して」
短く告げ、男の手首を指でつまむ。骨が鳴るほど力を入れると、男は顔をしかめて手を引いた。
「いってぇ! ふざけんなよ、女のくせに――」
もう一人が胸を張った瞬間、足元の瓶がころりと転がり、靴底を噛んだ。体勢が崩れる。私はその肩を押す。思った以上に軽く、尻もちをつく音が石畳に響いた。
二人は悪態を残しながらも、逃げるように路地を後にする。
静けさが戻る。振り返ると、彼女は目だけでこちらを見ていた。驚き、警戒、そして――空っぽ。
「大丈夫?」
返事はない。私はしゃがみ、紙袋を置いた。中身は今朝余分に買っておいたパン。ほんのり温かさが残っている。
「食べて。温かいうちに」
彼女は迷い、逡巡し、指先でそっとパンをつまんだ。かじる。表情は動かない。でも、喉は確かに上下していた。
「名前は?」
問いかけると、彼女は唇を開いては閉じるを繰り返し、擦れた声で言った。
「……いらない」
「名前が?」
「生きるのが」
路地に風が吹く。錆の匂いが強まった気がした。
私はうなずき、彼女の目をまっすぐに見て言った。
「じゃあ仮に。今日だけの名前でもいい?」
「……」
「あなたは“女神”。私が勝手にそう呼ぶ」
「やめて」
「やめないよ」
視線がぶつかる。彼女の瞳は冷えた水底のように静か。私の声音が軽口ではないと、たぶん気づいたのだ。
「どうして」
「私がそう見たから。ここで生きてる。それだけで偉大だ。偉大さは、女神の条件」
「……変な人」
「よく言われる」
私はポケットをごそごそ探り、小さな包みを取り出した。黄色いヘアピン。丸い笑顔が二つ並んでいる安物。
「これ、あげる」
「なんで」
「お礼。パンを食べてくれたから」
「そんなので?」
「そんなのがいいの」
恐る恐る受け取る震える手。私は彼女の前髪をそっと上げた。
「つけてもいい?」
「……勝手に」
「はい」
ぱちん、と小さな音。黄色の笑顔が白い髪に咲いた。驚くほど似合った。路地の薄闇が、わずかにやわらいだ。
「どう?」
「……変」
「かわいい、って言うんだよ」
「言わない」
「じゃあ私が言う。かわいい」
彼女は目を逸らし、パンをかじった。ほんの少しだけ、肩の力が抜けていた。
⸻
ベンチのある広場に移動して、彼女はパンを食べ終えた。私は紙パックのミルクを買って渡す。彼女は迷いながらも受け取り、飲み干した。
「ありがとう」
初めて聞いた言葉だった。胸の奥に、ぽっと何かが灯る。
「私はシェル。配達人。あなたは?」
「……カエデ」
「いい名前」
「どこが」
「響き。葉が立つって書く?」
「知らない」
「じゃあ私が勝手にそう覚える」
彼女はミルクを飲み終えると、私の髪に留まる黄色いピンを指先で触れた。
「似合ってる」
「え?」
「……似合ってる」
その声は小さかったが、確かに届いた。私は受け取った言葉を心の奥に大事に仕舞った。
遠くでサイレンが鳴る。掲示板の札が裏返り、〈狂銀警報・第二区画〉が点滅する。
「帰ったほうがいいかも」
カエデが立ち上がる。私は頷いた。
「送るよ」
「いい。ひとりで帰れる」
「じゃあ途中まで」
並んで歩く。風が硬くなる。金属が擦れる音が混じる。
「シェル」
「なに」
「……生きるの、向いてない」
「知ってる」
「知ってるの?」
「顔に書いてある」
「どこに」
「目の奥」
彼女は黙り、やがて小さく笑ったような気がした。
横断歩道の真ん中で立ち止まり、振り返ったカエデの髪で黄色い笑顔が光った。
「そのピン、返して」
「え?」
「……あげる。私から。今のは借りただけ」
「了解。大事にする」
「すぐなくす顔」
「なくさない」
「本当に?」
「本当に」
信じたいけど信じきれない顔。私は胸に手を当てて言った。
「これは、宝物にする」
「大げさ」
「私にとっては大げさじゃない」
そのとき、街のどこかで金属が砕ける音がした。空気が震える。掲示板の札が再びめくれ、〈狂銀警報・第一区画〉。赤いランプが点滅する。
私は息を吸い、ハンドルを握り直した。
「――よし。仕事の続き、行こうか」
このときはまだ、何も知らなかった。
今日出会った“女神”が、本当にこの世界を動かしてしまうことも。
そして私が、その世界で誰よりもひどい役を引き受けることも。
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