第十八話 SHINING SUN

 観測所に戻って来た時、室内はとても静かだった。

 所長は椅子を繋げて簡易のソファを作り、仮眠を取っている。橘の姿は見えなかったが、不自然な敷居で隠されたその向こうの応接室で、休んでいるのだろうと察せられた。

 夜を徹しての作業を終えたのだ。二時間を何もせず過ごして、眠気に襲われないわけがない。だが、元々二人で運用している観測所に、四人分の休憩スペースが確保できるような余裕はなかった。

 俺は藤宮に小声で応接室を指し示した。それだけで彼女は状況を理解し、察してくれたようだった。

 残された俺は一人、自分の席に腰を下ろす。静まり返った室内から、耳に届くのは機械の低い駆動音と、壁掛け時計の針の音だけ。処理が終わる時間まで、まだもう少しかかる。疲れてはいたが、まったく眠くはならなかった。

 その理由はわかっていた。──俺は、どちらが好きなのか、という選択。ただそれだけの単純な二択が、俺を支配していた。

 そのために、この夏の様々なことを思い出し、そして想いを巡らせた。二人と過ごした瞬間が、それぞれ違う色で胸に残っている。

 見慣れた場所から、慣れない思案ばかりを繰り返す。しかし、心はいつまでも定まらない。

 そして、その答えを出すより早く、時間切れを告げるタイマー音が、耳に響いた。


 その音に所長が目を覚まし、目を瞬かせながらタイマーを止めた。応接室の奥からも小さな物音がして、動き出す気配が漏れる。

 俺は立ち上がり、所長に軽く挨拶をしてから処理を終えた端末に近づいた。ほどなくして橘と藤宮も姿を現し、三人で並ぶように画面の前に立つ。

 やがて、所長は呼吸を整え、重々しくキーを叩いた。

「──それでは、結果を見てみよう」

 次の瞬間、黒い画面に光の粒が現れ、ゆっくりと組み上がっていく。やがてそこに浮かび上がったのは、多層的に絡み合う幾何構造だった。


 それは、マンデルブロ集合を思わせるような構造だった。

 幾重にも折り重なった曲面が絡み合い、複雑でありながら、全体には明確な対称性がある。球面のように丸みを帯びた部分から枝分かれするように突起が伸び、さらにその先端には、元の形を縮小した同じパターンが現れる。曼荼羅の様な無限の世界を思わせつつも、全体は有限なシンメトリの空間の中に閉じ、ひとつの完結した秩序を持っていた。

 その模様は、偶然の産物にしてはあまりにも精緻で、かといって計算によって描かれた人工物にはない、有機的な生命力を宿しているようだった。

 見る者の視線を捕らえて離さない、不気味なほど美しい魅力を持った立体の文様──学のない俺でもわかる、そこには明確な”意志”があった。


「──美しい……」

 そう呟いた所長の目からは、涙が頬を伝っていた。

 俺とは比較にならない知識を持つ所長には、この模様の意味するところの深淵までが覗けているのだろうか──そんな風に思わせる涙だった。

「僕は、毎日15時から送られてきていた信号には、パターンの連続性に類似性がなく、まったく別の事を伝えているのだと考えていた──」

 そう言って、涙をぬぐった所長が端末を操作すると、画面上の模様がゆっくりと変形し始めた。個々の投影像が、重なり合いながら滑らかに連続的に遷移する。

 曼荼羅を万華鏡で覗き込んだようなその変形は、不規則でありながら、対称の調和を取り戻すように補完され、ひとつの模様が次の模様へと移ろうたびに、新たな秩序の表情が浮かび上がった。

「だが、それは誤りだった……こうして連続して見るとよく分かる。これは、同じものを示しているんだ」


「常に一定の対称性と情報量が保たれていますね。まるで角度を変えて覗き込んでいるような……?」

 所長の発言に同調するように、橘が口を開いた。

「そうだね、そういう見方もできるだろう。ひょっとしたら空間的な感覚を持つ彼らもまた、我々を観察していたのかもしれないね」

 部屋の空気が一瞬、鎮まった。

「……観察、ですか?」

 藤宮が眉をひそめて問い返す。彼女の声には、わずかな怯えと興味が入り混じっていた。

「なにもそう警戒することでもない。我々だって外宇宙に電磁波をまき散らしている。それをその先で誰かが受け取ったとしたら、その誰かが”監視されている”と、そう思うこともあるだろう」

「……彼らも同じなんだよ。我々とまったく同じことをしている。それだけのことだよ」

 所長はそんな藤宮の不安を笑って返した。


「この模様には、一体どんな意味があるんですかね……」

 俺は自然と浮かんだ疑問を所長に尋ねた。

「そうだね……。空間の位相や幾何学そのものを直接知覚する知性、それを読み解くにはもう少し時間がかかるだろう。だが、このプロセスから、そんな彼らが置かれている状況を考察することはできる」

 所長は端末を操作し模様の変形を止めると、画面を指さした。

「この幾何学模様は4.8時間をかけて、一日ひとつが我々の元に届く。

フフッ…‥、昔のインターネットを思い出すね。いやはや、なんとも遅いダイアルアップ回線だ」

 考えながら苦笑する所長の言ってることが、俺にはよく分からなかった。

「あくまで一つの可能性だけど──そういった何ともしがたい制限の中で、彼らもどうにかやり繰りしているのかもしれない。

もしそうだとするなら──なんてことはない、彼らもてんで不完全な存在だ」

 所長は指を降ろすと、画面に映る幾何学模様を見つめた。

「ああ……、だからこそ、完璧を求めて、こうやって手を伸ばしているのかな……」

 さっきの意味はよく分からなかったが、そう続けた所長の言葉はよく分かる。彼らのやり方が、どんな理屈で成り立っているのかは分からなくても、そこに宿る”意思”だけは読み取れる──確かにそんな気がした。


 そして、所長は最後に、こんな言葉を紡いだ。

「空間的存在の彼らの目には、物質的存在の我々はどう映っているのだろう。

我々が彼らを覗くのと同じように、痕跡は捉えられても、果てしない闇に沈む存在として見えているのだろうか」

「あるいは、認識の枠組みそのものが異なる彼らであるなら──。

我々にはただの闇としか見ることの叶わないブラックホールが、むしろ鮮やかに像を結び、

光り輝くSHINING太陽SUNのように見えているのだろうか……」


 ──こうして、俺たちは一つの答えにたどり着いた。

 もちろん、まだ解き明かしていないことは山ほど残されている。それでも、納得のいく結末を迎えることはできた。

 ただ、残念ながらまだ完全な解読には至っていない。だが、所長は言った。

「これは設計図なんだ。あとは解明した3072種の曲線パターンを、この模様のどこにどう配置すればいいのか。その手順を見つけ出せればいい」

 所長は端末に視線を落とし、少しだけ口元に笑みを浮かべる。

「言語パターン解析に特化した機械学習アルゴリズムに投げれば、有力な候補をいくつか返してくれるだろう。それらを検証していけば、我々が理解できる言語体系に落とし込むことができる。だがね……」

 そこまで言って、所長は俺たちに体を向けた。

「我々は、機械のように休みなく働くわけにはいかない。みんな、本当にありがとう。ここで一度、区切りとしよう」

 労うように皆を見回した所長は、深々と頭を下げた。そんな所長に対して、俺たちも自然と頭を下げていた。

 

 俺は何とも言えない達成感と、胸の奥に安堵が広がっていくのを感じた。

 だが、それも束の間、俺にはまだ重大な決断が残っている。ふと、二人と視線が交錯する。

 言葉はなくても分かっている。すべてが終わって──俺は、答えを出さなければならない。


「高梨くん、申し訳ないが、君にはもう少しだけ手伝ってほしい。二人を宿に送ったあと、戻って来てくれ」

 突然割り込まれた所長の発言は、そんな俺の決意に水を差すものだった。かといって、所長の申し出を断るわけにもいかないし、何より、それは俺の言い訳になった。

 俺は言葉少なに、車で二人を送った。別れ際、簡単な挨拶を交わしたが、二人とも俺にそれ以上を求めなかった。


 観測所に戻ると、所長は置いてあった備品の箱をいくつか開けて、中から取り出した機材を机の上に並べていた。

「悪いね、高梨くん。実は、少し前から考えていたことがあってね。ちょっと、手を貸してほしいんだ」

 やけに柔らかく微笑むその顔は、どこか晴れやかにも見えた。

「何をすればいいんですか?」

 俺には所長の意図がまったく見えず、素直に問い返す。

「うん……。いやなに、君を頼りになる男と見込んでね。

この機材を、磁場観測装置のある中央展望台まで運んでほしいんだ」

 言葉自体は単純な頼み事だったが、どうにも腑に落ちない違和感が残った。それでも言われた通り、機材を車へと積み込んでいった。

 そして、白石所長を乗せて、俺は展望台に車を走らせた。


 展望台に着くと、所長は機材を取り出し、手際よく組み立て始めた。俺にはまだ何をするつもりなのか、全く見当がつけられなかった。

 そんな俺に向かって、所長は作業の手を動かしながら語りかけてきた。

「高梨くん。僕は明日、本社に行ってこようと思う。この磁場観測装置が検出しているノイズの件でね」

 唐突な発表に、思わず息をのむ。しかし、それは遅かれ早かれ、しなくてはいけないことだった。秘密にしておく理由はないし、むしろ公開するのが筋だろう。その為の検証を重ねてきた所長がそう決断したのなら、俺に異を唱える理由などなかった。

「これまでのデータと得られた検証結果を、包み隠さず提出するつもりだ。ただ……内容が内容だ。にわかには信じてもらえないだろうね」

 その言葉に、俺も素直にうなずけた。俺だって、全く無関係の人間が唱える『未知からの信号』をこれまで信じたことなど、一度もないのだから。

「もっとも、本当に大変なのは、信任を得てからかもしれない。我々の研究を検証するために、多くの人間がこの島に押し寄せてくるかもしれないからね」

 確かに、それこそが一番の懸念だった。この島には、大挙して押し寄せる大勢の人間を受け入れる余力などほとんどない。島の環境や、島民の暮らしが脅かされる恐れもある。俺自身の立場すら、危ういものになるかもしれなかった。


「だから、だ。自由にできる今のうちに、やっておきたい事があってね」

 そんな心配を振っておいてそれを放り出すように、機材を組み立て終わった所長は、俺を見た。

「高梨くん。我々に信号を送ってきた彼らに、何か言いたいことはないかね?」

 その突然の質問に俺は面食らった。

「言いたいことですか……」

「ああそうだ。彼らに送りたいメッセージはないかい?」

 聞き間違いかとも思った俺の確認に、所長ははっきりと答えた。だがそれはかえって、俺に疑問を投げかけた。

(どういうことだ? まさか……、所長はその為にここに来たのか? あれはその為の装置?)

「そんなことが出来るんですか?」

 いくつも浮かんだ疑問を集約して、俺は反射的に口をついていた。

「んー……。論理的に考えれば、出来るわけがないね」

 惚けながら返す所長の答えは、人を馬鹿にしたかのようなものだった。


「まあ……、いや、なんだ。ただの思い付きなんだよ。ここに現れている磁場ノイズに、我々のメッセージを被せれば、彼らに届かないかと思ってね」

 とても自信なさげに、所長はここに来た目的を吐いた。なるほど、確かに論理的にはありえない、科学者とは思えないような行動だった。ただ俺には、そんな所長の姿が妙に愛嬌のあるものに映った。

「そうですか……。でも、そのメッセージが仮に届いたとしても、こちらの言葉で彼らに伝わるんでしょうか?」

 そんな所長の思い付きに、浮かんだ疑問を投げてみた。

「それは考えてある。あの曲線パターンと同じ形状の磁場ノイズを生み出すように調整したこの装置と、先ほど384種に絞り込んで走らせた簡易的な言語解析の翻訳表がある。これが正しいとは、保証できないが……、簡単な言葉なら変換できるんだ」

 そこまで用意していた所長の熱意に俺は敬服した。しかし、そこまで考えての事なら、これを行うのは俺じゃないはずだ。

「なら、このメッセージは途方もなく大きな意味を持つはずです。所長がするべきではないですか?」


 しかし、所長は首を振った。

「このメッセージはいつ届くかも分からない。何日、何年、何十年先か、あるいは千年、万年先かもね。だから、我々はほんのささやかな抵抗をするんだ。メッセージが届いた時、当事者が生きていた方がいいだろう?」

 それは否定しようのない説得力があった。それでも、誤差に収まる抵抗にしかならないのかもしれないが……。


 しかし、そんな重大なメッセージを任されても、俺には何ひとつ思いつかなかった。

「なにも深く考える必要はない。誰に忖度する必要もない。心に浮かんだ言葉でいいんだよ」

 そう言われると余計に考えがまとまらない。

 最初に頭に思い浮かんだのは、”Hellow World”だったが、それはあまりにも芸がない。

 次に浮かんだのは、”誕生日おめでとう”だが、受け取る相手は意味が分からないだろう。

 単純で、普遍的で、それでいて「らしさ」があるような、そんな言葉を探した。


 考えあぐねながら、ふと視界に入ったのは、展望台から見渡す海と島々だった。

 それは、俺にとって生まれた時から変わらない、見慣れた景色、いつもの光景だった。

「…………。──”同じ海を見ている”。なんてどうですか?」

 口にした瞬間、確かな実感を帯びた、これ以上ない言葉に思えた。

「君に任せてよかったよ。……とてもいい言葉だ」

 目を細め、笑みをみせる所長も、同じように思ってくれたようだった。


 所長は機器の設定をし、磁場観測装置に添えつけた。

 メッセージが正しいのかどうかも、正しく解釈されるのかどうかも、そもそも相手に届くかどうかも定かでない、こんな行為に意味なんてないのかもしれない。しかし、妙に心を擽る。

「こういう馬鹿らしい行いというのは、男の子の特権だ。女の子の理解を得るのは難しい。だから、二人は誘わなかったんだ」

 そんな俺の心の内を見透かす所長の冗談は、俺を笑わせた。そんな俺に、所長の言葉は続いた。

「高梨くん、君はこの先の未来をどうするか決めているかね」

 それは今の俺が抱える悩みの本質を突いた問いだった。心をすべて見透かされたようで、一瞬戸惑った。

「『未知からの信号』──これは多くの人間の注目を集め、そして虜にするだろう……」

「私もね、今さら後進の邪魔などしたくない。

残した謎を、若くて優秀な子たちが解明してくれるというなら、喜んで道を譲ろう」

 しかし、それは杞憂だった。それはむしろ、所長の未来の予想図だった。

「それを行うのは──高梨くん、君だっていいんだよ」

 それは冗談の続きなのか、それとも本気で期待してくれているのか、俺には分からなかった。

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